るか
雀のチュンチュンと囀る声で藍香は目覚めた。時間は5時半。顔を洗いに洗面に向かった。洗面所には誰もまだ居なかった。
シスターが寮生の朝食の支度に向かう途中、藍香に声を掛けて来た。
「藍香さんおはよう。よく眠れた? 」
「はい、ゆっくり眠りました」
「そう、良かったわ。御両親に連絡はした? 」
「はい、同僚もシスターも良い人達と言うと『良い人に囲まれるのは宝だ』と母が言ってました」
「まあ、素敵なお母様ね」
その時死角なっていた窓辺にるかは居た。ここからは見えないが、母の居る拘置所の方角を見つめていたのだった。そこで聞こえて来た藍香とシスターの平和な会話が、るかの怒りを誘ってしまった。
「素敵な母親?良かったわね。ならここに来る必要なかったんじゃない? 」
と睨み付けた。シスターが咄嗟にるかを止めに入ったが止まらなかった。
「貴女は帰る家があるじゃない!頼る家族が居るじゃない!私だってお父さんが倒れなければ幸せだったんだから!
誠実なお父さんが脳出血で倒れて、手術を受けて助かった。良かったと思ったわよ!お父さんの世話したかったわよ!でも退院したら後遺症で理性失って…お母さんと私を罵倒しまくって!そして性に固執してしまう様になってた!お母さんも私も襲われて、毎日襲われて…父親からよ!大切だった父親からよ!妊娠した事に気付いたショック分かる⁉︎父親の子供よ⁉︎そして父親が私のお腹を蹴って蹴って!出血して倒れた事ある⁉︎望まない妊娠した事ある⁉︎流産させられた事ある⁉︎薄れていく記憶の中で、母が父を刺したのが見えたのよ!体に力が入らなくて助けれなかったのよ!
母が私を守る為に刺したんだと思ってた。そうしたら、ここへ突然連れてこられて『貴女が私の夫を奪ったのよ!』って言われてたの。私は母に捨てられたの!待ってる人が居るのに辛い振りしないで!私の前で笑わないで! 」
るかは全ての胸中の咎を藍香に投げ付けた。シスターが何度も静止しようとしても、どうにもならなかった。シスターが再度るかを止めた。
「るかさん、貴女が辛いのは分かるわ。だからと言って人を傷付けてはいけないわ」
シスターがるかを宥めながら事務所に連れて行った。異変に気付いたもう1人のシスターが藍香に寄り添いに急いで来た。
藍香にとって、るかが受けた被害の話は驚愕するものだった。言葉を失い『こんな悲劇が身近に有るなんて…』と大きくショックを受けた。るかの勢いも重なり、過換気発作を起こした。苦しい…苦しい…こんな時に…あの自分を苦しめる記憶が押し寄せて来た。息も心も苦しい…怖い…怖い…。
恐怖の中でもるかの境遇の凄まじさにただただ言葉を失い、昨日1日幸せを噛み締めていた自分を責める気持ちが湧き上がって来た。
「藍香さん心配無いわ。私が側に居る。ゆっくり息を吐いて。…そう、ゆっくり。大丈夫…。ゆっくり息を吐いて…」
藍香を支えながらシスターは、なごみも居る居室に部屋に連れてきた。なごみは響いて来たるかの怒鳴り声で、だいたいの事を察し
「ちょっと顔を洗ってくるわね』
と席を外し、シスターに頷いて部屋を出た。
しばらくすると藍香も落ち着いて来た。
「シスター…。私ってダメですね。こんなに辛いるかさんが頑張って暮らしているのに…。私は…るかさんよりずっと恵まれてるのに、ドン底に居る思いで居ました」
と息絶え絶えに言った。
「藍香さん、傷に深いも浅いも無いのですよ。傷である限り適切な手当が必要なのです。貴女は何も自分を責める事は無いわ」
穏やかで心に語りかける様にシスターは言った。
「でも! 」
「新約聖書の中で、イエスの言われた言葉があるわ。
『ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を野原に残しておいて、その居なくなった一匹を見つけるまでは探し歩かないであろうか。そして見つけたら.喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰って来て友人や隣り人を呼び集め、私と一緒に喜んで下さい。居なくなった羊を見つけましたから と言うであろう。』
この聖句は、罪人が悔い改めた時に『良く正義を取り戻し、私の元に戻って来てくれた」
と言う意味をイエスが例え話で話された物なの。貴女には罪は無いわ。でもね、この話は傷付いた人の痛みが治った時にも、悩んでいる人が解決した時にも、同じく言える事なのよ。
るかさんの様に将来への不安や家族の問題の闇に迷い混んでいる…。勿論闇の中をイエス様はるかさんを探しに出ている事でしょう。るかさんは確かに大きな傷を負った…。羊飼いも勿論るかさんの傷を癒したいの。でもね藍香さん、羊飼いは貴女の傷を見逃すかしら?貴女の傷はるかさんの傷よりも小さいからと、この羊飼いは放っておくかしら? 」
と諭した。
シスターが私の傷が癒える事を大切に願ってくれている。その為にケアしてくれている…ヒシヒシと伝わって来て藍香から自分を責める物が取り払われた。
「シスター…、ありがとうございます」
藍香はシスターを抱きしめて声をあげて泣いた。
「藍香さんは心が綺麗ね。怖かったと思うのよ。私達が絶対守るから。力になるから。心配無いわ」
藍香は泣きながら頷いた。
「そしてるかさんの事なんだけど.…大きな事態の中で自分自身が壊れない為の方法として『強がる』事しかできなくいでいのが分かると思うの」
「はい…分かります」
「そう、傷だらけなのに倒れまいと意地で立ち尽くして居る状態なのよね。るかさんはこれからも藍香さんを含めて皆さんに辛く当たるでしょう。出来るなら、るかさんを許してあげてくれないかしら…。私達も彼女の心をこじ開けてはいけないと思って対応を考えているのだけど…」
「シスター、とても良く分かります」
「元々本当のるかさんは人を責める人間では無いの。どうか彼女の罪を許してあげて貰えないかしら…」
「勿論許します。…そして るかさんの痛みに触れてしまった事を許して欲しいと思います。」
「痛みを理解し合う…。貴女はそれが出来る人なのね。素晴らしいわ」
そして日常が戻った。
藍香はるかを無視するのでは無く、るかの1人のスペースを大切にする事にした。




