第一章 8
仏壇に手を合わせる。
これは母が死んでから習慣化されたもので、今はこのことに対して特別な感情はない。食事のように当たり前なものにしてしまえば、あの時に抱いていた感情は薄れていくものだ。
ゆったりと立ち上がる。
父が出て行った室内は秒針の音だけが響く。
虚しさが足元から這いあがってきて、胸元まで来そうになったとき、僕はすかさず家を出た。
息詰まりそうな空気は、夏の蒸し暑さでかき消されていった。
*
時計を見ると、待ち合わせの五分前だった。
ここは学校近くの駅と違って、人通りは疎らで、土曜の昼間だというのに穏やかだった。これなら、すぐに西尾さんを見つけられるだろう。
スマホに視線を落とす。ここを指定したのは西尾さんだった。僕の家からも、学校からも離れていて、微妙な距離にある駅を指定してきたのは意図的なものだろう。そういうところは抜け目がない。僕としてもこの方がありがたかった。
西尾さんは待ち合わせ時間ぴったりにきた。
学校では制服姿ばかりを見ているからか、私服が妙に新鮮で別人のように感じた。おしゃれが疎い僕でも分かるほど、身なりには気遣っていて、ストライプのT―シャツにベージュのロングスカートを履いていた。肩からは黒のショルダーバッグを提げている。
陽が眩しいのか、はたまた僕の顔を見て不快になったのかわからない表情をした西尾さんに少したじろぐ。
「さあ、行こうか」
そんな味気ないことを言って、僕らはICカードで改札を抜け、電車に乗り込んだ。
西尾さんは常に僕と一緒にいないようにふるまった。
電車では、僕と一個分の席を開けて座っていたし、病院の最寄り駅からバス停まで歩く道のりでも、僕から離れて歩いていた。何度か僕から話しかけた方が良いのかもしれないと思ったけど、切り出す話題も見つからず、言葉はすぐさま頭のなかでしぼんでいった。
緑地台公園行きのバスに乗り込み、僕らはばらばらの席に座った。幸いにも、車内は混雑しておらず、老人夫婦と小さな男の子を連れた母親しか乗っていなかった。無機質なアナウンスに耳を傾け、微かに揺れる車内に身を任せて、僕は目を瞑った。
はっと気がついたときには、もう篠田さんの入院先の緑地台病院が見えてきていた。次止まりますというボタンにはランプが灯っており、小さく息を吐く。僕の前方に座っている西尾さんはもうすぐ着くことを察したのか、耳にしているイヤホンを外し、小さなショルダーバッグを肩にかけた。
バスから降りると、夏の熱気に包まれる。思わず顔をしかめたくなるような陽射しにうんざりしながら、病院に続く螺旋状の上り坂をゆったりと二人で歩む。
そろそろ着くことを、篠田さんに伝えた方がいいかもしれないと、スマホを取りだす。あれほど迷っていたラインのやりとりは、昨晩解消されて、篠田さんの方から面会謝絶が解かれたとの一報があった。安堵する気持ちを隠すように、僕は明日お見舞いに行くことを告げた。一人で? というメッセージが飛んできたので『もしかしたら西尾さんと行くかも』と伝えてからは既読がつくだけで返事はなかった。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
スマホに向けていた視線を西尾さんに向ける。
西尾さんははるか先を見つめていた。
「いいですよ」
親子連れが僕らの横を通り過ぎていき、あたりは静まり返る。
「なんで、ずっとロイドって呼ばれているの?」
夏風が僕らの間を切り裂くように吹いた。
西尾さんの前髪が揺れる。
「さあ、僕にも正直分からないというのが本音で、聞いた話によると、どうやら僕がアンドロイドみたいに心を持っていないからそう呼ばれているそうですよ」
いつの間にか敬語になっていることに薄々気がついていたが、どうしてそうなったのかという理由についてはあまり考えたくなかった。
「随分、他人事のようなのね。人の心を持たないのがアンドロイドね。間違っているようで、間違っていないのかもしれないわね」
西尾さんは答えの分からない答案用紙を眺めているようだった。
でも、と西尾さんは後ろで手を組んだ。
「心が無くなって、別にこの世の中生きていけるんじゃないかしら。大人になれば、そういう余計な感情ほど邪魔になってくるものだと思うし。だから、別にそれでいいのかもしれないわね」
その言葉は僕の体に浸透していかなかった。どこか着飾ったもので、背伸びしている感じだ。
僕は足を止める。
「生きるってそんな簡単じゃないと思います」
病院の自動ドアが開く。
冷房の効いた涼しい空気が流れ込む。何度くぐっても慣れない。非日常に溶け込む悲しい気配が体中に纏わりついてくる。
待合室は、土曜日だというのに人でごった返していた。
さっきまで饒舌だった西尾さんはすっと存在感を消し、金魚のふんのように僕の後ろをついてきた。
まだ三度目だというのに、僕は彼女の病室までの道のりを覚えてしまった。そのことがどうしようもなく悲しくて、胸を締め付けるのは母親の面影と重なるからだろうか。あのときも、こうやって、少しずつ病院に慣れていった。
広い待合室を抜けて、数字が並ぶ診察室を過ぎると、右手に入院病棟へとつながる渡り廊下がある。そこを慣れた足取りで進み、入院病棟のエレベーターホールがそろそろ見えてくるところで足を止めた。
まさに蛇に睨まれた蛙のように体がすくみ、それ以上足が動く気配がなかった。後ろにいる西尾さんにはどうしたのと肩を叩かれる。
僕は唾を飲み込んだ。
廊下の反対側には、目を虚ろにした白坂さんがこちらに向かって歩いてきていた。あちらも、こっちに気がついたようだったが、表情を一つ変えずにどんどんと近づいてくる。
西尾さんは小さな声で、早苗さんと言った。
白坂さんはすれ違う直前で足を止める。
「なんでまたお前なんかが」
幾度となく敵意を向けられた経験はあるが、これほど真に迫ったものは初めてだった。怒りに絡まる悔しさみたいなものが、余計に僕の心を揺さぶる。
白坂さんはそれ以上の言葉を重ねることなく、僕らの前から去っていく。
「相当嫌われているわね。何かしたの?」
「何もしなかったから嫌われたんです」
そう返すと、西尾さんはくすりと笑い、なによそれと言った。
何枚もの白いシーツが夏風になびいている。屋上はもっと殺風景だと思っていたけど、地面には芝生が敷き詰められ、そのあちらこちらに花壇があり、思いのほか色彩豊かだった。花壇で作られた道の先には、いくつかのベンチが添えられており、そのベンチの一つに彼女の姿があった。
僕らの存在に気がつくと、篠田さんはこちらに向かって大きく手を振る。そこには薄い桃色の病院着ではなく、私服を身に着けた彼女の姿があった。青のジーンズに、白いロゴ入りのT―シャツの袖から白くて細い腕が伸びていた。
「で、何で今日は屋上なの?」
僕らが篠田さんの病室に行ったときには、もう彼女の姿はなかった。その代わりに屋上に言ってますというメモだけが置かれていた。
「だって、こっちの方が気持ちいでしょう。あんな陰湿なところにいると、なんかみんな暗くなっちゃうんだもん。なんかそれは嫌だなーって」
篠田さんは遠くを見つめていた。
「それに今日はあやちゃんも来てくれたでしょう。もう、嬉しくて!」
そう言うと、西尾さんの手を掴み、何度も上下に振った。
西尾さんはその手を振りほどき、真剣なまなざしを篠田さんにぶつけていた。その表情に篠田さんだけではなく、僕もどきりとした。
「わたしは大丈夫だよ」
西尾さんの開きかけた口が閉じる。そして、一瞬口元を歪ませてから、西尾さんは息を吸った。
「じゃあ、どうしてこんなにも頻繁に病院にいるの?」
篠田さんは口をぎゅっと結び、何か覚悟を決めたような表情をした。そうだ、これは別に僕と篠田さんだけの秘密である必要はないのだ。そう思っているのに、僕はどうしてかそれから放たれる言葉が全く関係のないものであることを願っていた。
「わたしね……」
それは一瞬のできごとだった。
作られていた笑顔はガラスが割れたようにばらばらになっていき、僕の差し伸べる手をすり抜けて、篠田さんは芝生の上に倒れこんだ。重量感のあるどさりという音と同時に、西尾さんの小さな悲鳴が空中に響いた。
*
僕は何時間こうしているのだろうか。看護師さんには何度も諭された。貧血で倒れただけで大丈夫だから今日のところは帰りなさいと。でも、僕はこうやって頑なにベッドの横にある丸椅子にしがみついている。
西尾さんはこのあと塾があるからと言って、ついさっき帰ってしまった。
独りになると、より得体のしれないもやもやが足元から這いよってくる。どうしてこんなにもここが怖いのだろうか。
ベッドの中で安らかに眠っている篠田さんは、このまま目を覚まさないような気がした。溢れる感情を抑えるようにして窓を開けた。
夏の匂いが入り込んでくる。
西日は山々の稜線のはるか向こうからこちらを照らす。その温かみだけが僕の心を穏やかにさせる。
白いかけ布団からはみ出た小さな手を見つめる。その手をそっと握った。どくんどくんという心臓の鼓動が聞こえる。これは篠田さんのだろうか、それとも僕のだろうか。
「きみは、大胆だね。女の子の手を触るだなんて」
薄ら眼を開けた篠田さんはからかうように笑っていた。
「いや……これは」
たじろぎながら、手を離し、僕は膝の上で握りこぶしを作る。安堵の中に紛れる羞恥心がぬぐい切れず、手元ばかりを見つめた。
「いつもきみには恥ずかしいところばかりを見られている気がするよ。最近ね、色々な人がお見舞いに来てくれるの。きみたちが来る前には早苗が来てくれたし、その前は幹人とはらっちもきたし。もう本当に人気者で大変だよ……」
言葉が続きそうな余韻を残したまま途切れて、僕は思わず顔をあげた。
篠田さんは上半身だけを起こして俯いていた。以前よりもきれいに整理整頓された病室はどことなく生活感を失い、人の気配を薄くさせていた。僕はそれがひどく淋しいものに感じられた。
「わたしやっぱり、このままいなくなるのは嫌だよ」
その声は震えていた。
僕は彼女に何ができるのだろうか。何をしてきたのだろうか。僕だけしかその秘密を知らないのに、目を逸らしてばかりだったように思う。こんなことを今更想うのはおこがましいのかもしれない。けれど、今の弱々しい彼女を見ていると、そのおこがましさを超えて何かをしなければならないという気にさせる。
そうやって僕はまた気がつく。
僕は篠田さんに期待していることを。
それでも先に口を開くのは彼女だ
「わたしね、色々なものを諦めるって言ったでしょう。だからね、読んでいた小説も売ったし、勉強もしなくなったの。友達も、家族も、色々なものを突き放そうと思ったのに……気がつけば、また近くにいるんだもの、ずるい。生きたいと思っちゃうじゃない」
かけ布団の端は小さな手で握りしめられ、くしゃりと歪んでいた。白い表面にいくつかの水滴が零れ落ちて、色を変えていく。どうしてこんなにも、彼女の横顔は切なくさせるのだろうか。胸の中に溜まる感情が今にもはち切れそうなほど膨張している。
「じゃあ生きよう。どこまでも、何歳になっても生き続けよう」
考えるよりも先に言葉が出ていた。それでも、その言葉に後悔はなかった。
「そんなの無理だよ! もう、先生は何度も今年が最期だからって言ったんだよ」
投げられたかけ布団は空中を泳いで、僕の目の前に落ちていった。子どものように顔をくしゃくしゃにした篠田さんは小さく萎んでいた。
「無理なんて。篠田さんらしくない」
僕は立ち上がり、篠田さんの小さな肩に触れる。震えていた。小刻みに上下に動くその感触に生命を感じた。こんなにも必死に彼女が生きていたのだと改めて思う。ならば、もう迷うことなんてないんじゃないか。
「きみは……きみは何も知らないからそう言えるんだよ」
「ちゃんと知っている! 篠田さんがもうすぐいなくなってしまうことも、必死に生きようとしていることも知っているんだ。篠田さんは言ってくれたじゃないか。僕だからだって」
なんだ、何が起きているんだ。血が全身で沸騰しているように熱くて、でも頭では冷静に彼女を見つめている。
「きみまでわたしを……」
篠田さんの保たれていた表情は一気に崩れ、顔を手のひらで覆って涙を流した。僕はいつもこんな彼女ばかりを見ている気がする。明るくて、天真爛漫で、純粋で、意地っ張りで、やせ我慢ばかりしていて、誰よりも泣き虫な人なんだ。それが彼女なんだ。
「わたしは生きたいって願ってもいいのかな」
篠田さんは鼻をすすって言った。
「良いに決まっているさ」
「みんなに……言われたんだ。急にいなくならないでねって」
「それほど心配しているのさ」
はらっちの言葉が脳裏をよぎる。そんな最悪なんて起こるはずがない。あれはあくまでも都市伝説みたいなものだ。
篠田さんは深く息を吐いて壁に寄りかかる。長い髪の毛が彼女の右目を隠していった。その流れてきた髪を篠田さんは優しく撫でる。その光景は、僕の鼓動をはやくさせた。
髪を撫でる手を止めて、篠田さんは何かを思い出したように語り始めた。
「わたしね、小さなころから、山に登って夕日を見るのが夢だったんだ。ほら、テレビとかでよく見るじゃない。苦労して、足はぼろぼろだけど、目の前の絶景に目を奪われるってやつね。なんかあんな気持ちを味わいたいなって。とくに、こんなところにずっといるとね。今は無理でも、いつかはそれをやりたいなー」
篠田さんは目を細めて窓の向こう側に広がる景色を見つめていた。夕日で赤く染まった山々は燃えているようだった。
そうだ、と急に目を輝かせてこちらを向いた。静止していた髪の毛が生き物のように宙を舞い、彼女の二重で大きな目が露になる。
「きみが行ってきてよ!」
「はぁ!?」
あまりの驚きに開いた口が塞がらない。
忘れていた。
篠田さんの傲慢さを。
窓から入り込む穏やかな風が僕の髪を揺らした。
篠田さんの微笑むその姿はまさしく悪魔そのものだった。