第一章 5
甘ったるい匂いが鼻孔を刺激する。
周囲を見渡しても、男は僕しかいなかった。
何かにはめられてしまったような気分になり、僕は目の前にいる篠田さんに悪態をついた。
「これは何の嫌がらせ?」
間違いなく聞こえているはずなのに、篠田さんは目の前にどっさりと置かれたパンケーキに釘付けだった。本当に勘弁してくれよと頭を抱える。
久しぶりに学校を訪れた篠田さんは素っ気なかった。もちろん、あそこは病院ではないし、今まで通りのスクールカーストからしても納得ができる行動だった。それなのに、どうしようもないもやもやが離れなかった。
そんなとき、滅多にならない僕のスマホが震えた。
ラインの通知だった。
すぐさまスライドして内容を見れば驚くべきものが羅列されていた。
見え覚えのない送り主に、あなたの個人情報をネットにばらまくという脅し文句だった。もちろん、最初は真に受けなかったが、どんどんと僕の
個人情報がラインに並べられて、無視していられなくなった。そして、いざ送り主が指定した場所に行ってみると、制服を身に着けた篠田さんが悪魔の微笑みを浮かべて待っていたという、軽いホラー話である。
「きみは甘いものが嫌い?」
「いや、これは好きとか嫌いとかそういう問題ではないではなくて。なぜ僕をこんなところにという……」
僕はなぜか睨みつけられて、ため息をつかれた。それはどちらかというと、僕がするべき態度じゃないかと思ったけど、それは心の中にしまっておいた。
「これ!」
どこから出したのか闘病日記を見せびらかし、激しく同じところを指で弾いた。
目を凝らして見る。
――誰かと一緒にパンケーキを食べる。
指をさしたまま満面な笑みを浮かべている篠田さんは、やはり悪魔だった。
その誰かに運悪く選ばれてしまった僕は仕方がなく、テーブルの真ん中に置かれたパンケーキを自分の皿に盛りつける。フォークでパンケーキを刺すと弾力があり、パンケーキにかかっていたクリームが滑り落ちる。
口に入れると、その甘い匂いが口いっぱいに広がり、それだけで胸焼けを起こしそうだった。
篠田さんは甘いのが好きなのか、リスのように頬を膨らませて食べている。
「別にここに来るのが僕である必要はなかったと思うんだけど?」
しっかり目が合っているはずなのに、篠田さんは一向に返事をする気配がなかった。どうやら、都合の悪いものは聞こえなくなるらしい。
便利な耳である。
「まあ、もういいや。とりあえず、元気そうでよかった」
今日初めて学校の篠田さんを見た。いや、高二になってから同じクラスなのだから、初めてという表現はおかしいかもしれないけど、僕としては初めて見たような気分だった。
教室での篠田さんは常に人に囲まれていた。明るくて、天真爛漫という四字熟語が似合う人だと思った。あそこにいる篠田さんは病気という二文字を背負っているようには見えなかった。
さながら、物語の主人公を見ているようで複雑な気持ちだった。
僕だけが篠田さんの秘密を知っている。
それでいいのだろうか。
「わたしなんかよりも、よっぽどきみの方が病気みたいな顔していたけどね。学校ではいつもああなの?」
大きなお世話である。
「学校からはみ出ているような人間はみんなあんな顔をするんだよ」
「なにそれ」
と言ってくすくすと篠田さんは笑った。
「でもさ、これを知っているのがきみで本当によかった。やっぱり、きみ以外の人に知られたら、今日みたいに自然に笑えなかったと思う」
体がむず痒くなるようなことを平気で言えるのが篠田さんだ。
僕は面倒なことを極力避けたい質だから、誰に対しても深入りしないようにしている。それが篠田さんにとってありがたいことなのだろう。
「それで、もういいの? 体の方は」
僕は知っていた。だけど、念のためというか、白坂さんや他のクラスメイトのためにも訊いておかなければならなかった。
「そうだね、もう体が治っていたなら、きみとこうやってパンケーキを食べに来なかったと思う。別にきみが嫌いとかそういうことじゃなくて。わたしはずるいから、きみから逃げていたと思うんだよね」
篠田さんは時折、悲しそうに笑うのだ。
それは死を身近に感じている者がよくやる行為だと知っている。
十年前に病気で亡くなった母親もよくそうやって笑っていた。その面影が重なるほど、僕の胸は苦しくなる。
「じゃあ、パンケーキなんて食べている場合じゃないんじゃない?」
篠田さんの口元まで運ばれかけたパンケーキは僕の言葉でとまった。そして、ゆっくりと皿へと戻される。
「そうかもしれないけど、こういうことも今やらないともう本当にできなくなるでしょ。ほら、もう寝たきりになっちゃうとさ」
篠田さんは目を細めてそう言った。
確実に病魔は篠田さんの体を、そして心を蝕んでいるようだった。学校ではけして見せなかった哀愁を漂わせる。
篠田さんは着々と死ぬ準備を始めている。
僕には死ぬまでにやりたいことなんてあるだろうか。
考えてみても思いつかないし、きっと僕なら理不尽ともいえるこの死を容易く受け入れてしまうだろう。
「難しい顔をしているね。パンケーキ食べた方がいいよ」
フォークがクリームの乗ったパンケーキを攫い、僕の口元へと運ばれてきた。周囲からの視線を感じるのは気のせいではないだろう。
篠田さんはクリームのついた口元をにやりとさせている。何ともだらしない表情だ。
僕は震える手を抑えるようにして、前のめりになり、目の前にあるパンケーキめがけて口を開ける。しかし、直前で、パンケーキはUターンして、篠田さんの口の中に吸い込まれていった。
「残念でした」
口を押えて笑っている篠田さんは、やっと口元についていたクリームのことに気がつき、今更になって頬を赤く染めた。
そして、まるで僕が悪いかのように睨み、何で言わなかったのと少し怒っていた。たとえ、クリームのことを指摘していたとしても、怒られる未来は変わらなかっただろうし、これはこれで良いと勝手に納得した。
店内はより一層活気づき、賑わいをみせていた。立地からいっても、この時間帯がピークなのだろう。高校生から社会人まで様々な女性がひしめき合っており、居たたまれない気持ちになる。
「やっぱり、白坂さんとかと来た方が良かったんじゃないかな?」
僕は何かから逃げるようにそう言うと、篠田さんは眉間にしわを寄せた。
「きみはさ、何か勘違いしていない? 別に嫌がらせの意味でここに連れてきたわけじゃないからね」
なんと嫌がらせではなかったのかと驚いてしまった。
「それは僕が篠田さんの秘密を知っているから?」
篠田さんは持っていたフォークを置き、入念に口元を拭いてから、言葉を探すように話し始めた。
「うーん、それだけじゃなくて、きみはさ、自分の良さに気がついていないんだと思うんだよね。自分で気がつけという方が難しいのかもしれないけれど、きみは常にフラットというのかな……」
物は言いようで、つまるところ感情がないという悪口をオブラートに包んで言い換えただけのような。当人は酷いことをいったという自覚は無いようで、腕を組んで唸っていた。
「そうだ。同情なく話を聴いてくれるからかな」
もっとひどくなった。
「そいつはどんな薄情者ですか」
そう言うと、篠田さんは目を見開いて驚いているようだった。いや、どこに驚く要素があったのか、常人の僕には理解できない。
「もしね、きみと同じようなことを早苗に話したら、きっと早苗とはもう友達じゃいられなくなるし、幹人に話しても、野球部辞めるみたいなことになると思う。けれどさ、きみはそこまで深入りしようとはしないでしょ。そういう意味では奇跡的な存在だよ」
なんだ、奇跡的って。僕にはよくわからないけど、確かなことは、僕は野球部もやめないし、友達関係が破綻するということも起きないということだ。
「それでいて、きみはこっち側の人間になりたがっているように見える」
喧騒は遠のいていった。
まるで僕と篠田さんしかいないような、そんな錯覚に陥る。
「それはどういう?」
「きみもわたしも諦めているということかな。わたしはさ、もうわたしがいなくなる準備を始めている。この闘病日記もそうだし、幹人と別れたこともそうだし、今はクラスメイトとも少しずつ距離を置き始めているところ」
篠田さんは水滴だらけのコップに口をつける。
淡い桃色の唇は潤いを取り戻して艶やかだった。
その唇が動く。
「もちろん、悔いは残したくないし、できるのなら、みんなと最期まで楽しんでいたい。けれども、わたしはみんなと同じように明日が来るわけじゃない」
篠田さんは手元に視線を落とした。
これからという人生を理不尽に閉ざされてしまうのはやはり苦しいはずだ。同年代はこれから様々な経験をして、苦しいことも、楽しいことも味わい、人生を謳歌できる。そんな当たり前は、篠田さんに保証されていない。
そんな運命に絶望することなく、立ち向かい、自分なりに折り合いをつけようとしている。
篠田さんは死に向かってきちんと歩んでいる。
じゃあ、僕はどうなんだ。
僕はみんなと同じようにその当たり前が保証されているのに、自らその当たり前を壊そうとしている。
この前の縄の感触が手に蘇る。
僕の生きるとはそういうことでしか得られなくなってしまった。
篠田さんの喉元が動いた。
「きみは何を諦めているの?」
感情が複雑に混ざり合い、絡まった糸のようにほどけない。
僕は色々なことを諦めた。そうして諦めを重ねていくと、生きることすらも諦めるようになった。こんなにも窮屈なら解放された方がずっと楽だと考えるようになってしまった。
そのことをこのまま篠田さんに伝えるわけにはいかないだろう。
僕は何も語らずに首を横に振った。
それを予期していたように、篠田さんは口元を緩めた。
「じゃあ、わたしが死ぬまできみはちゃんと生きていてよ。それだけは約束ね」
篠田さんは小指をこちらに向けてくる。
その指に僕の小指を絡ませて、聞き慣れた歌を篠田さんは口ずさむ。
その指がいつまでも離れてほしくはなかった。でも、その想いは儚く散っていき、するりと僕の小指からすり抜けていった。
「なんで僕なんかに」
篠田さんの後ろにある窓から西日が差し込んだ。
「違うよ。きみだからだよ」
どうしてこんなにも心が痛いのだろうか。今までに感じたことのない感情が体の底から湧いてくる。
これはなんていう感情だろうか。
まだ今の僕にはわからない。
僕はパンケーキを頬張る。
パンケーキは相変わらず甘かった。