第一章 4
僕の精神はアンドロイドによると、イエローなものらしい。一体どういうデータから、そのような結果に導いているのかわからないが、あながちそれは間違っていなかった。
僕はある時を境に、普通ではなくなった。
そのあるという曖昧な場所は僕にも分からない。ただ、周りの人が、例えば、僕の父は僕の変化に気がついていたように思う。
僕は放課後の教室にカメラを向ける。
そこはあの日、少女が佇んでいた空き教室だった。
相変わらずここは殺風景で、何の面白みもないところである。もちろん、少女の姿なんてあるはずがない。あるのは掃除用具などが入ったロッカーくらいだ。
僕はそのロッカーを開ける。
かび臭い匂いが刺激的だったが、もう慣れていた。
何枚かの雑巾がかけられているバケツを取り出し、その下にある綱引き用のロープを手に取る。
これがここに来る理由だった。
僕はファインダーから覗く世界は好きだったが、写真を撮るという行為自体に魅力を感じていない。ここに来るのも、別に写真を撮りに来ているわけではなかった。
ロープの端を持ったまま立ち上がる。ロープはだらしなく足元に丸まり、綱引きに使うにはかなり短いものだった。でも、僕が使おうとしているロープの用途としては十分な長さである。
僕は勢いよくロープを引き寄せ、首元に持ってくる。ざらざらとした感触が喉元に触れた。脈を打っている。鼓動はどんどんと加速していた。
両手に握りしめたロープを僕は一気に後ろへと引いた。
喉に圧迫感が襲いかかってくる。
血液が体中を駆け巡り、必死に生きようとしていた。
僕はより力を込めて、ロープを引く。
声にならないような声が漏れて、視界は白く歪んでいる。
苦しい。でも、それでいい。
僕は何か分からないものに苦しんでいた。
その正体は未だに分からない。
「なにしているんだ!」
その声に聞き覚えがあった。だけど、僕の手はロープを離そうとはしなかった。まるで決まった運命を受け入れるようにその行いを続けた。
大きな影を視界の端でとらえる。
その瞬間、僕は吹っ飛んでいた。いや、正確にはそういう感覚だった。実際に目を開けてみると、さっきいた場所と差ほど変わらない位置にいた。
じんわりとした痛みが全身に広がっていき、体は走った後のように熱くなっていた。何度も咳きこみ、視界はぼんやりと歪んでいた。体は無くしてしまった酸素を必死にかき集めている。
僕は生きていた。
呆然としているところに手が伸びてきて、胸倉を掴まれる。
「普段から何考えているか分からないけど、今回のは本当にわかんねーぞ! おい、何したのか分かっているのか。ロイド」
目を見開いて怒っている幹人の顔がずっと近くにあった。松葉杖は無造作に放り投げられていた。
握っていたロープから手を離す。
「関係ないだろ」
「どうしてお前はいつもそうなんだよ」
その声はどこか悔しさが含まれているように聞こえた。
生意気で上から目線の幹人はそこにはいない。僕はアンドロイドというあだ名なのに、何もこの世界のことを理解していない。
僕は間違っているのだろうか。
幹人は僕の胸倉から手を放して、片足で立ちあがる。散らばっている松葉杖を回収して、こちらを向いた。
――篠田心愛のところへ連れていけ。
幹人はそれだけを告げて、こちらに手を差し伸べた。
*
二度と来ないという誓いはあっさりと破った。
一週間ぶりの病室は当たり前だけど何の変化もなく、ただただ非日常を彩っていた。
篠田さんは僕の顔を見ると顔をぱっと明るくさせて、幹人を見るとどこかむっとしたようだった。
それで、不思議に思った僕は幹人がトイレに立った時に、幹人との関係を篠田さんに訊くと、元彼だと篠田さんは何の躊躇いもなく告げた。
なるほど、と僕は顔を縦に振った。
「でも、きみはもうここに来ないと思っていた」
篠田さんの顔色は前よりも血色がよく、頬は薄いピンク色をしていた。
「半ば無理やり連れてこられたようなものだけどね」
断わる余地などなかった。
幹人はバスに乗るときも、地下鉄に乗るときも僕より前にいた。僕がちゃんと乗るのを確認してから、よくやったというように背中をぽんと毎回叩いてみせた。それは不器用な幹人なりの配慮だったように思う。
「まあ、それは許すとして、これは何?」
篠田さんの手に持たれていたのは色紙だった。
はて何だろうと、僕は篠田さんが指さすところを見る。
そこにはこう書かれてあった。
――早く元気になってください。空田
何とも味気ないコメントである。
「これは誰が書いたの?」
その言葉に呆れたようなため息をついた。
「きみはもう少し気持ちを込めるということを覚えた方がいい」
「いやいや、これは短い文からもしれないけど、僕の精一杯な気持ちを込めたものなんだ」
もちろん、嘘である。
まさか僕が大した仲良くもないクラスメイトのお見舞いに行くとは、微塵も思っていなかったから、それほど真剣には書かなかった。どうせ、すぐこんなもの忘れるという想いで書いた一文である。
「なんだ、お前ら仲いいんじゃねーか」
僕はこの声にもう嫌悪感を抱かなくなった。
振り返ると松葉杖に支えられた幹人が立っていた。
「あんたよりは仲いいわ」
篠田さんは幹人の前だと毒を吐くようだった。僕はその光景が何とも微笑ましくて、この非日常な空間にいつまでもいたいと初めて思った。
僕らは陽が落ちるまでたくさん話した。
幹人が話を膨らませて、篠田さんがそれに突っ込みを入れる。その様子を眺めている僕はうんうんと頷いた。
幹人と篠田さんはつい最近まで恋人関係だったけれども、篠田さんの方から強引というか、一方的に別れたという。幹人はよりを戻す気持ちがあるようだが、篠田さんにはそういう気持ちが少しもないようだった。
僕は別れた理由を察していた。それは篠田さんがこんなにも元気そうなのに、一週間も病院に入院している理由と同じことであろう。
篠田さんの横顔がときどき影を見せる。
吸い込まれそうなほどの黒目は何を見つめているのだろうか。
死にたがりやの僕には到底理解できないことである。
幹人は帰り際に、何度も確認するように尋ねていた。
――お前はただの盲腸なんだろうな?
篠田さんの意向で、入院は盲腸によるものにしている。医学知識が乏しい人間なら騙し続けられるかもしれないと思ったけど、それにも限度があるようだった。
幹人は訝しんで再度篠田さんを問い詰める。
篠田さんはお手上げというように、吹っ切れた表情を見せ、大きな黒目を幹人に向けた。
――明日退院するから。
幹人よりも先に僕が拍子抜けた声を出してしまった。
篠田さんはくすりと笑う。
とてもこちらとしては笑い事ではなかった。それはあの闘病日記から察するに、あり得ない話だと思っていた。もう二度とこの病院から出ることができないとすら思っていた。
それがこうもあっさり退院できるのだろうか。
篠田さんの毅然とした振舞いに、嘘をついているようには見えない。
幹人はあっさりとそうかと告げた。
僕は納得がいっていなかったが、ここで食い下がるのもおかしな話なので、あくまでも何も知らないクラスメイトとして振舞った。
病院を出ると、街灯が灯っていた。
初夏とはいえ、北海道の六月の夜はひんやりとする。何か羽織るものでももってくるべきだったと、鳥肌をおさめるように肌をさする。
「なぁ、バスって何時にくるんだ?」
幹人は基本自分で調べようとしないし、人任せなところがある。
仕方なく僕がスマホで確認しようとするが、制服のポケットにも、スクールバッグの中にもなかった。
スマホを触った最後の記憶をたどる。
病院に来る前にはちゃんと持っていたし、病室でも使った記憶がある。それに、あの忌々しい健康アラートの通知に顔をしかめた覚えがある。
僕はスマホを病院に忘れたと幹人に伝え、急いできた道を戻る。
院内は人が疎らで、外来の待合室にはもう誰も座っていなかった。息を切らしながら、僕はエレベーターに乗り込む。
三階につき、ドアが開く。
目の前にあるナースステーションに、事情を説明し、特別に病室に取りに行っていいということになった。
夕方に来た時とは、雰囲気が違い、どことなく闇に飲まれてしまいそうなおどろおどろしさがあった。
僕は篠田心愛と書かれた病室のドアをノックする。
返事はなく、そっとドアを開ける。
月の光だけが病室を照らしていた。篠田さんは上半身だけを起こして、外を眺めているようだった。遠くからでもわかるほど、篠田さんの肌は白い。
「きみはさ、明日死ぬとしたら何をする?」
僕は何もしない。その死が来るのをじっくりと待つと思う。それを言葉にはしなかった。してはいけない気がした。
「何も答えないなんて、きみらしいね」
そう言ってこちらを向いた篠田さんの目から、一筋の涙がこぼれた。それはどんな涙なのだろうか。
僕には悲しい涙に見えた。まるで明日は来ないような、そんな絶望に満ちたもののような気がして、僕は珍しくお節介をした。
「明日待っている」
ベッドの横にあったスマホを手に取って、僕は病室をあとにした。
篠田さんの咽び泣く姿はいつまでも頭から離れなかった。