第一章 3
僕はため息をついた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
緑地台病院前のバス停から、らせん状になった坂道を上って行くと、クリーム色の病院が見えてきた。小高い丘の上にあるからか、遠くの景色まで見えた。夕日に照らされた住宅街はおもちゃのように広がっている。
白坂さんは、僕のことなんて構わずどんどんと進んでいく。僕は置いてかれまいと、足に力を入れる。
白坂さんの右手に持たれた紙袋は慎重に揺れていた。そういう姿は僕のイメージにそぐわない。いつもはもっとがさつで、乱暴な雰囲気を漂わせているのに、今日はどこか大人びて見えた。
病院内に入ると、消毒液の独特なにおいが鼻孔を刺激する。僕は白坂さんに倣って、入口にあった消毒液を手につける。
病院はどこか暗いイメージがあったけど、この病院は吹き抜けになっていて明るく、ホテルのエントランスのようだった。
そこで待っていて、と素っ気なく白坂さんは言う。
僕は反論する理由もなかったので頷いて、そのまま待合室の長椅子に腰かける。指を組んであたりを見渡し、受付で身振り手振りをつけて説明している白坂さんを見つめながら、今日のことを思い返していた。
六時間目の体育さえ無事に終われば、今日も何事もない日常が幕を閉じるはずだった。けれども、そうはならなかった。
僕ら男子は校庭でサッカーをし、女子は体育館でバレーをしていた。僕は、六月下旬のじめじめとした暑さにうだりながら、別チームの試合を観戦していた。
サッカーボールは弧を描き、ゴール前にいた幹人の頭上に落ちてきたとき、得意げな横顔が見えた。それからは一瞬だった。オーバーヘッドを決めようと回転させた体はバランスを崩し、幹人の体は地面に落ちていった。
彼の周りに人だかりができ、なぜか僕が呼ばれた。僕は疑心を抱いたまま、駆けつけると、保健委員なのだから保健室に連れて行ってくれとのことだった。そこで、僕が保健委員だったことを思い出した。忘れていたのは、養護教諭に常連だからという理由だけで、押しつけられたからだろう。けして無責任だったというわけではない。多分。
幹人は結構重傷だったらしい。足首はひどく腫れていて、今すぐ病院に連れていくと養護教諭は言った。
僕はといえば、幹人の荷物とか、体育教諭に状況を伝えるとか、責任をもって保健委員の役割を全うした。
僕が荷物を幹人に手渡すとき、幹人は僕の肩を叩いた。
――ロイドにしか頼めない。
何のことだろうと訊いてみると、お見舞いに行ってくれと掠れた声で言った。僕はその言葉を咀嚼するのに少々の時間を要し、やっとその言葉の意味を理解したころには手遅れだった。
そう、彼は急遽入院したクラスメイトのお見舞いに行く代表だったのだ。こんなことなら聞くんじゃなかったと後悔している暇もなく、養護教諭が早くと急かすものだから、僕は頷くほかならなかった。その様子を見た幹人は未練などないという表情で、病院に運ばれて行った。もちろん、救急車ではなく、養護教諭の車で。
そして、今に至る。
エレベーターのドアが開き、生暖かい空気が流れ込む。白を基調とした廊下はどこまでも広がっていた。僕らが歩くたびに足音が反響する。人の気配があるのに、いやに静かな空間だった。
ナースステーションでもう一度場所の確認をして、去り際に対応してくれた看護師に会釈する。
「ロイドってこういうお見舞いとか絶対に参加しないタイプだと思っていた」
白坂さんはぶっきらぼうに言った。
僕もそれには同意する。
「僕も一応クラスの一員だからね」
白坂さんは嘲笑う。
「なにそれ、ロイドはそんなこと絶対に考えていないでしょ。断ればよかったじゃん。誰かに頼むとかさ」
茶髪を地毛だと言い張る白坂さんは挑発するような目つきだった。何もかも見透かしてしまいそうなその眼から視線を外す。
「なんでそんなこと」
「今から行く子の名前ちゃんと覚えているの?」
そう言われて気がついた。僕は何も知らずにここにいた。どんな子が入院しているのか、それが男子なのか女子なのかさえ知らない。
僕は何となく幹人から託されてここにいた。
黙っていると、白坂さんはため息をついて告げる。
「ねえ、帰んな。無理に来られても心愛が可哀そうだよ」
足を止めた横には三〇二号室、篠田心愛と書かれた病室があった。
がらりとその病室のドアが勢いよく開けられる。
「あー早苗じゃん!」
小さい子だと思った。僕の肩よりも低く、薄い桃色の病院着からのぞく手足は雪のように白かった。華奢な手が白坂さんの方へと伸びていく。
長い黒髪は僕の目の前で舞う。そして、少々たじろいでいる白坂さんのところへと飛び込んでいった。
とても病人とは思えない振る舞いだ。
「ちょっと」
抱きつかれた白坂さんは篠田さんを引き剥がそうとするが、磁石のようにぴったりとくっつき上手くいかないようだった。
僕が呆気に取られていると、あれと言った篠田さんと目が合う。
さっきまで離れなかったのが嘘のように手放し、篠田さんは僕の顔を覗いてくる。
「さては、きみ、わたしと同じクラスの……坂下くん?」
誰だよその坂下くんはという心の声は喉の奥へと押し込み、僕はゆっくりと口を開けた。まだ、口の中は枯渇している。
「残念ながら坂下ではなく、青空の空に田んぼの田で空田ね」
篠田さんは子どものように無邪気な笑みを浮かべる。
「そうか、きみがあの! わたし人の名前覚えるのが苦手でごめんね。名字だけだとまた忘れそうだから名前は?」
「漢数字の一に、心はそのまま心で一心」
名前を告げると、満足げに何度も空中で指を動かしつつ、僕の名前を繰り返していた。僕はその姿に見覚えがあった。いや、それは当たり前の話なのだが、クラスで見た光景ではなく、もっと違ったところにある記憶と結びついた感じだった。ただ、それがどの記憶なのかまるでわからない。
「ごめん、あたしこの後用事あるからもう行くわ」
絞り出すような声で白坂さんは言った。
紙袋を篠田さんに手渡し、苦笑いを浮かべて、白坂さんの背中はどんどん小さくなっていった。
篠田さんも眉毛を八の字にして悲しんでいるようだった。きっとたくさん話したかったに違いない。僕はクラスにいる篠田さんの姿を思い出せないけど、おそらく白坂さんたちと学生生活を満喫していたはずだ。
「じゃあ、僕も行くね。お大事に」
ここにいても、僕ができることはもうない。それに、僕はここに来て、篠田さんに会うというお見舞いの目的はもう果たされている。
なるべく篠田さんの表情を見ず、長く続く廊下の先を見つめた。
「まって」
小さく、でも鋭い声が僕の足を止めた。
*
どうにも僕は人に流されてしまうところがあるらしい。
病室は四人部屋らしかった。窓から流れる風が淡い黄色のカーテンを揺らす。仕切られているとはいえ、ここには篠田さんしかいなかった。人がいないベッドたちは行き場を失い、ぽつりと佇んでいる。その姿はどことなく寂しさを漂わせる。
そんな場所で、篠田さんは目を輝かせていた。
紙袋から追い出された色紙とお菓子たちは、乱雑に、可動式テーブルの上に散布している。
篠田さんは無秩序に手を伸ばし、いちいち騒いでいた。
僕はベッドの横に置かれた丸椅子に腰かける。
ここは現実感のないところだと思った。あらゆる細菌から守るために消毒液の匂いは常につきまと
い、清潔感という言葉を押しつけるような白い世界がどこまでも広がっている。
この空間に留まり続けたら、おかしくなってしまいそうだ。
ベッドの横にある棚に目をやる。
乱雑に本が置かれ、今にも落ちそうな位置にペンが転がっていた。さっきの様子からも、篠田さんはそれほど繊細な人間ではなさそうだ。
頬を緩ませてお菓子を堪能している横顔を見て、なぜこんな人がここにいるのだろうかと疑問に思った。今日の学校の風景に溶け込んでいても、なんら違和感はなかっただろう。
手元のお菓子に視線を向けていた篠田さんと目が合う。
「食べる?」
差し出されたのはクッキーだった。クリーム色の中央に渦を巻いた黒色がしみ込んでおり、美味しそうな香りがした。
口に含むと、みるみる溶けていき、ほんのりとした甘さが口に残った。
「おいしいね、これ」
「えっこれはきみが買ってきたんじゃないの?」
僕は首を横に振る。
これを買ったのは僕ではなく、白坂さんだった。
「じゃあ……早苗か、これ買ってくれたの」
大事そうにクッキーを口に運ぶ篠田さんは儚げだった。
この場所はいつも悲しみを運んでくる。僕はあまりここに長居したくなかった。母親もこうやって元気だったのに、いつの間にか花が枯れてしまうように、みるみる生気を失っていった。
僕は壁にかけられている時計を見る。
「きみは何でわたしが入院したのか聞かないの?」
それはまるで聞いてほしいような口ぶりだった。だけど、僕はそこに踏み入る勇気はないし、これからも同じクラスの子くらいの関係性でいたい。
「それは僕の役割じゃない気がして」
そう言うと、篠田さんは白くて細い首を傾げた。
「なんか、きみは変に真面目だね。まあ、大した病気じゃないし、きみもそう思って聞かなかったんだよね」
篠田さんは優しげな瞳で窓のむこう側を見つめた。
「先生には大丈夫だって伝えといて」
僕は頷いた。
あとね、と篠田さんは微笑み、鼻の前で一本指を立てる。
「早苗とは仲良くしておきなよ。あの子はさ、ああ見えて繊細だし、誰よりも相手のこと想う優しい子だからね。仲良くなって損はないと思うよ」
白坂さんのどこに繊細という言葉があるのだろうかと考えていると、ベッドの横にあった篠田さんのスマホが鳴った。
篠田さんは目を丸くして、急いでそれを取り、ベッドの横に置かれたスリッパに履き替え、慌ただしく病室を出ていった。
篠田さんの空気がなくなった病室は幾分か軽かった。僕もそろそろおいとましようと立ち上がると、ベッドの横にある棚から本とペンが床に転がり落ちる。そのままにして帰るのもあれだから、直そうと落ちたものを拾う。
転がった本とペンの中に、手のひらにおさまるほどの小さなメモ帳があった。それを手に取り、裏返ったメモ帳の表側を見ると、闘病日記と書かれてあった。僕の心臓は耳の後ろで勢いよく脈を打つ。
字は丸みを帯びていて、これは篠田さんが書いたものだと感じた。あれほど元気だったのだから、何かの冗談だろう。せっかく遠くまでお見舞いにきたのだから、少しくらいお土産話を持って帰っても怒られやしないはずだ。
僕はメモ帳を捲った。
4月24日
わたしは病気になりました。
とても重たい病気みたいで、何度も何度も検査を繰り返し行いました。正直、ここまでしなくてもと思ったけど、先生がどうしてもと頭を下げるから、それに付き合ったところ、わたしは余命宣告を受けました。このことをどう受け止めたらいいか分からなかったから、とりあえず日記にしてみました。
わたしにしてはナイスアイディア!
だって、こんなこと誰にも話せないからね。
4月27日
まだ入院する必要はないというか、わたしがそれを断りました。
先生は猛烈に反対していたけど、仕方がないよね。
わたしにはわたしなりの青春があるし、急に病気なんかで入院ですなんて言ったら、早苗とかが悲しんじゃうだろうし。ああ、なんでこんなことになったのかな。
まだまだ先は長いと思っていたのにな。
そうだ、今日からあれをやってみよう!
死ぬまでにやりたいリストってやつ。
一度やってみたかったんだ。
――死ぬってなんだよ……嘘だろ。
心の中でそう言ったつもりだったのだけど、どうやら口の外へと漏れていたようだった。
「嘘じゃないよ。それは本当のこと」
ドアの開く音なんて聞こえなかった。
僕は慌てて、メモ帳を閉じる。あれから時間はそれほど経っていないのに、ドアの前に篠田さんは立っていた。僕は何事もなかったように、元あった場所にメモ帳やらを戻し、何食わぬ顔で篠田さんの横をすり抜けようとした。
不幸にも右手が掴まれる。
「わたしはさ、このことを誰にも言わないつもりだった。どうしてかわかる?」
僕は何も言葉にできなかった。暇さえあれば読書をしているのに、思い浮かぶ言葉は陳腐なものばかりだ。もどかしい想いは沈黙が続くほど大きくなっていく。一瞬が永遠に続くのではないかと思うほどだった。
沈黙を割いたのは篠田さんだった。
「何かが変わっちゃうんじゃないかって思ったんだ。だって、いつも当たり前にいた人が死ぬって言ったら、今まで通りではなくなるに決まってるし。腫れ物を触るような扱いだけはされたくないからね。だから、言わなかった。いや、言えなかった」
その言葉は本来僕に向けられるものではなかったはずだ。僕よりも大切に想ってくれる、例えば白坂さんとかに向けられるべきものだ。
「ちゃんと言ったほうがいい」
篠田さんだってそのことは分かっているはずだ。それでも、悩んで、苦しんで、誰にも打ち明けられず、独りで闘ってきたのだろう。
「だから、ちゃんと今きみに伝えているじゃない」
篠田さんの手は震えていた。それを振り払ってまで、僕はここを出ようとは思わなかった。そういう自分の弱さが憎い。
「いや、そうじゃなくて……」
僕はそれ以上の言葉を紡げなかった。
静かに時間だけが流れる。遠くの方で看護師さんの威勢のいい声が響いてくる。そして、けたたましいアラーム音が聞こえた。ここは、そういう非現実的なものに満ちている。
あれほど日常から飛び出したかったのに、今は学校の混沌とした日常が恋しい。
篠田さんが息を吸った。
「きみはどこまで知っているの?」
的を射ない質問に、僕は俯いていた顔をあげる。
「何も知らないさ」
「そっか。いや、気にしないで」
さっきまであった明るさはもう消え去っていた。
ちゃんと病院の空気に馴染んでいる。
「じゃあ、帰る」
篠田さんは諦めるようにして僕の右手を離す。
病室のドアに手をかけ、あとはゆっくりと日常に戻るだけだった。
「ねえ、また来てくれる?」
僕は何も答えられなかった。こんな苦しい空気を二度と吸いたくはないし、僕は篠田さんにとって必要な人ではないだろう。
僕はただ前だけを見つめて、ドアが閉まるのを待った。
もうここには来ないと心に誓う。
「またね」
今にも消えそうな声は僕の脳内でこだました。
そのたった三文字が僕の胃の奥をずしりと重くさせた。