第五章 アンドロイドの記憶
深い水の底に沈んでいくような感覚だった。発した声は響かず、息も上手く吸えない。一寸先は闇で、何も見えない。藻掻き続けている手足は次第に感覚を失っていく。
もうだめだ。そう諦めるとあの記憶がわたしの鼓動を靡かせる。
あれは何年前のことだったのだろうか。そんなことさえ分からなくなってしまうほど、わたしは歳を取ってしまった。いくら容姿が変わらないとはいえ、わたしの新鮮さは日々を重ねた分だけ腐敗していた。
あの時も、今と同じように暗闇のなかにいた。あらゆる外界からの刺激を遮断し、それはアンドロイドとは思えないほど傲慢で、浅はかなものだったと思う。でも、そうしなければ、わたしの心はずたずたにされてしまう。仕方がないことだったんだ。
これはアンドロイドの宿命でもあり、運命でもある。それらは受け入れて、折り合いをつけていなければならないことだと思っていた。
しかし、それは違った。
勝手にそう思い込んでいるだけだった。
そのことを知ったのは、ある桜の花びらが舞う季節の頃だった。
そよ風が木々を揺らし、満開に咲き誇る桜の花びらは舞った。気持ちよさそうに空中を泳ぐ花びらを男の子は追いかけていた。わたしはその光景に目を細める。これは何度も見た光景だった。また、ここに戻ってくる。鮮明な記憶は辛いわたしを励ますためにこのシーンをリフレインする。
何度も見ているはずなのに、わたしは飽きることなく心を躍らせている。
ひらりひらりと舞っている花びらは小さな手のひらのなかに吸い込まれる直前で、風に攫われていき、空高く浮かび上がっていった。わたしはその花びらを見つめた。季節の一瞬を彩り、そして儚く散っていく。それはまさしくわたしたち、アンドロイドのようだった。
人々の一瞬の支えとなり、忘れられていく。
それがどれほど悲しく、辛いものなのか。この時のわたしは、まだよく知らなかった。
男の子は桜の花びらが舞う空を見上げていた。わたしはその頃から、彼のことをとても気に入っていたのだと思う。彼は小さいながらも、人間として生まれてきた意味を理解している。無意図的に作られた偽りのない悲しみは繊細さをわたしに植えつけた。その横顔は儚く、そして慈しみを感じさせる。ある種の母性を掻きたてるようなものだった。
すごい。こんなにも人を惹きつけて離さない。内側をかき回されたような衝撃はわたしの心を激しく揺らした。
そうして男の子の長いまつ毛は、朗らかに微笑む母親に向けられた。何もかも包み込んでしまうような物腰の柔らかい母親は、近寄ってきた男の子の頭を撫でる。
アンドロイドはいつか人間のようになれると思っていた。でも、それは難しいのかもしれない。わたしの目の前で繰り広げられている愛情は、それほどのものだった。とてもじゃないけど、アンドロイドが表現できるものではない。
今までがどれほど稚拙で、残酷なものだったのか思い知る。これがわたしたちを作った本来の人間の姿なのだ。
男の子は屈託のない笑顔を浮かべて手招いていた。
わたしはそちらへと駆け出す。
ああ、なんて幸せなのだろうか。
こんな時間が永遠に続いて欲しいと思ってしまう。
男の子はこちらに手を差し伸べる。小さな手はわたしを包み込むように握る。柔らかくて、温かなものだった。
春の陽気がわたしの体を満たしていく。
きみが――空田一心。
動かなくなってしまった律動は、美しく、そして華やかに舞う桜並木のなかで、取り戻されていく。
かけがえのない記憶の一ページ。
*
わたしはまた暗闇に戻ってきた。
意識だけははっきりとしているのに、手足の感覚はなく、金縛りにでもあっているようだった。
耳を澄ますと誰かの泣き声が聞こえた。
それはわたしの胸をえぐるようなものだ。
わたしの周りには悲しみが溢れている。
でも、この悲しみはそれらとは比べ物にならないほどの重さを持ち、わたしの体に深く浸透していく。
まさしく凄惨な光景が広がっていた。嗚咽が漏れる。この光景はわたしのなかに強く刻まれ、何度もフラッシュバックした。
あの時、狙われていたのは間違えなくわたしの方だった。なのに、ふたを開けてみれば、わたしは無傷で、彼らがその代償を負うように傷ついた。それも残虐な形で。
道路のいたる所には、血痕が残り、ここで起きたことがどれほど凄惨だったのかを物語っている。
わたしは近くにいた男の子を抱き寄せる。体はぐったりとしていた。でも、まだ仄かに温かい。背中を抉るような傷に、思わず目を背ける。今は出血が止まり、黒く赤い塊が彼の周りにこびりついている。
呼びかけても応答しない。
遠くの方でサイレンの音が聞こえた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。わたしがアンドロイドだからなのだろうか。そんな理不尽ともいえる自問自答が脳内を埋め尽くしていく。
これでもう彼らとも会えないだろうし、わたしはまた忘れられ、そして元いた場所へと戻るのだろう。そんな絶望にはもう慣れていると思っていた。なのに、涙が止まらない。
忘れられたくもないし、でも、このまま彼らと一緒に寄り添っていたら、わたしが彼らを不幸にしてしまう。想いと想いがせめぎ合い、わたしの感情は複雑に絡み合っていく。
そのとき。
わたしは本当の感情を知ったんだ。
今までの偽りで、作られたものじゃない、確かなる本物を鼓動が教えてくれた。
また、わたしは忘れられる。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
*
今度は別な声が響いてきた。それはよく耳にしていたものだった。
その声はラジオのようにひとりでに流れ始める。
もう大半の人は死んだんですよ。馬鹿らしいでしょ。別に戦争をしたわけでも、大きな災害があったわけでもないんです。何もないのに多くの人たちは命を落としていったんです。みな生きることに絶望していたのです。そして、我々を作ったあの人も、その中の一人でした。もう役割は全うしたと彼は言ったんです。もちろん、私は止めましたよ。
ああ、そうですね。この顔だと信ぴょう性があまりないかもしれませんね。私はこう見えてもアンドロイドなんです。
はい、それは名刺として貰っていただけると。
さて、本題に戻しましょうか。我々アンドロイドと人間の長きにわたる戦いについてですね。戦いといっても、争うわけではなく、共生という無理難題への挑戦という意味で表現しました。
ああ、なるほど。
教養で習ったところなんて、ハムのように薄っぺらいものですよ。我々の神髄はこの世の中を良くしようというものなんです。宗教みたいだとおっしゃる気持ちはよくわかります。ただ、我々には信仰する神はいませんし、それぞれがこの世のためにやろうと立ち上がったのです。
まずは、生まれてから死ぬまでという人間の生涯を丁寧に扱っていこうと取り組みを始めたんです。
何言っているのですか。
あなたはあんな嘘を鵜呑みにしたんですか。
高校生アンドロイドは家族の支援なんて最初からしていませんよ。あれは再育成者を健康管理AIが選定して、アンドロイドを送り込む。そういう事業なんです。
ええ、あなたが憤慨されるのは分からなくもない。あなたは正義感が強いのでしょう。人間のような感受性を持っていると聞いていましたから。
そんなことを聞かされていないということはありません。あなたは身に覚えがあるはずです。支援していた子たちのことをよく思い出してみて下さい。
そうですね。あなたは本当に正直者だ。言葉にしなくても、もう顔にかかれているじゃないですか。
みんな何かしらの問題を抱えていましたね。その根底に通ずるものが何か分かりますか。
やはり、あなたはとても聡明な方だ。もうこのからくりに気がついてしまった。
そう、でもあえて、私からもお伝えしますね。
いわゆる死への願望を抱いてしまった人間の再育成。
それがアンドロイド管理局のやっている事業なのです。
これはすぐに結果を出し始めました。あなたもご存じなのではないですか。最近、若者が死ななくなったことについて。いや、正直なところを話すとまだまだ死んではいるんです。
ええ、私もつい最近、関わっていた子が自殺しちゃいましてね。本当に惜しいことをしたとは思っています。
でも、不思議じゃありませんか。こんなにも豊かなんですよ。お金がなくても、生きていけるような福祉制度だってあるんです。なのに、と私なら思ってしまうのですが、そんな簡単な話ではないのでしょうね。
こういうのは理屈ではない。とある人間にそう言われてしまいました。つくづく人間という生き物は訳が分からないなと嘆いたものです。
さて、長々と御託を並べても仕方がありません。単刀直入に言えば、あなたには一人の少年を救ってもらいたいのです。
ただ、ここには一つ大きな問題が孕んでいます。というのも、あなたはその少年をよく知っているのです。いや、正確には知っていたという方が正しいかもしれません。
なので、職員からはリスクが高いとか、ありえないとか色々言われちゃいました。やはり、彼らはアンドロイドがトップなのも気に食わないようです。
でも、諦めるつもりはありません。
アンドロイド管理局――局長命令です。
対象者の少年を救ってあげてください。
彼はおそらく、ずっとあなたを待っていますよ。
えっ、そんな簡単にいうなって。またまたご謙遜なさって。
あなたは普段通りやるだけで構いませんから。おそらく、あなたの病状的にこれが最期の業務でしょう。存分に暴れて、悔いなくアンドロイドを全うしてください。
ここから起きることの全ては私の責任です。
そこからはノイズが走り、音声は途切れた。
ここから長い戦いが始まった。
わたしたちアンドロイドとしての戦いが。
そして、わたしはあの男と共に彼の元へ向かった。
*
死へのカウントダウンは着実に迫っていた。
目を覚ますたびに失われていく繊細な感覚。
混濁していく意識。
わたしは人間ではないけれど、確かに死にゆく、消えゆく運命のなかにいた。そのことに抗うこともなく、容易く受け入れて、どうせ死ぬのなら今すぐにでもいなくなりたいとさえ思った。
そんなときだ。
きみと再会したのは。
いや、本当はずっと前からきみのことを見ていた。
だけど、きみはわたしを見ていなかった。
あの放課後の空き教室までは。
わたしとしては、あの瞬間、きみと再び出会ったんだ。
きっと、きみもそうだったんじゃないかな。
そうだといいな。
それからは、奇跡の連続だった。
きみはわたしの秘密を知り、わたしはきみの温もりを再び知った。そういう何気ない日々が薄れていた輪郭を明瞭にしていった。
わたしは幸せだったんだ。
きみはそんなわけがないと疑っていたみたいだけど。
そんなことはない。
わたしはその言葉をきみに送るよ。
きみはもう少し周りを見た方がいい。
だって、きみはきみが思う以上に価値のある人間だからね。
自分ばかりを見てしまうから、本当の自分の価値に気がつけないんだよ、きみは。
わたしの枯れ果てていた心が、きみとの何気ない会話によって潤っていき、初めて出会った頃のような感情が湧き上がってきたんだ。
そして、わたしはいつしか死にたくなくなった。
確かにあった生への諦めが、いつしか羨望へと変わっていき、わたしを締め付けていった。
鮮烈で、強烈な感情は何も最初からあったわけじゃない。
きみと触れて、笑って、泣いて、苦しんで、絶望して、そういう一つ一つの欠片がわたしというアンドロイドを人間にしていった。
どうしてだろう。
声が震えてきちゃった。
もう終わりなんだね。
ぶっきらぼうで、優柔不断で、でも優しくて、誰よりも繊細な心をもったきみから、色々なものをもらいました。
一度しか言わないから、ちゃんと聞くように。
きみから、いっぱいの元気をもらいました。
きみから、幾多の喜びをもらいました。
きみから、たくさんの愛情をもらいました。
きみから、多くの幸せをもらいました。
きみから、数多くのかけがえのない記憶をもらいました。
きみのことを大切に想えるこの気持ちはきみがいたから知れたんだ。
だから、僕のせいだなんて思わないでね。
もし、そんなことでうじうじなんかしていたら化けて出るからね。
空田一心くん――きみと、出会えて本当によかった。
ありがとう。
そして、さよなら。
最後にこれだけは伝えておくね。
わたしは――。
記憶データ終了。
無機質に響くその声は僕を現実に引き戻した。
止めどなく流れる涙はいつしか枯れ果て、どうして涙を流していたのかも分からなくなった。
確かにあったはずの何かは、忽然と消え、残ったのは言いようのない虚無感だけだった。