第四章 4
見慣れない天井が飛び込んでくる。
律動は穏やかに刻まれていた。
僕は生きていた。
「やっと起きたか」
その声はひどく懐かしいものだった。
僕は声のした方を向く。
童顔の彼は穏やかに笑っていた。
「なんで圭太が……?」
「なんでも何も、俺がこの作戦を企てた張本人だからね。少しは責任を感じているんだよ」
彼は立ち上がって、目を細めた。
僕は重い体を起こして、眩い光に手を翳した。
窓辺から零れる光が圭太の横顔を黒く染める。
「はぁ? どういうことなんだよ。そもそも、ここはどこなんだよ」
遠くの方で金属と金属がぶつかり合う重たい音がした。
「ここはね、今巷を騒がせているアンドロイド管理局だよ」
混濁する意識が次第に明瞭になっていく。そうだ、僕は函館にいて、彼女と逃げようとして失敗した。
「心愛は……」
彼は首を横に振った。
「そういうシナリオだったんだよ」
僕はタオルケットを飛ばし、圭太の胸倉に掴みかかった。
「お前は何を考えているんだ!」
掴んだ右手を捻り上げると、彼の体は驚くほど軽かった。その事実に僕は一瞬たじろいだ。
「わかったようだな。きみには本当に悪かったと思っているよ。でも、俺らアンドロイドはこうするしかなかったんだ。これは俺らなりの報復だったんだ」
空っぽになった瓶のような空虚がそこにあった。
激しく渦巻いていた怒りは萎んでいき、僕は彼から手を離した。
「正直、きみには一発くらい殴られる覚悟はしていたんだが、やはりきみはやさしい。彼女の言っていた通りだ。きみは人の憂いを良く知っている。いや、知りすぎているのかもしれない」
僕が眉を顰めると、彼は手を振った。
「優しいって漢字は人に憂いって書くだろう。優しい人ほど憂いをよく知っているんだ。きみはまさにそんな感じだ」
彼は肩の力を抜くように息を吐いた。
「圭太はアンドロイドってことでいいんだよな?」
「ああ、俺はれっきとしたアンドロイドだ」
彼の発するアンドロイドには重みがあった。
圭太はアンドロイドで彼女と同レベルの人間らしさを持ち合わせている。そして、さっき報復という言葉を使った。
「全部話してくれるか?」
彼はゆったりと頷いて、窓の外を見つめた。
「きみはアンドロイドが何の代償もなく、ここまで人間らしくなれると思うかい?」
僕はかぶりを振った。
「そうだ、俺らは大きな代償をもって、ここまでの緻密な人間性を手に入れている。そこに辿り着くまでには数え切れないほどの犠牲がある。人間のような感情を組み込めば、その感情に振り回されて精神が破綻していくやつもいた。たとえ、その感情制御をクリアしても、次は病気の脅威がある。つまり、欠陥だらけなのさ」
圭太は自分の手元を見つめていた。
「そんな色々なものに怯えていく中で、俺らは一向に人として扱われなかった。あくまでも感情をもった優秀なアンドロイドでしかなかった。だから、働き先はいつも劣悪なところだった。現場にいけば、ぞんざいな扱いだし、殴る、蹴る、罵るは当たり前だった。相手はアンドロイドだから、何やってもいいって思っていたわけだ」
僕は耳を塞ぎたい気分だった。
あまりにもひどすぎる。
「でも、不幸ばかりじゃなかった。たまに人の温かさに触れられることもあったからね。正直、それは泣いてしまうほどのものだったよ。で、その温かさの一つにきみの父親の件があった。彼は誰よりもアンドロイドと人の隔たりを気にしない人だったんだ」
圭太はベッドの上に腰かけて項垂れた。
「彼は暴力ばかりを振るわれていた篠田心愛を助けたんだ。当時は篠田心愛って名前ではなく、あの時は恵子とか名乗っていたはずだ。そんな彼女がきみの家に転がり込んで……あの事件が起きた」
僕は呆然としていた。
あの時のアンドロイドは――彼女だった。
「あれは明らかな排除行為だった。いわゆるアンドロイドなのに甘えるなという忠告と周りのアンドロイドへの見せしめでもあった。だが、それは失敗し、彼女を排除できず、きみときみの母親を傷つけた。そして、それが問題として浮上した」
彼と目が合う。
「俺がこの計画を立て始めたのはその頃からだった。あの時のアンドロイド管理局は事件の記憶をすべて抹消させ、改ざんした。つまり、記憶操作の権利を悪用した。そして、俺たちには彼女みたいになるなという刷り込みを徹底した」
「なんだよそれ」
僕は思わず口を挟んでしまった。
「全くそうだと思う。それで、俺はへたに楯を突かず、頃合いを待って、やっとのことでトップになった」
僕は唖然とした。
「まさか局長は圭太だったのか」
「そう、こんな俺が局長だ。で、すぐさまやったのはあの事件の被害者であるきみらの心のケアだった。そこに派遣したのは彼女だったというわけだ。ただ、この判断には反対意見もかなり出た。だから、条件つきということできみの父親には制限が設けられ、彼女の業務には俺が同行することになった」
点と点が繋がって一本の線になっていった。
「でも、結局俺がトップになっても、アンドロイド管理局内の動きはさほど変わらなかった。それほど腐っていたんだ。どうしようかと頭を抱えていたときに、彼女は病気になった」
彼は人間のように悲しんでいた。
「だから、このシナリオを考えた。死にゆく彼女を犯人に仕立てあげて、アンドロイド管理局の信頼を失墜させるってやつをね。それは結果的に見事成功したというのが事の顛末だよ」
「彼女は納得していたのか?」
「彼女も共犯者だ」
その言葉は僕を意識の奥へ連れていった。
「犠牲者も出ていたんだぞ!」
これは正義なんてものとはかけ離れている。こんな計画に彼女も賛同していたのかと思うと複雑だった。
「俺たちアンドロイドの犠牲を考えるとちっぽけなものさ」
再び胸倉を掴むと、彼はしおれた花のように首を垂らした。
「罪はちゃんと償えよ」
「ああ、もちろんさ」
僕が手を離すと、彼はゆったりとした足取りで、ドアの方へと向かう。
その足が止まり、彼はこちらを振り返る。
「そうだ、彼女自身はもうこの世にはいないけど、彼女の記憶データが入ったマイクロチップは何とか取り出せたから見たいなら見るといい。きみのおじさんに預けておいたから」
「わかった」
「あと一つだけ。これまで彼女と関わった記憶は例外なく今回も抹消される。それは俺の権限でもどうすることもできない。これだけは許してくれ」
彼女がいなくなったと聞いてから薄々感づいていた。これがアンドロイドの運命なのだ。靡いていた記憶をそっと閉じる。
僕はまた彼女を忘れてしまう。
言いようのない悲しみが僕の体から零れ落ちていった。