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第三章 7

 花火大会当日の朝は小雨が降っていた。街を覆った黒くて重たい雲が風によってゆっくりと流れていく。今はまだ弱い雨でも、次第に強くなるかもしれない。僕は窓を閉めて、もう一度目を閉じた。


 地鳴りのような音で僕は飛び起きた。カーテンを開けて、外を見ると大きな水溜りができていた。時おり吹く風によって、窓を叩きつける雨音が大きくなる。


 僕は小さな本棚の上にあるデジタル時計を見る。時刻は十時を過ぎていた。今頃、学校では終業式が行われているだろう。結局、一学期最後の登校日も僕は家にいた。


 なぜこんなところに閉じこもっているのか。学校という日常から離れるとそういう漠然とした不安が襲ってくる。刺激がなく、日々が過ぎていくのも健康上よくないのかもしれない。


 そんな引きこもりの僕がここ数日したことといえば、この街で起きている連続殺人事件についての情報収集だろう。これは篠田心愛が犯人ではないという確証を持ちたくて始めたことだったが、次第にこの事件自体に興味を持ち始めていた。


 というのも、この事件は不可解なことが多い。

 まず、犯行動機である。最初の事件も、その次に起きた事件も、そして最近起きた三件目の事件についても、被害者の共通点はない。職業も、年齢もばらばらである。ここから、快楽殺人者の可能性も疑われたが、それはすぐに却下された。


 その理由は犯行手口にある。全ての被害者は目立った外傷はなく、頭部に焼け焦げた小さな痕を残していた。そして、死因も全員感電死だった。つまり、一瞬のうちに仕留めたということになる。そんな緻密な犯行手口を使う犯人が、快楽に溺れて殺めているなんて考えにくい。というのが世間一般的なアンサーだった。いや、もちろんそんな人間に対して、常識や一般的という言葉で括れるのかはやや疑問ではある。


 そして、この事件を難解にさせている一番の要因は犯人像のあやふやさだった。ある人は中年男性と言い、そのまたある人は高校生くらいの少女と言った。体格も小太りのおっさんだったり、スタイル抜群の女性だったりともう虚言に近いのではないかと思われるほどの目撃証言の数々だった。警察も躍起になって、防犯カメラや監視アンドロイドを活用して、犯人像をあぶりだしているようだったが、ここでも食い違いが起こり、難航していると雑誌に書かれてあった。


 点と点ばかりが乱雑に転がり、迷宮入りかと諦めた頃に、ある一つの可能性が浮上した。それはアンドロイド犯行説だった。最初の事件から、巷で噂にはなっていたのだが、それこそ信ぴょう性がないと否定されていた。


 でも、動機の不明さ、犯行手口の正確さ、あらゆる犯人像が繋がる先はアンドロイドだった。今もネットではその話で持ちきりだ。そして、この勢いを加速させるように、だんまりを続けてきたアンドロイド管理局が口を開いた。


 ――今回の騒動にアンドロイドは一切関係ありません。

 その一文がアンドロイド管理局のホームページに記載された。もちろん、これだけでは納得させられるわけもなく、火に油を注いだ状態になった。そのような状態になって、やっとその一文は撤回され、謝罪文が代わりに記載されたという次第だ。


 はて、と僕は考え込んだ。アンドロイドが人を殺めていると仮説を立てるのであれば、彼らが犯行に手を染める理由は何だろうか。一つ考えられるのが、アンドロイド管理局から命令されているということだ。以前に西尾さんが言っていたように、アンドロイドの後ろには必ず人間がいる。その人間が今回の事件の首謀者で、人を殺めなければならない動機があったのだとすれば、このような事態が起きてもおかしくはない。けれども、そうなのだろうか。どこか腑に落ちない。


 もし、心愛のようなアンドロイドがいたら、どうなるのだろうか。僕は嫌な想像をした。人間のような意志や感情を持ち合わせているのなら、誰かを殺めるという事態が起きてもおかしくないのではないか。そうなると、根底からひっくり返る。というよりも、僕ら人間が危うい立場になる。


 僕はかぶりを振った。いや、これは僕の夢想だ。あくまでも可能性の極端な位置にある現実味のないことだ。


 彼女の表情が僕の頭のなかに流れる。もし、彼女じゃなくても、彼女のような人間味を持ったアンドロイドが他にも大勢いたらと思うと身震いする。僕が平然と受け入れてしまったことは、もしかしたら相当恐ろしいことなのかもしれない。


 僕は力を抜くように息を吐く。いくらなんでも考えすぎだ。今は、そんな事件のことよりも、心愛を見つけることに力を注いだ方がいい。そう思う気持ちの隙間に、昨日の西尾さんの言葉が突き刺さる。あれは、忘れ去られたとかそういう次元の話ではない。最初からそんな人はいなかったというレベルのものだった。


 記憶の抹消。まさにそんな感じだ。この抹消がどういう条件で起こっているのか僕にはわからない。それはつまるところ、僕がいつ彼女のことを忘れてもおかしくないということだ。


 僕は残しておかなければならない。彼女との関係、彼女がどんな人間なのか、そして僕が彼女をどれほど大切に想っているのか。ありったけの情報を僕はスマホに書き込んでいく。


 彼女との思い出が流れていき、僕は今がいかに空虚で、つまらないものかを実感した。寂しいなんて言葉で片づけられないほど、心が空っぽになりつつある。


 僕はメモ帳を閉じて、ラインをタップする。

 今朝幹人から来たラインが画面に映し出される。


『学校はいいが、花火大会にはちゃんとこい!』

 既読をつけたまま何もできずにいた。


 この雨なら、中止だろう。僕は空を見上げる。どす黒い雲は一向に流れようとせず、僕らの街に停滞しているようだった。


 僕は持っていたスマホをベッドに投げ捨て、僕も一緒にベッドの上に飛び込む。彼女が行きたがっていた花火大会。もし、彼女が今も僕らの近くにいたら、間違いなく一緒に行ったはずだ。言いようのない苦しみが僕を飲みこみ、その現実から逃げるように僕は目を瞑った。


 真っ白な世界に心愛は立っていた。僕はその光景をただただ眺めている。彼女がこちらを向いて微笑んだ。柔らかで、溌溂とした笑顔は風が吹くのと同時に消えていった。彼女の身体はばらばらになっていき、桜の花びらのように縦横無尽に空中を浮遊している。僕はそれを一つずつ回収していき、残りひとつの欠片が足元に落ちる。


 僕がそれを拾い上げると、白い世界が暗転する。そして、僕の耳元で確かにこう囁かれた。

 ――さよなら、と。


 僕は飛び起きた。呼吸は乱れ、背中に服が張りついている。額に滲む汗を拭い、暗闇のなかで光り続けるスマホを手に取る。


 どうやら、グループラインが盛り上がっているらしい。花火大会は中止にならなかったのだろうか。


 画面に表示されるメッセージをタップする。

 僕は目を疑った。

 未読のところまで遡り、丁寧にメッセージを読んでいく。


『はらっち:篠田らしい女性を発見。俺と幹人で追跡を開始する。場所は花火大会会場の救護エリア近くにあるトイレ』

 さらにスクロールする。


『はらっち:現在追跡中、篠田は一人で行動している。屋台の方へ向かっている。まだ、向こうには気づかれていない』


『徳間圭太:それは確かに心愛なのか』


『はらっち:後で画像を送るからそれで判別してくれ。少なくとも俺と幹人は篠田だと思っている』


『はらっち:また動いた。しばらく追跡する』


 緊迫した追跡劇は五分ごとに更新されている。僕はまだ半信半疑だった。警察や自衛隊、そして僕らが街中くまなく探しても見つからなかった彼女が、こうも簡単に見つかるのだろうか。他人の空似だということもあり得る。


 ただ、そう否定しようと思う一方で、僕はまた会えるかもしれないという淡い期待を胸に抱いていた。心愛はあの花火大会に行きたがっていた。可能性はゼロではない。


 僕はデジタル時計に目をやる。時刻は七時を回ったところだった。今から向かえば、まだ花火大会はやっているだろう。でも、今さら行ってどうする。彼女に何を伝えればいい。僕は頭をフル回転させる。そもそも、あいつらが僕を呼び出すためにこんな芝居をしていることだって考えられる。一度、冷静になると、これはあまりにも都合がよすぎるように思えた。燃え上がった興奮はすぐに冷めていき、僕は壁に寄りかかる。


 再びスマホが震えた。

 画面をタップする。


 僕はスマホを強く握りしめていた。感情が息を吹き返し、僕は走り出していた。ラインに送られてきたのは一枚の画像だった。人々が行き交う屋台の中心に彼女がいた。儚げに空を見上げていた。何かを願うような瞳には、悲壮感が漂っている。死にたくないそんな言葉が聞こえてきそうだ。僕は確信していた。その凛とした佇まいは、紛れもない篠田心愛のものだと。間違いない。彼女はあそこにいる。


 僕は家を飛び出し、闇に染まりつつある街を駆けた。今朝から降っていた雨は大きな水溜りになり、僕の裾を汚す。水たまりを避ける時間さえ今は勿体ない。ただまっすぐに、彼女がいる最短距離を駆け抜けていく。これほどまで真剣になったのはいつぶりだろうか。不思議と湧き上がってくる様々な感情が僕を突き動かす原動力となる。


 住宅街を抜けて、大きな交差点にでる。目の前の信号が点滅し、赤に変わった。動きを止めていた車たちが一斉に走り出し、僕の行く手を阻んだ。息を整えながら、僕はスマホを取り出す。


『徳間圭太:それは確かに心愛だ。今すぐそっちに向かう』


『みきと:おう! こっちも追跡続けとくわ』


『はらっち:俺から接触図っても良いかな?』


『徳間圭太:いや、今はやめた方がいい。俺が行くまで待っていてくれないか』

 直線距離にして、二キロと行ったところだろうか。その輪に今すぐにでも加わりたいが、どんなに本気を出しても十分以上はかかる。もどかしい想いを携えながら、青に変わった横断歩道を渡る。


 花火大会の会場に近づくにつれて、すれ違う人の数が増える。歩道は走りにくく、僕は車道の白線の内側にでる。「ちょっときみ」交通整理をしていた警備員に注意されてもなお、足を止めなかった。もう足の裏は摩擦で感覚がなくなっている。汗も全身から流れ、不快感を残す。この体が壊れてもいい。僕はそんな心持ちで走っていた。


 人々は足をとめる。空を見上げていた。頭上に破裂音が轟く。薄暗い街並みに光が灯る。それはほんの一瞬のことだった。また、光る。僕も視線を空へと向けた。


 心が動かされる。花火はどうしてこれほどまでに僕らの心を鷲掴みするのだろうか。上空に咲く花びらは僕の乾いた心を潤していく。


 心愛はこの景色をどこかで見ているのだろうか。


 僕は足を止めた。やっとついた。大勢の人が歓声をあげる。花火がまた夏の夜空を彩る。その景色を一瞥してから、僕は公園入口からずらりと並んでいる屋台の先を見つめていた。この会場のどこかに心愛はいる。


 まず、僕はラインを確認した。

 はらっちたちの追跡によると、心愛は公園の中心にある境内に向かっているようだった。ここからなら、走って数分で着く。僕はそちらの方へと走り出した。


 屋台の周辺には人がごった返していた。人々はゆっくりとその雰囲気を噛みしめながら歩いている。その悠長な足取りが僕をいらつかせた。この間にも、心愛は別のところへ行ってしまうかもしれない。


 僕は思わず舌打ちをする。数人がこちらを振り向き不快な顔を浮かべた。僕はそんな目など今はどうでもよかった。いち早く境内に向かうことだけが僕の思考を支配する。


 人混みが捌けていき、僅かな隙間ができた。僕はその隙間を縫っていく。ときおり、睨まれたり、体が接触して怒鳴られたりしたが、僕はひるむことなく足を進めた。


 ひたすらに走っていくと、右手に境内へと続く階段が見えてきた。ここは祭りの雰囲気とは一変して、明かりが少なく、薄暗かった。人の流れも疎らで、祭りの毒気に当てられた人たちが心を休めに来ているようだった。


 僕は石段を一段飛ばしで上っていく。石段の両側には木々が生い茂り、風が吹くたびに葉が擦れる音が聞こえた。とても静かなところだ。

石段を上りきると、大きな赤い鳥居が目の前に現れた。そこをくぐると、本殿へと続く砂利道が広がっていた。歩くたびに音が鳴る。ここには誰もいないのだろうか。それほど静まり返っていた。


 本殿に近づくと、その大きさに圧倒される。公園の中心部にこれほど立派なものがあるとは知らなかった。


 僕はあたりを見渡す。そこに人影はなかった。もう、別なところへ行ってしまったのだろうか。

 スマホをポケットから取り出したとき、僕の後方から砂利を踏む音が聞こえた。

 僕は振り返る。薄暗いなかでも、その影は誰のものか分かった。大きな影はこちらに手を振った。


「なんだ、やっぱロイドも来たんだな」

 幹人は白い歯を見せて笑った。その後ろにはらっちと圭太の姿が見えた。やはり、彼女はここに向かってきていたのだ。では、彼女はどこにいる。もし、彼らが追ってきたのなら、僕と挟み撃ちにできたはずだ。なのに、心愛の姿だけはどこにもなかった。


 僕は小さく手をあげて応える。

 はらっちだけは僕の姿を見て顔をしかめた。その理由は何となく僕にはわかる気がした。


「それでどうなったの?」

 僕はすかさず尋ねた。


「何が?」

 幹人は首を傾げる。


「いや、ずっと追跡してきたんだろう。まさか、見失ったとか」


「何を見失うんだ?」

 僕は次第に焦りを覚える。


「えっ、だってラインにさ」

 僕はラインをタップして開く。そこにはさっきまであった追跡劇のメッセージがずらりと並んでいた。


 彼らはそれを食い入るようにして見ていた。

 そして、訝しげに口を開く。


「こんなメッセージは知らねーな」


「少なくとも俺は打っていない。ライン乗っ取られたりしたのか」

 はらっちは慌てて自分のスマホを取り出して確認していた。


「圭太はどうなんだよ?」

 僕は縋る想いで圭太に尋ねるが、圭太の表情は浮かないものだった。


「ごめん、何が何だか」

 気が遠くなりそうだった。

 僕は念のため、確認する。

 暗闇のなかに揺らぐ彼らの影がとまった。


 ――篠田心愛のこと覚えているよね?


 その先の彼らの言葉は言うまでもなく、僕を地の底まで連れていくものだった。僕は急いで捜した。僕も忘れてしまわないうちに、彼女を捜した。だけど、もうどこにもいない。


 彼女は本当にここにいたのだろうか。

 人々の楽しげな雰囲気のなか、僕だけが取り残されたように立ち尽くしていた。



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