第三章 6
人間はあらゆる感情を有している。それは状況であったり、相手であったり、そんな小さな条件で万華鏡のように様変わりしていく。僕はその感情が希薄だと言われ続けてきた。何をしても楽しそうに見えないし、何を言われても辛そうに見えないし、だから何を言ってもいいし、何をやってもいい。あまりにも身勝手で、残酷で、冷徹なことだと思うかもしれない。だけど、この世界はそういうことがありふれている。この世界はちっとも優しくないのだ。
僕は黒板に書かれている文字に目を奪われていた。
僕の後ろでは、ひそひそと話す人の気配を感じた。振り返る勇気などなかった。全員が敵のように思えてしまう。
「なになに、空田一心の父親、空田総一郎は人殺しだって」
揶揄するような声がした。
その声の主に心当たりがない。僕は俯き、自分の席に向かう。クラスメイトたちの声が残響していき、僕の足取りをひどく重くさせた。這うようにして席についたとき、僕のスマホが震えた。
蒼白になっている顔が一瞬スマホの画面にうつり、すぐさまラインをタップする。僕は食い入るようにしてその画面を見つめた。
篠田心愛を捜索するために作られたグループラインに、Xという人物が参加しましたという文字が躍る。そして、すぐにそのXという人物からメッセージが送られてくる。
『黒板に書かれていることは真実である』
そういう書き出しで始まった。
『空田一心の父親は犯罪者で、その罪から逃れるようにアンドロイド管理局を退職している。現在は息子と二人暮らしで、父親は役所で働いている。彼の父親の事件は今から遡ること十一年前のことである。その頃、彼らが住んでいたのはここ北海道ではなく、日本の首都東京だった。そこにはアンドロイド管理局の本部が設置されており、彼の父親もそこに勤めていた。彼の父は業績も優秀で順風満帆だったのだが、ある一つの過ちをおかした。それは恣意的にある一人のアンドロイドを自宅にかくまったことである』
体の震えがとまらなかった。父親が犯罪者なんて信じられない。確かに、こちらに越してきたことも事実だし、アンドロイド管理局をやめたのも確かだ。でも、それは母親のためだったはず。それに、一人のアンドロイドをかくまったということに関してはまったく記憶にない。
どこでこんなすれ違いが起きてしまったのだろうか。いや、そもそもこの情報の出どころ自体が怪しいもので、すべてを鵜呑みにするのは危険だ。
叫びたくなる衝動を抑えてその先のメッセージに目を向ける。
『そのアンドロイドについて、当時の空田総一郎はこう言っている。「彼女の現場先の待遇があまりにも劣悪で、奴隷のような扱いだったため、一時的にこちらで保護した」と。ただ、そのアンドロイドによって一人の命が奪われた。それは彼の母親でもあり、空田総一郎の妻でもあった空田椎奈だった。彼の父は自分の妻を死に陥れた首謀者だったのだ。そして、その事実を隠すべくあのアンドロイド事件は闇に葬り去られ、その尻ぬぐいを空田総一郎の弟である遼太郎がしている。そのような中で、彼らはのうのうと生きているんだ。
空田一心は人殺しの息子なのだ。』
既読の数が増えていく。こちらに視線が集まってくる。違うと声を大にして言いたいが、僕自身がこの事実を飲み込めていなかった。母親は病気で死んだのではないのか。僕の生きてきた過去には何があったんだ。走馬燈のように流れる記憶はどれも胡散臭く感じた。
そうして残った感情は圧倒的な虚しさだった。それを埋めるように、僕はスマホで検索をかけていく。そこに映し出される事実がどんなものであっても受け入れようとしたのだが、実際に父の名前の横に容疑者と書かれたものを見つけてしまうと胸のなかにあったもやもやがはち切れんばかりに膨れあがった。
僕は心を置き去りにして走り出した。近くにあった机をなぎ倒し、最短距離で教室を飛び出る。周りから悲鳴のようなものが聞こえた。もうどうでもよかった。今さら何をしようとも、変わることはないのだ。悔しさは力となって漲ってくる。
――ロイド!
後ろから幹人の声がした。それでも、僕は振り返らなかった。ただ、ひたすらに続く廊下の先を見つめた。
僕にはまだ知らないことがたくさんある。小さい頃の記憶、匿われたアンドロイド、そして父親の罪。その過去の贖罪が現在の僕を追い越していく。母親は病気で死んでいなかった。父によって殺されたんだ。行き場を失った怒りがこみあげてきて、僕は小雨が降る七月の空のもとで叫んでいた。
いろんな人に不審な眼を向けられても、僕はけしてやめなかった。固まっていた感情がより躍動的に動き始め、その豊かさに僕は戸惑った。怒りも、悲しみも、喜びも、僕は誰よりも鋭く、そして繊細なものだった。小さな頃の記憶が僕に飛び込んでくる。何に対しても好奇心旺盛で、母に似て感情表現が豊かで、いつも喜怒哀楽を引き連れて生きていた。
そんな僕がいつの間にか感情と共に閉じこもっていた。それはとてつもなく頑丈で、一人ではこじ開けることのできない檻のようなものだった。
本来の自分を奥深くに眠らせ、繕った誰かになろうとしていた。それは大人のような存在でもあり、不貞腐れた子どものようでもあった。
僕は何者なのだろうか。
何になろうとしているのだろうか。
雨は僕の頬を撫でるように降っていた。
もう何もかも信じられない。家族も、アンドロイドも、僕には到底理解しきれないものになってしまった。否定して、切り捨てて、何もない無の境地へと行きたい、そんな気分だった。僕はどこへ帰ればいいのだろうか。犯罪者のもとに帰って僕は殺されないのだろうか。僕の流れているこの血は人を殺さないだろうか。
僕は生きることを諦めたくなった。
でも、今すぐにいなくなる勇気はなく、だからといって、どうして良いのかも分からず、僕は河川敷の途中で足をとめた。
もし、心愛が僕の隣にいたら、なんて言っただろうか。慰めてくれただろうか。それとも、叱咤激励と言って尻を叩いてくれただろうか。僕はどうしてもきみを忘れられないようだ。まだ、心のどこかできみの面影を探している。
僕は前方を見つめた。その先には大きな橋が架かっていて、その背後にいくつものビル群がそびえ立っていた。ビルはどんよりとした曇り空を反射させ、より一層街を暗くさせた。
体の震えが止まらない。
もう限界のようだ。
降りしきる雨は僕の体をそこに縛りつけた。
*
無断欠席。僕には無縁の言葉だと思っていたが、どうやらそうでもなさそうだった。あれから、僕は学校を休み続けている。
父は学校側から何かしらの連絡を受けているはずなのに、何も言ってこなかった。自らは深入りしない。それが父の性格だった。昔から無口で、母がいたころも、それほど言葉数は多くなかった。寡黙な人間と言えば聞こえは良さそうだが、実際のところはただの気難しい男だった。そのような父ではあるけれど、犯罪に手を染めるような人ではない。母が入院しているときも、父は僕のために色々と努力をしてくれたことを知っている。僕が自殺しようとしたときも、父は多くを語らなかったが、常に僕と一緒にいて寄り添ってくれた。気難しい性格の裏側にはいつもやさしさがあった。
だから、僕はその事実が信じられなかった。父は誰かの手によって嵌められたのだ、と考える方が納得いった。相手が国家機関であるアンドロイド管理局でなかったら、すぐにぼろが出ただろうが、さすが国家機関とだけあってそういう噂は流れていなかった。
父の不祥事、それだけであの事件は片付けられてしまった。それ以外の疑う余地を残さぬよう権力を使って押さえつけたのだろう。
まさしく鉄壁の要塞だ。でも、そのようなやり方はどこかで無理が生じる。今は少しずつその要塞にひびが入り始めているような気がする。実際、アンドロイド管理局を疑問視する声はちらほら出始めている。例えば、今起きている殺人事件もその一つだ。証拠までには至らないものの、その事件の周辺にはアンドロイドの匂いが漂っていた。それに対して、世間はアンドロイド管理局を追及しているが、彼らはうまくお茶を濁し、今も毅然とした態度で君臨し続けている。真実はどうあれ、火のない所に煙は立たぬというように、何かしら黒々としたものを抱えているには違いないだろう。
僕は十一年前の事件の記事を何度も読み返していた。加害者となったアンドロイドは管轄外の現場に向かうべく移動していた。その移動中に事件が起きた。原因はアンドロイド内部の故障だという。数百年というそれほど長くない歴史とはいえ、アンドロイドが暴走したのはこの一度きりだ。そのくらいアンドロイドは精密なものだった。だからこそ、アンドロイド管理局は一定の信頼を得ている。そう考えると、この事件は、アンドロイド管理局の信頼を揺るがす事件であったことには間違いない。
そして、その矢面に立たされたのが僕の父だった。罪状は業務上過失致死容疑だった。その暴走したアンドロイドのメンテナンスを直近で行ったのは父だったというそれだけだ。それに、そのアンドロイドの管轄担当者が現在のアンドロイド管理局局長であるというのも腑に落ちない。
もちろん、彼らに対する不信感はこれだけには留まらないわけだが――。
僕は背中をさすった。薄々感づいていた。僕の背中に残る深い傷跡。それがどんな意味を持っているのか。
十一年前の事件の被害者欄に、僕の名前もあった。もうかなり前の記憶になる。僕は何度か思い出そうとして、鏡で自分の背中の傷跡を眺めたが、結局何も思い出せなかった。かなり深い傷だから、きっと死ぬほど痛かったはずだ。それに当時はまだ小さかったし、よりその衝撃は凄まじかっただろう。だからなのか、事件当時の記憶はぽっかりと穴が開いて、その細部の記憶は抜け落ちていた。そのように欠落した記憶のなかでも、一つ鮮明に覚えていることがあった。それはあの暴走したアンドロイドから守ろうとしてくれた存在がいたということだ。それが一体何者で、誰なのかまではわからない。
軋む体をゆっくりと倒し、ベッドに寝ころぶ。
これだけの情報は調べようと思えば調べられる。事実は少し違うところもあったけれど、大よそあのXが書いた内容と一致する。あそこまでピンポイントに情報を引き出すには相当な慣れが必要だろう。僕の過去を知っていれば別だが、そうでないのなら、より一層素人には難しいはずだ。
そう考えると、白坂さんのグルーブではないのだろう。彼女らは確かに、僕のことを嫌っているが、ここまで回りくどいやり方はしないだろうし、そこまでの技術を有しているとも思えない。どちらかといえば、真っ向勝負で来るイメージだ。
僕は目を細めて、天井を見つめた。
僕は誰を信じればいいのだろうか。これは、おそらくあいつが絡んでいる可能性が高い。
秒針しか響いていない部屋に呼び鈴が鳴った。
僕はすぐさま立ち上がり、リビングにあるインターホンを見る。そこには、坊主頭だけが映っていた。どうしたらそんなことになるのか分からないが、ここ最近ずっとこんな調子だった。
いつものように僕はなにも見ていないふりをして、部屋に戻ろうとしたとき、彼の叫ぶ声が響いてきて足が止まる。
「いるなら聞こえてんだろ! 俺は別にあんなの気にしねーから早く学校に来いよ!」
僕はたまらず玄関のドアを開けていた。
「おう!」
いつも通りの幹人はそこにいた。
「近所迷惑だからそれやめてくれないかな」
「ロイドが学校に来れば、こんなことはしねーよ」
彼はあっけらかんと言った。
幹人はそういう人だった。周りが自分とは違う方向へと歩き始めても、動じることなく、自分の信じる道へと突き進んでいく人だ。そういう姿勢はときどき僕の心を救う。
「お前のオヤジは?」
「ラインに書いてあったでしょ。僕の父は役所勤めだから当分帰ってこないよ。最近は、どこかで飲んできているようだから、帰ってくるのも夜遅いし、あまり気にしなくていいよ」
そう言うと、幹人の表情が曇っていった。
「幹人らしくないな、僕は別にあんなことされたから学校に行かなくなったわけじゃないってば」
「そうか、ならいいんだ。じゃあお邪魔するぜ」
幹人は脱いだ靴をそろえて、僕の後ろをついてくる。
「あっちが僕の部屋」
そう指をさすと、幹人は僕を置いてずかずかと進んでいった。僕はその後ろをゆっくりとついていく。普段過ごしている家に他人がいるというだけで景色が違って見えるから不思議なものだ。無造作に置かれた新聞紙も、インテリアのように感じてしまう。
「何もない部屋だな」
そう言って、幹人は近くにあったベッドに腰を下ろした。
僕は趣味という趣味が読書くらいしかないから、基本的に本棚と本さえあればよかった。高校生男子としては、ギターとか、ポスターとか、そういう色気づいたものを置いていた方が気の利いた男子の部屋みたいになるのだろうが、僕はそういうものに一切興味がなかった。
淡い水色のカーテンが夏風に揺れている。僕の部屋にある色彩はそのカーテンくらいだ。後はほぼ白と黒で出来上がっている。
「エロ本の隠し場所はどこだ」
幹人はあたりをきょろきょろ見始めたので、ちくりとこちらの手を刺してきそうな坊主頭を叩いた。意外と刺さらなかったので、僕は自分の手と幹人の頭を交互に見た。
「まぁロイドはそういうの興味ないか」
「そんなことないかもよ」
幹人の動きはフリーズし、目を見開いてこちらを見ていた。
「ただ、エロ本はないよ」
「何にならあるんだ?」
必死に迫ってくる幹人は間抜けだった。
「なんもないよ。僕はそこにあるもので十分さ」
「字に興奮するのか!?」
そろそろ帰ってもらおうかなという気持ちになりかけたが、どうにか踏み留まり、僕は床に腰を下ろした。
「それで、僕に何か用なの? まさか本当に僕の部屋のエロ本を探しに来たわけじゃないだろ」
僕の家から学校まで二十分ほどかかる。確か、幹人の家はここから正反対の位置にあるはずだ。学校帰りにふらりと立ち寄ったという可能性はない。彼は明確な理由をもってここを訪れている。
幹人は諦めたように息を吐いた。
「俺さ、馬鹿だからよくわかんねーけど、お前が学校に来なくなるのはなんかおかしいなーと思うんだよな。だって、お前はなんも悪いことしてねーだろ? 確かにあいつがいなくなったのはお前のせいなのかもしれねーけど、それとこれとは別だろ」
幹人はそこまで喋って、坊主頭を掻きむしった。
「あーわかんねーけどさ。俺なんか野球ばっかで、それがなくなれば何の取り柄もなくなるんだよ。大した勉強もできねーし、言葉遣いだってきたねーし、お前の方が全然すごいだろ? だからさ、胸張っていればいいんだよ」
言葉というのは不思議なものだ。人を傷つける刃になることもあれば、こうやって何とも言えないじんわりとした温かみをもたらしてくれることもある。
「ありがとう。でも、やっぱり、僕はしばらく学校に行かないようにするよ」
「なんで! 確かに一部のやつらは嫌なことを言ってくるかもしれねーけど、そんなの気にすんなよ。前からそういうのちょくちょく……あ、いやなんでもねーや」
幹人はばつが悪そうに、頭を掻きむしる。
「僕は別に気にしてないよ」
彼は純粋というか真っすぐすぎるから、ものすごく不器用なのだろう。手先で修正せず、思ったままの本音をぶつけてくる。だからこそ、僕は彼のことを信頼できるし、他の人のように心の裏側を観察しなくても不安にならないのだろう。
僕らは示し合わせたように口を閉ざし、秒針が刻む音に耳を傾けていた。開けっ放しの窓から、自動車の走行音が流れてきて、僕はそちらに目をやった。ゆったりと着実に日常は流れている。
幹人は咳払いをした。
「前みたいなのだけは絶対すんなよ」
それは恐ろしく低い声だった。彼の瞳は僕のことを吸い込んでしまうのではないかと思うほど、鋭く、そして真っすぐなものだった。
僕は少しだけ申し訳ない気持ちになった。おそらく、それは心愛のときに逆の立場を味わったから余計そう感じてしまったのだろう。
「もうしないよ、あんなこと。今はただ、心愛を探したい。本当にそれだけなんだ。いや、もしかしたら、心愛にかまけて本当はいじけているだけなのかもしれない。だって、僕はどう頑張っても、みんなと同じようにはなれないからね」
「別にみんなと同じようにならなくてもいんじゃね。俺なんてかなり適当に生きてるぜ」
幹人は無理して笑っているように見えた。彼の表情にはどことなく影が帯びている。気を遣われている気がして、僕も無理に合わせて笑った。
「ロイドさ、お前やっぱり心愛のこと好きだろ」
幹人は指を組み、その先を見つめていた。
「どうしてそう思うの?」
「ロイド、いつから篠田さんから心愛になったんだ」
血の気が引いていくようだった。少し前の自分を思い出してみると、確かに篠田さんではなく心愛と口走っていた。別に誤魔化す必要はないし、幹人には話せばいいのだけど、なんかそうしたくなかった。
「いや……それは、なんか気持ちが前に出ちゃったというか」
「良いぜ隠さなくたって。だって、あいつが言ってたよ。俺がもう一回寄り戻そうって話したら、お前の名前を突然出してきたんだ。そんで、俺よりもお前を選んだ。良かったじゃねーか両想いで」
投げやりに結ばれた言葉は僕の気持ちをぐらぐらと揺らした。幹人は本音を隠そうとしている。僕はそう直感した。
「違う。そんなんじゃないよ」
「何がちがうんだよ、あいつのことお前も好きなんだろ。ならそれでいいじゃねーか」
幹人は僕の顔を見てくれなかった。
「そうじゃないんだって……」
「何がちげーっていうんだよ! お前は何でそんなに受け入れられないんだよ。いいじゃねーか好きなら好きで。もう別に俺のものでも何でもないんだから。変に優しさを振りまくなよ」
悔しさが滲むその声は僕の胸を苦しくさせる。大きく振れた感情は行き場を失い、幹人は眉を八の字にしていた。
「たとえ、心愛がそう想ってくれていても、僕がそう想っちゃだめなんだ。僕はあくまでも……」
「なんで!」
腹から出した幹人の声は僕の身体を硬直させた。
一拍間を開けてから、幹人は観念したように語り始める。
「お前のそのひねくれ方はなんなんだよ。俺は確かにお前と心愛が付き合うのは正直胸糞悪いし、嫌なところもある。けれど、お前が我慢する理由にはなんねーだろ。なんで、お前はもっと自分を大切にしねーんだよ。なんで、そんなに抑え込むんだよ。今回のオヤジの件だって、違うって言えばいいだろ。信じてもらえるまで叫び続けろよ」
僕の言いたいこと、したいことはいつも誰かが先にやってくれる。母が死んでからは、大人しくて優しい子だと言われ続けてきた。あの子に何を言っても大丈夫なんてレッテルを勝手に貼りつけられ、僕は静かに傷つけられてきた。それでも、僕が何も言わなかったのは、おそらくこの世界で生きることをどこかで諦めていたからだ。苦しくなったら、死ねばいい。いつもそう考えていた。
「ロイド、今のままでお前は幸せなのか」
喉を絞ったような幹人の声は僕の痛いところに張りついた。
今までに感じたことのない感情が渦巻き、言葉にならないもどかしさが息を詰まらせる。
「わりぃな。つい熱くなっちゃったや」
幹人は無理して明るく振舞った。あれほど近づいた距離は、もうはるか遠くにある。このよそよそしい感じは最初の頃に戻ったようだった。
「あと、気分転換になればと思ってこれ持ってきたんだ」
幹人から花火大会のチラシを手渡される。
「これ……」
僕はこのチラシに見覚えがあった。それは心愛と学校をさぼった日に、心愛が行きたいと言っていたやつだった。
「なんだ、この花火大会のやつ知ってんのか?」
かぶりを振る。
「いや、知らないよ」
僕は目を細めた。
「そうか。お前が興味あっか知らねーけど、良かったら来いよ。俺ははらっちとかと回るからさ。じゃあ、明日待ってっかんな」
僕は一度も行くとは言っていないのに、幹人は僕の顔をまじまじと見て、どこか嬉しそうに頷いていた。
じゃあ、という言葉だけを残して、幹人は僕の視界から消えた。本当に嵐のような奴だ。
玄関が閉まる音がした頃になって、僕は幹人に伝えたいことを思い出した。急いで玄関の方に向かうが、もうそこには幹人の姿はなかった。
呼び鈴が鳴った。反射的に体を起こすと、辺りは真っ暗になっていた。どうやら、眠ってしまったようだ。まだ覚醒しきっていない体で立ち上がると、頭の奥が鈍く痛んだ。
再び、呼び鈴が鳴る。そうだったと、明かりを点けて、インターホンの方へと向かう。
幹人が戻ってきたのだろうか。それとも、父が帰ってきたのか。
ちらりと、時計に目をやると、夜の七時を回ったところだった。
この時間はいつも父が帰ってくる時間だ。
そういえば、以前父がカギを忘れたときも、こんな感じだったような気がする。僕は途切れたインターホンを一瞥し、玄関のドアを開けた。
「父さんおか……えっ」
僕は口から飛び出た言葉を急いでしまう。
ドアの向こう側にいたのは、紛れもなく西尾さんだった。
「びっくりした。どうしたんですか?」
西尾さんは制服姿だった。部活終わりにここに来たのだろうか。微かにシーブリーズの匂いがする。
「私のせいでこうなったのかなって思ってね」
彼女は申し訳なさそうに身を縮こませていた。
そろそろ父も帰ってくるだろうし、こんなところ見られたくもなかったから、西尾さんに近くの公園で話そうと告げると、西尾さんは快諾してくれた。
公園とは言ったものの、遊具はないし、敷地もそれほど広くない。どちらかといえば、空き地という表現の方が正しいのかもしれない。そんな空き地には、辛うじてベンチがあるので、僕らはそこに腰かける。近くにある街灯には、蛾が群がっており、より汚らしさが際立っていた。
「それで、私のせいというのはどういうことですか?」
西尾さんはスカートの生地をぎゅっと握りしめた。
「空田くんが学校に来れなくなったのが私のせいかなって」
「全然、西尾さんのせいじゃないよ。いや、今学校に行っていないのは誰かのせいとかじゃなくて、ただ……だるくて休んでいるだけだから」
そう言うと、西尾さんはほっとしたようだった。
「そう、それならよかった。あっ、もちろんあのラインのやつは私がしたんじゃないからね。確かにあの時は悲しかったけど、私は空田くんを傷つけるようなことだけは絶対にしないから」
「大丈夫です。分かっていますから。西尾さんはそんなことしないって」
そう言葉では言ったものの、僕のなかの疑心は膨らんでいた。
彼女のやさしく微笑むその姿は僕のこころを不安にさせる。八方美人やぶりっ子とかそんな生易しいものではない。彼女はしたたかにこちらを窺っているのだ。僕のなかの西尾さんはいつもあの図書室にいる。
僕は心の内側を読まれないように振舞う。
「西尾さんってなんでそんなに僕のことを好いてくれるんですか?」
彼女は人差し指を唇に押し当てて考えていた。
「そういうのって理屈ではないじゃない。なんかそう思ったというのかしら、今もその気持ちに変わりはないのよ」
西尾さんはそっと僕の右手に触れる。
僕は少しどきりとした。
「もうやめませんか」
僕は覚悟を決めていた。
「何を?」
彼女は不審そうにこちらを見つめた。
「いや、僕はなんか西尾さんが無理しているように感じるんだ」
僕は手元を見てそう言った。
ため息が聞こえる。
「あーもういいや。なんか疲れたし」
その声はいつもの西尾さんのものではなかった。目つきもあの図書室のときのように鋭くなっていた。
「あんたは無害そうだったから可愛がってあげたのに、結局私の敵になるんだ。まいっちゃうよ」
嘲笑うように彼女はそう言った。
やはり、彼女は仮面をかぶっていた。何重もの皮を貼りつけて、彼女も誰かの西尾さんとして着飾っていた。どうしてそんなことをしたのだろう。
「今更になって何深刻な顔してるのよ。私は元々こういう人間よ。本当、男って単純ね。見たままの姿を信じて、好きだと言ったら、ときめいちゃって。あーそうだ、きみを落とし込めたやつ教えてやろうか」
僕は首を横に振った。
「そうか、それはあんたらしい選択だね。じゃあ、もうこれで終わりってことで。少しは楽しめたからあんたもよかっただろ?」
彼女の揶揄うような目にばったりと合ってしまい、僕はすぐさま目を逸らす。
西尾さんは鼻を鳴らした。
「そんなんだからいじめられんだよ」
西尾さんはそう言って、空を見上げる。
「あんたさ、人を好きになったこととかないだろ」
僕はその言葉に耳を疑った。揶揄われているのかと彼女の横顔を盗み見ても、そんな様子は感じられない。さっきから心臓がどんどんと加速していく。もし、本心からそう言っているのであれば、これはおかしい。
僕はゆっくりと間をおいてから答える。
「ありますよ」
彼女は「へー」と声をあげる。
僕は意を決して、あることを尋ねた。
――篠田心愛って知っていますか。
西尾さんは眉をひそめて首を傾げた。
「そいつは誰か有名人なのか?」
嘘をついているようには見えなかった。やはり、彼女のなかに篠田心愛の記憶はもうないようだった。
「いいえ、知らないならいいです」
僕はひどく動揺していた。これは西尾さんだけではなく、もう周りの人たちも誰一人として心愛のことを覚えていないのではないか。そう思ってしまう。
心愛とのつながりが少しずつ絶たれていくことに、僕は焦燥感を募らせていった。