第一章 1
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初夏の蒸し暑さがこもる空き教室には先客がいた。
放課後の穏やかな空気に緊張感が走る。僕はドアの影から教室のなかを覗いた。部活動に励む人たちの声が遠のいていき、その光景に目を奪われる。
少女は佇んでいた。
どうしてこんなところにいるのだろうか。そんな疑問がふわりと僕のなかに浮かぶ。というのも、この空き教室は校舎の一番南側にあり、普段は誰も立ち寄らないところにある。僕は幾度となくこの空き教室を利用しているが、今までに人と会ったことがなかった。その空き教室に、今日は人がいる。それも女の子だ。
僕は音をたてないように首から提げたカメラを持ち上げる。ファインダーから教室を覗いた。机のない殺風景な教室内は、西日によって煌びやかに輝き、少女の姿に翳りをつける。
思わず息をのんだ。
微かに少女の息遣いが聞こえる。
少女はずっと窓の向こう側を見つめていた。そこに何があるのか僕にはわからないが、その姿はどことなく哀愁が漂っている。
少女の手が動いた。僕はそれに合わせてカメラのピントを調節していく。少女の手は顎のあたりでとまった。少女は顎を押さえるようにして、頭部を持ち上げた。僕はその光景に釘付けだった。持ち上げられた頭部はなにかストッパーが外れるような音とともに少女の首から離れていった。
カメラを持つ手に汗が滲む。夢でも見ているような気分だった。少女の首から先は無くなり、向こう側のロッカーが見えている。マジックや手品という域を超えていた。
少女は生きているのだろうか。僕は震える手をなだめながら、カメラのピントを調節していく。少女の肩は微かに震えていた。それはまるで小さな子が泣くのを我慢しているようだった。悲しさが教室を包み、カメラから色を奪ってしまいそうだった。
そんな悲しみの渦にあてられても、僕は平然としていた。漂う感情は僕の心に浸透しない。そのことには、慣れていた。
僕はカメラを下ろす。
何も見なかったことにしよう。僕はそう考えていた。幽霊だの、お化けだの、そういう類の話を口走ってしまえば、より僕はこの世界からはみ出してしまう。これは僕のなかに留めておけばいいことだ。
少女は右手に頭部を抱えたまま固まっていた。その異様な光景は、最初こそ驚いたものの、今の僕には何も響かない。
西日が雲に隠れ、少女に当たっていた光が奪われる。
一段と暗くなった教室に声が響いた。
「死にたい」
それは切実なものだった。高校生が日常的に発している『死にたい』とはわけが違った。純粋に死というものを見つめていた。僕は少し興味がわいた。もう少しここに留まっていても良いかもしれない。
西日はすぐさま雲の切れ間から顔を覗かし、少女を再び照らした。その西日を掴み取ろうと少女の左手はゆっくりと伸びていく。指の隙間から溢れる光は木漏れ日のようだった。
僕は再び、カメラを持ち上げて少女に向ける。少女はこちらに一切気がついていないようだ。
ファインダーから少女の姿をとらえる。
少女は頭部を持ち上げて、元あるべき場所へと戻していき、カチッという音を響かせる。
頭部のついた少女は凛とした佇まいで、背筋は天井に吊るされているようにぴんと伸びている。少女は取りつけたばかりの頭部を順々に触れていき、最後に長い黒髪の毛先を手で払った。ふわりと髪が浮いた。陰から飛び出した一本一本の繊維が光を帯びながら交差していき、肩甲骨のあたりで一つの塊となっておさまる。
少女は左右に首を動かす。その一瞬、見えた横顔に僕は心臓が高鳴った。今まで止まっていた何かが急に動き始めた。そんな感覚だった。僕はその少女の横顔に見覚えがあった。けれども、それがどこの記憶だったのかまでは思い出せない。そもそも、うちの高校の制服を着ているのだから、学校のどこかで会っていてもおかしくはない。でも、もっと深くて根深いところで繋がっているような気がした。
少女の横顔は夕日によって赤く染まる。僕はそこから目が離せなかった。周りに響いていた様々な音はどこかへ消えさり、僕の鼓動だけが耳の後ろで鳴り響いていた。
少女の瞳から一筋の涙が滴り落ちる。
「ロイド、何しているんだよ」
揶揄するようなその声はすぐ後ろから飛んできた。僕は動揺して、ドアにぶつかり激しい音を立てる。少女ばかりに気を取られていて、廊下への意識が薄れていた。
僕は体中の憂鬱を引き連れて振り返った。そこには、肌を黒く焼いた坊主頭の幹人が立っていた。僕は彼の鋭い目から逃げるように俯き、その代わりに首から提げたカメラを持ち上げた。
「見ての通り写真部の活動をしていたところさ。今日はどこで撮ろうかと考えていたら、いつの間にかこんなところに来ていてね」
幹人はふんと鼻を鳴らす。
最近の幹人はずっとこんな調子だった。どこか不貞腐れているようで、不機嫌さをいつも漂わせている。へたに機嫌を取りに行っても逆効果だから、事が去るのを待つしかない。
触らぬ神に祟りなしだ。
「その割には、びくびくしているようだけど、ここに何かあんのか」
幹人は空き教室を覗こうとドアの方へと歩みだす。
まずいと思い、「それより」と僕はどうにか声を絞りだす。
「幹人こそ、何でこんなところに来たの?」
幹人は動きを止めて、高圧的に「はぁ?」という声を出す。
見下されているように感じるのは、幹人の身長が高いからだろうか。
「別に嫌なら答えなくてもいいよ」
「当たり前だろ、ロイドに言うようなことじゃねーよ。それよりも、さっきからお前なんか隠してないか」
いよいよ僕には止められない。
幹人はあの少女がいた空き教室に入っていく。僕はなんて言い訳しようか頭をフル回転させていた。
「んだよ。何もないじゃねーかよ」
そんなことはない。さっきまであの少女はこの空き教室の真ん中に立っていた。どこかへ行けるほどの時間は要していない。
僕も空き教室に入ると、そこには殺風景な世界が広がっていた。ここにいるのは、僕と幹人だけだ。
周りを見渡す。どこかへ逃げたような形跡はない。いよいよあれは、本当に幽霊だったんじゃないかって思ってしまう。
「だから、言ったでしょ」
安心するのとは裏腹に、僕の手は汗ばんでいた。
「やっぱ、あいつは見間違いだったか」
幹人は僕の声など聞こえていないようだった。
あいつという気になるフレーズを心の中で反芻する。まさか、あの少女のことを言っているのだろうか。僕は気になってしまったが、それを幹人に訊く勇気はもてなかった。
僕はあの少女のように教室の真ん中に立つ。西日は強烈に僕の顔を照らし、その光を遮るように手を翳す。その光は僕には眩しすぎるものだった。
幹人は勢いよく窓を開けて、ため息をついた。
外気が埃っぽい空気を一新し、夏の匂いを部屋に充満させる。
もうすぐそこに夏が迫っているようだった。