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第三章 4

 一軒家といえば聞こえはいいが、どう見ても数世代前の代物だった。木造の二階建てで、不謹慎かもしれないが、火をつけたらすぐに全焼してしまいそうな建物である。庭先には、放置されたままの物干し竿がひっそりと佇んでいる。なんとも物寂しい雰囲気を漂わせているここは、篠田心愛の家だった。


 どうして彼女の家を訪れることになったかと言われれば、僕の家族発言から、まだ彼女の家に行っていないではないかということになり、僕ら、つまり言い出しっぺの幹人と二人で行ってこいということになった。


「それで、幹人はどれくらいここに来たことがあるの?」

 そんなことをいちいち聞かなくても、幹人はすぐ顔に出るから何となく察せるのだけど、念のため答え合わせをしておきたかった。


「うーんと。一回くらいかな」


「いや、ちょっと待って、それもう初めてと変わらないじゃないか」

 普段は間の抜けた顔をしているのに、今日に限ってやたらと険しかったから嫌な予感はしたんだ。でも、まさか彼女の家には一回しか来たことがないとは思わなかった。


「まあ、でもほら、俺は一応心愛の親とも面識あるからさ」


「ほう」


「すぐ追い出されたなんて言えねーけどな」

 いや、思いっきり言っているじゃないかと思いながら、彼に冷ややかな視線を送る。


 図体の割に小心者の彼は呼び鈴を前にしても、どうしようか躊躇っているようだった。その姿がじれったくて、僕は仕方がなく代わりに押してやった。


「おい!」

 一緒にいる奴が焦っているとなんだか冷静になれる気がする。そう、今みたいに。


 もう一度呼び鈴を押しても何の反応もなかった。どこかへ外出しているのだろうか。念のため、引き戸のドアをノックする。そして、何度かすみませんと呼びかけてみるものの、やはり反応はなかった。


「両親は共働きとかなの?」


「そんな話は来たことねーな。確か、あいつの母親は専業主婦だったはずだ」

 それなら、母親が家にいてもおかしくない時間帯だ。


「ちょっと待ってみますかね」


「ロイド、今日はやけに積極的だな」


「彼女の件は、大部分僕のせいだからね。黙って待つなんてことはしたくないんだよ、多分」

 借金取りってこんな気分なのだろうかと、僕は彼女の家の塀に体を預ける。


「そんなことはねーよ。半分は俺らのせいだ」


「それでも、半分は僕なのかよ。配分おかしくないか」


「細かいこと気にすんなよ。さっき自分のせい、うわぁ!」

 図体に似合わない情けない声を出した幹人は驚きのあまり固まっていた。今度はなんだよと冷たい視線を送ってから、彼の視線を追う。ブロック塀の切れ間から、半分だけ顔を出した西尾さんがそこにいた。さらにいえば、こちらに向かって微笑みかけている。確かに、これはホラーだ。


 固まっている幹人をほっておいて、僕は軽く会釈する。どうしてなのか、西尾さんは同年代という感じがあまりしなかった。


「どうして、西尾さんがここに?」


「どうしてと言われると、きみたちだけだと心配だったからよ」

 いつも頭の後ろで結ばれている髪は下ろされていた。それだけでなんだか別人のように思えてしまう。不思議なものだ。


「僕ら二人だけでも大丈夫ですよ」

 あまり話を引き延ばしたくはなかった。西尾さんは一見真面目な生徒という印象を受けるが、それはあくまでも彼女が繕っている一部に過ぎず、どこか胡散臭さがある。


「そんな邪見に扱わなくてもいいでしょ。話だけでも聞いてみない?」

 ここで断る方が何かされそうで怖い。彼女には、パンケーキ屋でのツーショットを握られているわけだし、下手に出ない方が賢明だろう。


「話だけなら」

 と僕は渋々頷いた。


 西尾さんは楽しそうにブランコを漕いでいた。時おりふわりと捲れそうになるスカートにどきまぎしながら、彼女の話に耳を傾けた。


 西尾さんの話は単純明快だった。あの家にはもう篠田一家は住んでいないということ。そして、篠田一家は二年前に引っ越してきたが、あまり近所付き合いをする方ではなく、どんな人たちが住んでいたのか分からないということだった。


「よくそんな情報を掴んだね」

 童心に返ったようにブランコを漕いでいる幹人を横目に僕はそう言った。


「何もそんなにむずかしいことはしていないわよ。ただ、あの同じクラスの情報屋と近所の人にちょっと話を聴いただけ」

 そう言って、西尾さんは耳に髪の毛をかける。


「なるほどね。じゃあ、あそこにはもう何の手がかりもないってわけか。それにしても、今は住んでいないって言ったけどまた引っ越したということ?」


「それはちょっと違うかもしれない。あくまでも近所の人のうわさだけど、夜逃げをしたらしいっ

て」


「夜逃げ!?」

 その声は住宅街に溶け込む公園の空気に反響していった。


「ちょっと」

 僕もあわてて自分の口を押えた。いやいや、だって、夜逃げなんてドラマとかだけの世界だと思っていたから。


「そんなにお金に困っていたのかな」


「夜逃げの理由なんてそんな単純なものばかりじゃないわ」

 ブランコに乗って足をぷらぷらとさせているところ見ていなかったら、大人の女性が話したような台詞だった。


 幹人はブランコをこいだ勢いのまま飛び降りた。一昨日、病院に行ってギプスがとれたらしく、最近の幹人は両足を不自由なく動かせることに喜びを感じているようだった。


「俺が見た限りでは、心愛の母さん優しそうだったけどなー」


「いや、別に優しいとかはさすがに関係ないんじゃないかな。あれ、でも、さっき家から追い出されたとか言ってなかったっけ?」

 幹人は腕を組んでしばらく唸ってから答える。


「うる憶えなんだが、あのときは別に俺が来たから怒ったって感じじゃねーんだよな。確か」

 言葉を探すような口調に僕も西尾さんも黙って幹人の声に耳を傾けていた。


「追い出されたのも、ちょっとちげーというか。そもそも、怒ったのはあいつの両親じゃなくて、あいつ自身だったのかな」

 なんだか見えない暗闇に置いてかれるようなものだった。


「それで?」

 西尾さんが幹人の言葉を促す。


「いや、それだけだけど」

 西尾さんは頭を抱えていた。


「あなたね、動物園のサルだってもうちょっと分かるように話してくれるわよ」


「なんだよそれ、まるで俺がサル以下だって言いて―のかよ」

 夕日で赤く照らされている幹人の顔は本当にサルを思わせた。僕が少し吹き出すと思いっきり背中を叩かれる。衝撃と同時に熱を帯びていく感覚があり、僕は少しむせた。


「手加減を知って欲しいよ、動物じゃないんだから」

 そう言うと、今度は小突かれた。


「それよりも、良いのかよ。あいつの手がかりないままもう一週間とちょっと経っちまったぞ」

 その言葉は僕の軽くなった体を重くさせた。


「良いわけないから、今日もこうやってここに来たんだよ」

 捜索願は撤回され、心愛に繋がる手がかりもなく、もうそろそろ打つ手がない。僅かな望みをもってここに訪れたものの、それすら指の隙間から零れ落ちてしまった。


「彼女の性格的に、私はまだ遠くに行っていないと思うのだけど」

 夕焼けに染まる空を見つめて彼女はそう言った。


「というと?」

 長いまつ毛で何度か瞬きして、切れ味のよさそうな眼がこちらを向いた。


「彼女はどちらかといえば、物静かな方だったじゃない? ほら、図書室とかもよく来ていたし」

 誰のことを言っているのだろうか。どこかで話がすり替わった。僕が訝しんでいると幹人が口を挟む。


「えっ、心愛の話してんだよな? あいつはどっちかというとギャルだっただろ。白坂たちとよく絡んでいたし、まあ化粧とかは校則でしてはなかったけど。それに、俺のタイプはそういうギャルばっかだから。西尾が言ったようなやつを好きにはならねーよ」

 僕は自分の頬をつねる。いや、これは夢じゃない現実だ。今目の前で何が起きているんだ。僕の知っている心愛からどんどんとかけ離れていく。それどころか、二人はまったくの別人のことを言っているようだった。


「あなたこそ、何を言っているのよ。篠田さんがそんなはしたない人間なわけないじゃない。あの人は高貴で清楚な人よ」


「はぁ!? お前こそ寝ぼけてんじゃねーの」

 幹人の歯切れのよい言葉と共に数滴のしずくが僕の目の前を通過していった。このままなら、収拾がつかなくなりそうで、僕がその間に入る。


「じゃあ、ロイドはどっちが本当のことを言っていると思ってんだよ」

 二人の顔が僕の近くに迫る。

 僕の知っている篠田心愛は、体に染みていた彼女の表情が、言葉が、僕の脳裏に映し出されていく。そのどれもが僕にとってかけがえのないもので、それでいて桜の花びらのように儚い。


 高鳴っていた鼓動が嘘のように静まっていった。

 興奮している二人の顔なんてもうどうでもよかった。


「僕の知っている篠田さんは――」

 僕らの知っている心愛はばらばらになっていき、その散らばった彼女のピースをそれぞれの人が自分勝手に統合している。まさに、そんな感じだった。僕のなかにいる心愛は、もう二人のなかにはいない。心愛の何かは確実に失われつつあるという予感を靡かせながら、僕らはテスト週間へと突入していった。



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