第三章 1
僕は見知らぬ土地にいた。人々の声は頭上から降り注いできて、僕は普段よりも首を傾けて見上げた。何もかもが巨大化している。見慣れているはずの木々すらも、初めて見るような気分だ。
僕はずっと遠くにある太陽に手を伸ばす。あともう少しで届きそうだと手に力を入れるが、太陽は僕の手にはおさまらず、燦々とぼくの頭上で輝いていた。あれ、と僕は掴み損ねた手のひらを見つめる。再び、太陽を見るときには睨んでやった。そんなことを気にしていない太陽はお構いなしにずっとそこに居続ける。生意気な奴だ。
僕の興味はそれだけに留まることをしらず、今度は長い隊列をつくった蟻たちに目を奪われる。そして、その蟻たちの行く末を見届けようと足に力をいれたとき、僕の右手はぎゅっと握りしめられる。その感触は嫌なものではなかった。むしろ、心がほっとするような気持ちになるもので、僕は握られた手を見てから、遥か頭上にある母親の顔を見つめた。
母親はいつも雪のように白かった。まるで別世界の生き物のように色素は薄く、きちんと掴んでいなければ、消えてしまいそうだった。その母親の顔が近づいてきて、何かを言った。それが一体どんなものだったのか分からないけど、僕はとても頬が緩んでしまった。
その直後、無数の黒い手が母親に向かって伸びていった。僕の目の前に広がる世界が歪んでノイズが走る。優しく微笑んでいた母親の口元が、目元が、もやもやとした煙で隠れていき、僕の前から母親は消えた。
怒号が後ろから飛んでくる。
僕は振り返る間もなく、背中に抉られるような激痛が広がり、僕はこの世界に初めて飛び出したときよりも大きな声で泣き叫んだ。
*
僕は突っ伏していた体を勢いよく起こした。その様子に何人かのクラスメイトはこちらに目を向けたが、すぐさま黒板の方へと視線を移していった。国語教師のお経のような朗読が続いていて、ここは現実なのだと胸を撫でおろす。
母親の夢はときどき見る。子どもの頃は、もっと見ていたような気がするけど、夢っていつの間にか記憶から消えていくのでよく覚えていない。ただ、母親が登場する夢はどれも僕に悲しさをもたらしていくのは確かだった。
僕は篠田心愛の席を見つめた。数日前まであった彼女の横顔はもうそこにはなかった。あれは夢じゃなかった。僕はあれ以降、ずっと夢を見続けているんじゃないかって思っていた。あの日、学校をさぼって海に行ったことも、彼女がアンドロイドだってカミングアウトしたことも、すべてが作り話で夢のなかの物語だったというオチをずっと待っているのに、この夢は一向に覚めてくれなかった。
ぽっかりと空いた席を見ても、前までならそこまで気を留めなかった。現に、彼女が入院をしたあの時まで彼女の存在すら曖昧だったくらいだ。それなのに、今はどうしようもなくそのことが気になって、勉強どころではなかった。今日からカレンダーが一ページ引きちぎられて、新たな月が始まるというのに僕はまだあの海にいるみたいだ。
そんな気分を一転させるような出来事がすぐそばに迫っていたなんて、今の僕には知る由もなかった。
クラスメイトが僕によそよそしいのは今に始まったことではない。なんなら、この高校の入学式の次の日あたりから、腫れ物に触るような扱いを受けている。その原因の一つに、精神的健康がイエローだということがあるだろう。というのも、管理社会に慣れていない人たちからすると馬鹿げているような話かもしれないが、今の時代、健康については国が一括で管理している。少しでもその健康にケチがつくと色々なサービスを受けられる代わりに、差別も受けられるという具合だ。
この管理体制の良さは、肌では感じないものの、テレビのコメンテーターの言葉を借りるのならデータとしては良い方向に向かっているということである。この体制が根付いてからは、精神疾患の減少、病気の早期発見などで功績をあげていて、なによりも働き者の日本人にとって休みがとりやすくなったのが大きい。その変化に伴って、日本の問題の一つであった自殺率がぐんと減少していった。若者世代が活気づき、少子化問題も解決の兆しを見せはじめ、今年の出生率は増加傾向を辿っているようだ。そのような前向きなデータとは無関係なところに僕みたいな人間がいる。
少し話はずれてしまったが、僕がクラスからどことなく浮いてしまっている要因はこういう社会的背景も関係している。もちろん、身体的健康のイエローはしょっちゅうみんななるわけだが、さすがに精神的健康のイエローはそれほど多くなく、マイノリティなわけだ。そうなれば、自ずと何かが起きるのも想像がつくだろう。
さらに、僕にはある容疑がかけられていた。それはよく考えれば、避けられたことなのかもしれないが、もう過去に戻ることはできないのだから、今あるこの状況下でどれほど耐えるかにかかっていた。僕には彼女を失った悲しみを味わっている暇などなかった。
僕は白坂さんに胸倉を掴まれ、何度も問われていた。僕は成す術がなく、されるがままに傷つけられ、全く身に覚えのない噂に振り回されている。
「なんで心愛に捜索願が出されているんだよ。みんな知っているんだぞ! お前が最後に心愛をたぶらかしていたことも。最近、おかしいのも全部お前のせいなんだろ」
今日付けで、心愛の家族が捜索願を出して、警察は事件と事故の両面で調査しているとのことだった。僕も何が起きているのか、どうしてこうなってしまったのか分からず、宙ぶらりんのままなのに、彼女失踪の犯人として疑われていた。僕としては、その容疑を否認するほかならなかったけど、その態度が気に食わなかったのか白坂さんの逆鱗に触れてしまい、今に至る。
僕は本当に疲れ果てていた。
「待てよ、そうやって責めても何も言ってくれるわけないだろ」
建設的な意見を出したのははらっちだった。
その言葉に、白坂さんは納得していなかったが、とりあえず胸倉から手が離れていった。僕は力なく床にへたり込んだ。
「俺たちはさ、別にお前がすべて悪いとは思っていない。だけど、あの日、篠田と何があった。それを知りたいんだ」
はらっちは真剣なまなざしでこちらを見ていた。そんなものを向けられたところで、さっきから言っていることを覆したりしない。
「何度も言っているけど……確かに、篠田さんと海には行った。だけど、体調も良くなさそうだったから、すぐに帰ることにしたんだ。それで、僕が帰りの電車で眠っている間に、彼女はいなくなっていた。それだけだよ」
「そんなはずないでしょ!」
空気を切り裂くような甲高い叫び声が僕の鼓膜を揺らす。白坂さんは肩で息をしていた。
「まあ、落ち着けよ」
幹人が肩で息をしている白坂さんの肩に手をおくが、それを払いのけてこちらに向かってこようとする。周りにいた女子たちも加勢して、彼女をどうにか落ち着かせる。
はらっちが口を開こうとしたときに、後方から声がした。
「事実はそうだとしても、いなくなる前触れとか、そういうのがあってもおかしくないと思うんだけど、きみは心当たりないの?」
圭太は感情を消してフラットにそう言った。
「少なくとも、僕はそういう変化はわからなかった。海に着いて行ったのも、話があるからと言われて、ついて行っただけなんだ」
「それで、心愛はきみになんか言ったのかい?」
「いや……とくには」
全方向から鋭い視線が飛んでくる。色々なものを隠してきた僕でも、これはさすがに隠し切れないかもしれない。でも、今ここで彼女がアンドロイドだったという話をするもの何か違う気がした。それこそ、おかしい人認定を加速させてしまう。
はらっちが息を吸った。
「ちょっと話ずれちゃうかもしれないけどさ。俺からすると学校さぼってまでどこかへ行くって相当仲良く感じるけど、そもそもロイドと篠田はどういう関係なんだ?」
この状況を生み出してしまっているのは、何もこの事件の容疑をかけられているだけではない。ずっと積み重ねてきた疑念が今回の騒動で爆発しているところはあった。つまり、僕と心愛の関係性はどういうものか、その真相を知りたいクラスメイトは大勢いるということだ。
僕の口元にクラス中の視線が集まっていた。
僕はしばらく逡巡してから、諦めたように息を吐いて口を開いた。
「篠田さんは病気だったんだ」
「それは知っているよ」
はらっちは怪訝な表情を浮かべていた。
「いや、盲腸とか、肺炎とかそういういつか治るような病気じゃなかった」
「ちょっと待ってくれよ、ロイド。そりゃどういうことだ」
幹人の悲痛な声には耳を塞ぎたかった。
「篠田さんは余命宣告されていた。もちろん、篠田さんが僕にそのことを伝えたんじゃない。たまたま、篠田さんの病室にあった日記を見てしまったんだ。それで……」
「なんで今までそれを黙っていたのよ!」
そう言って、白坂さんは何もしてやれなかったと泣き崩れていった。
「篠田さんに口止めされてね。もちろん、僕はみんなに言った方が良いって何度も伝えたんだけど、肝心の篠田さんはみんなの悲しい顔を見たくないから黙っていてとお願いされて」
我慢できずに何人かのクラスメイトは涙を流していた。静まり返る教室の中で、鼻をすする音だけが響く。誰もが俯き、自分自身の無力さを悔しがっているようだった。
いや、と圭太は声をあげる。
「俺たちも、入院が続いていて変だなと思っていたんだ。薄々まずいのかもしれないと感じていながらも、心愛に訊けなかった。同罪だな」
その言葉に反論する者はいなかった。
「だとしたら、早く見つけてやんねーとな。どこかでぶっ倒れていても助けてくれる奴いなかったらヤバいだろ」
「そうだね」
僕は幹人の視線を受けてそう答える。
クラス委員の圭太は最後にまとめるように手を叩く。
「心愛の事情はみんな何となく理解したね。じゃあ、警察とか自衛隊とかとは別に俺たちでやれることはやろう。はらっちは、彼女にまつわる情報を仕入れてくれ。幹人、白坂、空田は心愛の行きそうなところを当たってくれ。他のメンバーも心愛について何かあったらグループラインで連絡してくれるとありがたい」
その言葉を受けて、皆が頷いていき、いつもの喧噪が戻ってくる。
そうだよ、最初からこうやって頼って対処していれば、大事に至らなかったかもしれない。そういう後悔のなか、僕は今彼女がどこにいるのか想像を働かせていた。僕のもとから離れていく彼女は一体どこへ向かったのだろうか。僕は握りこぶしを作って、窓の外を見た。
茜色の空が広がり、開けられていた窓からそよ風が流れ込んでくる。きっと大丈夫だ。僕がまたここに彼女を連れ戻す。
――あいつなんてこのまま消えちゃえばいいんだ。
おそろしく冷たい小さな声だった。僕だけが言葉に誘われるように振り向き、その言葉の主を探したが、もうそこには誰もいなかった。
クラスに広がる喧騒が遠のいていき、僕はまるで一人ぼっちになったかのようだった。




