第二章 2
何の前触れもなく、心愛は学校に姿を現した。
彼女が教室に入ればたちまち人だかりができ、心配する声が飛び交う。僕はそんな喧噪を遠くから見つめていた。人の輪の中にいる彼女は生き生きとしている。病院にいるときの姿が嘘のようだ。
僕らは相変わらず他人のふりをした。いや、そもそも付き合っているわけでも、友だちになったわけでもないのだから、ふりという表現にはいささか違和感はある。けれど、今までずっと篠田さんと呼び続けていた僕が、急に心愛と呼んだら、周りがどう思うかくらい彼女も理解しているはずだ。
もし、そんな変化がクラスの誰かにばれてしまえば、今まで宙ぶらりんだった噂が花を咲かせてしまう。それだけは避けなければならなかった。僕の名誉のためにも。
僕はあくまでも、彼女の秘密を知っているただのクラスメイトなんだ。それ以上になることも、そうなることを願うこともない。彼女と出会う前のあの空気を纏えばいい。
そう思っているのに――。
遠くにいる心愛と目が合った。その目は病院にいるときのような儚げなものではなく、溌溂としてどこか輝いて見えた。すぐさま心愛の方から視線を逸らし、近くにきた女子と何か楽しげに話している。これが本来ある僕と彼女との距離だ。
結局、彼女は午後から早退した。これは後から聞いた話だが、早退は計画的なもので、これから徐々に体を慣らしていくためのリハビリだという。彼女にしては珍しく堅実的な判断をしたものだ。
幹人には、今日彼女が来ることを知っていたのかと訊かれて、僕は知らなかったと答えた。すると、幹人はひどく驚いた表情を浮かべていたので、僕も彼と同じように驚いた表情を作った。
数日ほど同じような日々が続いた。彼女は懸命に登校しては、午後には早退する。明暗という言葉がまさしく僕らを表現するにはぴったりだと思う。クラスの中心で輝く彼女と、つまらない日常を引きずる僕。
本当は交わることのない存在だった。それが偶然に重なり、僕と彼女は出会った。もう僕の役目は終わったんだ。
色褪せた世界をファインダーから覗く。
心はさざ波のように穏やかで、もう靡くような気配はなかった。
近くにあったタオルを取り、一眼レフを磨いているとスマホが震えた。
『篠田心愛:交換日記をしよう』
僕はスマホを強く握りしめる。
靡くことないと思った心はすぐさま靡いてしまった。
唐突な内容に首を傾げながら返信する。すぐさま既読がついて、彼女は学校では話せる状況ではないから今日あった一日の出来事をお互いにラインで送り合いたいとのことだった。僕はすぐさまそれに賛同して、僕らの交換日記が始まった。
とはいえ、最初は今更ながらではあるが、お互いの自己紹介から始まった。生年月日、星座、血液型、趣味、自己PR。最後の自己PRだけやけに履歴書じみていて笑った。
そして、最後にミッションと書かれてあった。なんだろうと、スクロールすると、学校でわたしにあいさつすること。そう、書かれてあった。僕は思わず布団に倒れこみ、大きく息を吐いた。やはり、彼女は悪魔である。
僕はひそかにチャンスを窺っている。もはや、朝来た時点であいさつできていないのだから、相当ピンチな状態である。そもそも、律義にあのミッションを遂行しようとしているのがおかしいとはわかっているけど、ミッションを失敗したら罰ゲームが待っていると思うとそうも言っていられない。
彼女が言い放った罰ゲームは、病院でのあれこれをばらした上で、そのことを学校の屋上で白状してもらうというおぞましいものだった。とても人間が考えたものとは思えない。
ともかくだ。彼女の思い通りにことが進むのはまずい。もし、へたなことが暴露されれば、取り返しのつかないことになる。このクラスが僕と彼女のどちらのことを信じるかなんて考えるまでもない。
三時限目の数学が終わり、もうなりふり構わず、挨拶をしに行くかと彼女の方へ視線を送る。いや、そんなことをすれば、周りに不審がられる。今は彼女が一人になるチャンスを窺うしかない。
しかし、学校に復帰して四日経ったにも関わらず、彼女の周りには人が絶えない。強力な磁石でもあるかのように誰かが必ずいる。となれば、僕と彼女のことをある程度知っている人が近くにいるときに行くのがベストなのかもしれない。
僕は教室中に視線を巡らせて、状況を把握する。今彼女の周りにいるのは白坂さんとそのお友達だ。幹人は今日病院で学校には来ていない。西尾さんはクールに本を読んでいる。あれ、これ無理じゃないか。ここ最近は、白坂さんのグループが心愛の周りから離れないし、そもそも僕と彼女のことを一番理解してくれている幹人がいない。
終わった。
万事休すかと天を仰ぎかけたときだった。心愛が何やら白坂さんのグループに声をかけてから立ち上がった。そして、その心愛についていく様子はない。心愛が教室のドアに手をかけた瞬間、僕は周りに気を配りながらそっと立ち上がる。何気なくトイレでも行くような素振りで、僕は心愛の後を追う。
廊下は他のクラスの人たちで溢れかえっている。どうやら、次が移動教室のようだった。ここで迂闊に彼女を呼んで挨拶するのはそれこそ目立つ。もっと人がいないようなところで声をかけるべきだ。
心愛はどんどんと人気のないところへと進んでいく。これ以上進めば、十分休みのうちに戻れなくなる。しかし、心愛はそんなのお構いなしに進み、ある場所で足を止めた。もうここまで来れば、声をかけたって問題はないはずなのに、僕は本来の目的を忘れ、彼女の様子を窺っていた。
彼女はあの空き教室に入っていく。それと同時に予鈴が鳴った。
僕はドアの陰に隠れて彼女を見つめる。心愛は殺風景な空き教室の真ん中に立っていた。彼女の手は何かを掴み取るように天井へと伸びていく。その光景には、既視感があり、僕の心臓を高鳴らせる。
あまりにも似ている。
というよりも、そのまんまだった。
「ねえ、いるんでしょう?」
その声に誘われるように僕は空き教室へと入る。
本来の目的などもうどうでもよかった。
訊きたいことはたくさんあるのに、僕の口はびくともしない。
真っすぐであるはずの床も歪んで見える。
――明日、一緒に学校さぼろっか。
軽く弾んだ彼女の言葉に僕はただただ頷くことしかできなかった。