第二章 1
母が亡くなったのは僕が幼稚園の頃だった。僕はまだ左も右もわからないまま、母が突然として消えた、そんな感覚だったように思う。悲しいという感情もわからず、僕は母がいつか帰ってくるのではないかと信じていた。だから、父のこれでお母さんとはお別れだよという言葉がとても不思議だった。みんなが泣いているのもよくわからなかった。何か大変なことが起きてしまったんだという漠然として気持ちのまま、僕はまだそこで立ち尽くしている。
あの頃から、僕は一ミリたりとも変わっていないんだ。体だけが大きくなって、周りの環境だけが目まぐるしく変わっていって、一見うまく溶け込めているようだったけどそうではなかった。
そのことに気がついたのは、篠田さんに出会ってからだ。僕はそれほどの傷を負っていないと思っていた母の死を、実は心の奥底でとても悲しんでいた。ずっと無意識の奥底に蓋をしていただけだった。篠田さんの姿を見るたびに、その蓋は緩み、少しずつその悲しみを意識するようになった。そうすると、体がすっと軽くなり、吹っ切れたようになる。彼女はそういうことをもたらせてくれる存在だ。僕は逃げているわけではない。彼女が彼女らしくこの世から去るための準備を手伝っているだけだ。そう言い聞かせて、僕は彼女の呼び出しに応じた。
淀んだ空気が晴れていくような気がした。どうして彼女のいる世界はそれほど澄んでいるのか、僕にはよくわからない。だけど、この前の迷いが嘘のように僕の気持ちは爽快感で満ちていた。
僕は首から提げたカメラを持ちあげる。
「ちょっと、やめてよ。化粧とかしていないんだから」
ファインダーの先に広がる世界は、僕の見慣れた世界だ。最近は消毒液の匂いも気にならなくなったし、非日常的なこの空間が日を増すごとに日常になりつつある。
恥ずかしそうに篠田さんは顔を両手で覆う。
「へぇーそんなこと気にしないと思っていたけど、篠田さんは意外と繊細なんだね」
そう言うと、枕がこちらに飛んできて、「うるさい!」とふとんを頭から被ってしまった。これはしばらく出てこないかなと思っていると、篠田さんはひょこりと布団から顔を出して何か言った。
「ごめん。僕最近耳が遠いのでなるべく大きな声でお願いします」
「……きみはなんで、わたしのことを篠田さんって呼ぶの?」
はて、と僕はカメラから手を離す。
中学生の頃から、女子のことを無意識のうちに名字に加えて、さんをつけるようにしていた。それが今も何となく残っているだけで、特にこれといってこだわりがあるわけではなかった。
「さん付けは嫌なの?」
「嫌というか、こんなに一緒にいるから……」
そこまで言った篠田さんは急に「あー」と叫んで、再び布団の中に入っていった。今日は情緒が安定しないらしい。こういう姿はおそらく僕以外の人には見せないから、よりその不安定さが増すのだろう。
僕は圭太の言葉を思い出していた。彼女のことを真剣に考えろか。そう言われても、僕は今日も彼女の呼び出しに応じて、部活動を早めに切り上げてここにきている。それだけで、もう十分なのではないか。これ以上彼女のことを考えたら、それこそ、ただのクラスメイトではいられなくなる。
圭太の目論んでいることはよくわからないが、僕は僕なりに彼女のことは考えているつもりだ。彼女との関係が近くなれば、きっと彼女は悲しむことになるだろう。だから、これでいいはずなのだ。
「そういえば、篠田さんに言われた小説読んだよ。今日はその感想を伝えればいいんだよね?」
もぞもぞと布団の中が動いたかと思うと、すぐさまその動きはとまり、どういう意思表明なのだろうかと僕はじっと見つめた。
「聞いているという体で話すね」
「……心愛でいいよ」
くぐもっていたが確かにそう聞こえた。
「心愛が聞いている体で話すね」
「えっ、ちょっといきなり」
心愛の驚いた表情がすぐ目の前にあった。投げ出されたふとんは宙を舞ってから、だらしなくベッドにぶらさがる。その光景が心の底からおかしくて思わず、吹き出してしまった。
すると、心愛は目を丸くしてこちらを見ていた。まるで宇宙人でも見てしまったかのようなその顔はおどろくほど間抜けだった。
「きみも笑うんだね」
「僕だって笑うよ」
夕日に照らされている彼女の顔は薄っすらと赤く染まっている。僕はすかさずカメラを持ち上げて、一瞬の隙も与えずにシャッターを切る。
「ちょっと!」
心愛は僕のカメラを奪おうと、こちらに飛びかかってくる。とても病人とは思えない身のこなしだ。僕は受け止めきれると思ったのだが、衝撃は思いのほかすさまじく、その勢いのまま床に倒れ込んだ。
じんわりと背中に痛みが広がり、僕は上半身だけを起こすと彼女の体が密着していて、腹部辺りに彼女の息遣いを感じた。僕は慌てて彼女の肩を揺らすと、心愛は顔をあげた。目と鼻の先に心愛の顔があって、しばらく見つめ合ったまま固まる。
病室のドアが開けられる音がした。僕と心愛はそちらに視線を向けると、看護師が立っていた。その看護師は無表情のまま僕らを見つめて、「ほどほどに」という言葉を残してドアを閉めた。
「ちょっと、まあっ」
僕の言葉が届くことはなかった。
「きみは大胆だね」
「今は、そんなこと言っている場合じゃないでしょ。絶対勘違いされたよ、あれ」
「いいよ。どうせ、わたしは死ぬのだから」
「いや、僕が全然良くないんだけど」
心愛は体を離すどころか、より体を寄せて、僕の胸あたりに顔をうずめた。ほのかに良い香りがする。そういえば、病院にもお風呂とかってあるのだろうか。そんなことを今の彼女に訊いたら、今度は殴られてしまうかもしれない。
「心臓がどくんどくんいっているね」
「生きているからね」
胸から彼女の温もりが伝わる。
夕日が翳り、病室は一段と暗くなった。
「ねぇ、何でそんなにすんなりと名前呼べたの?」
「元々、呼び方にそんなこだわりなかったからかな。嫌なら戻すよ」
僕はただのクラスメイトでいたい。その気持ちとは裏腹に、別の感情が疼き始めていた。そのことを隠すように、僕は彼女から離れようとする。だけど、それを逃がさないように彼女は僕の服を掴む。
「嫌じゃない」
「そう」
僕はできるだけ素っ気なく答えた。
心愛は諦めたのか、ゆっくりと体を起こしていき、僕のもとから離れていった。彼女は覚悟を決めたように唇をぎゅっと結び、僕を見つめた。僕は嫌な予感がして、彼女から視線を逸らす。
離れた体が再び近づいてきて、彼女は僕の耳元で囁いた。
――ねえ、わたしと心中しよう。
僕はその言葉を咀嚼していく。野蛮な言葉ではあるが、意味がわかればそれほど驚くものではない。僕は至って平然を保ちながら、彼女のベッドの横にある棚に視線を向けた。
「いちご同盟おもしろかったよ」
心愛はくすりと笑ってから、電池が切れた機械のように彼女は僕の方へ崩れてくる。僕はそれを受け止める。彼女の身体は小刻みに震えていた。
「ごめん、もう今日は限界みたい……ベッドまで運んでくれる?」
僕は何も言わずに頷いた。彼女をお姫様抱っこで持ち上げると、想像以上に軽かった。その軽さは、体の中身が何も入っていないのではないかと思うほどだ。淡い桃色の病院着から飛び出る白い手足は力なくだらんとしている。確実に病魔は彼女の身体を蝕んでいる。
心愛は顔をこちらに向けた。
「きみはやっぱり大胆だね」
「こんな冷たい床に放っておいたら、それこそ祟られそうだからね」
そう言うと、僕のわき腹に激痛が走った。軽かったから良かったものの、そうじゃなかったら危なく落とすところだった。全く気が抜けない。
心愛をベッドに優しく寝かせる。
彼女は体の力をぬくように深く息を吐いた。
「わたしはいちご同盟みたいな最期が迎えられるかな」
心愛は独り言のようにつぶやいた。
彼女の瞳はどこまでも黒く、吸い込まれそうだった。瞬きなく見つめられたその先には、何があるのだろうか。僕には見当がつかない。
陽の温かみが失われた病室には物寂しさが漂い、月がこちらを淡く照らしている。
――じゃあ、また。
この言葉をあと何回ほど彼女に向けることができるのだろうか。
そんな最悪を僕は考えていた。




