第一章 10
僕は篠田さんの病院の前で逡巡していた。
お見舞いに行く理由なんて必要ないはずなのに、僕はなぜかその理由を探していた。カラスが病院の周りで鳴くたびに、不吉な予感がよぎり、僕は病院に向けた足を引っ込める。
いつもはもっと明確な行く理由があって、仕方がなくという言葉を引き連れてここにきていた。それが無くなった途端、僕は意志を削ぎとられたロボットのように立ち尽くすことしかできない。その不甲斐なさが僕の心をざわつかせる。
手に持ったお菓子をリュックの中にしまい、彼女の病室がある窓を一瞥してから、病院に背を向けた。
「あれ、心愛のお見舞いに来たの?」
心臓が皮膚や筋肉を突き破って外に出て行くのではないかと思った。
振り向くと、圭太が朗らかな表情を浮かべて立っていた。
それを見なかったようにして僕は歩み始める。
「無視とはひどいな」
圭太は一歩ずつ、こちらの方に歩んできて、僕の隣にくると足を止める。ゆったりと僕の顔を覗きこみ、圭太は何度も頷いた。
何も言わない僕に、圭太は言葉を続ける。
「そうか、きみはどうしようか迷っていたんだね。いつもは何かときみがここにくる理由があったけど、今はそれがない。そうすると、途端にどうするべきかわからなくなった。そんなところかな」
心の中を見透かされているのではないかと思うほど、圭太の察知する能力はたけている。僕は比較的、表情が顔に出ないから、何を考えているのか分からないと言われることが多いのだが、圭太に限ってはそういうことの方がむしろ少ない。圭太は必ずどこからか情報を引き出してくる。
僕はそんな彼の言葉が苦手である。
そのまま認めるのは癪だったので、篠田さんのように聞こえないふりをすることにした。
「圭太こそ何でここに?」
圭太はゆっくりと瞬きをしてから、目を細める。
「心愛のお見舞いだよ。一応、クラス委員だからね。やっと退院したかと思えば、また一週間以上入院している彼女のことが気になってね。まあ、それに変な噂もあったしね」
それは元々決められている文字を読んでいるようだった。
「それで、大丈夫だった?」
「それは、きみ自身が直接見て来ればいい。俺が大丈夫だと思っても、きみから見れば大丈夫じゃないかもしれないだろ。特に俺は心愛とあまり仲良くないからね」
そう言って、目を伏せた。
心愛と親しみをもって呼んでいるところを見れば、ただのクラスメイトではない関係性なのだろう。僕の知らない篠田さんはそこら辺にたくさん転がっていてときどきすごく遠い存在に感じる。
「こんなところで立ち話もなんだから、あそこにでも入ろうか」
圭太が指さした先に、木で形作られた喫茶店があった。
喫茶店の内装までもが木材で構築されており、妙な温かみがあった。息を吸うと、木々の自然なにおいに混じって、コーヒーの芳醇な香りが鼻孔を刺激する。
圭太は水に口をつけてから、あっけらかんと言った。
「それで、きみは心愛と付き合っているの?」
口元まで持ってきていたコップを危なく落とすところだった。心を落ち着かせて、コップをテーブルに置く。
「どうしてそういう話なるのかな」
僕が首を傾げたかったのに、先に首を傾げたのは圭太だった。
「どうしてもなにも、きみたちの仲の良さはクラス中で噂されているよ。入院にかこつけて関係を深めたって。別にやましいことはしていないのだから、堂々としていればいいだろうけど……」
圭太はいじけているように見えた。なげやりに結ばれた言葉の末尾の向こう側は、まだ言葉が続いているのではないかと思わせた。しかし、そんな予感とは反して、圭太は口を噤んだ。
「別にそんなつもりはないし、篠田さんは幹人のことを想っているはずだよ。こんな根暗の僕なんかを好いているとは思わないし、周りの思い上がりじゃないの? 僕はただのクラスメイトだよ」
「ただのクラスメイトね」
それは嘲笑うようなものだった。
「人がさ、どれほど正確に自分のことを認識していると思う?」
話の着地点が見当たらず、僕は首を傾げた。
「つまり、そういうこと。自分のことになるほど人は主観的になっていく。それは当たり前の話なんだけど、きみはその度合いが強すぎる。正確に認知しようとし過ぎていて、かえってそれが本質を見えなくさせてるんだよ」
童顔に似合わず、大人びたことを言うのが彼だ。そういうギャップが女子たちから好評なようで、彼の周りにいる女子たちはいつもふわついている。僕からすれば、その達観した姿勢が癪に障るのだが、意外と男子たちからも信頼を得ている。本当によくわからないやつだ。
「僕は別に本質が見たくて生きているわけじゃないし、そんなものが必要だとも思わない」
圭太の目がぎろりと動く。
「それは必要がないんじゃなくて、逃げているんだろう。さっきだってそうさ。きみは何かと逃げている」
「逃げることが悪いことだとは思わないよ。何に対してもぶつかっていく圭太とは違うんだ」
「じゃあ、きみは心愛ことをどう思っているんだい? 周りがとか、心愛がとかそういうのは関係なく」
「いや、それとこれとは……」
「これは同じことだよ」
僕の勢いはどんどんと削ぎ落とされていった。
僕は篠田さんのことをどう思っているのか。そんなこと考えたこともなかった。篠田さんとはただのクラスメイトで、そして篠田さんのこれからを唯一知っているというだけだ。
「じゃあ、質問を変える。きみにとって心愛は何者だ?」
次々となだれ込む質問に僕は押しつぶされてしまいそうだった。
頭に浮かんでくる篠田さんはどこか儚げで、触れたら消えてしまいそうだった。だから、いつも消えないように頭の片隅にしまってある。
「そんなのわからないよ」
ため息が聞こえた。
椅子を引く音がする。
「それじゃあ、心愛が可哀そうだ。きみはもっと彼女のことを考えてあげるべきだよ。きみはアンドロイドなんかじゃなく人間なのだから」
そう、僕はアンドロイドではないんだ。そんなことはわかっている。だけど、僕は人として大切なものを失くしてしまっている。ぽっかりと空いてしまった空洞にはいつも虚しさばかりが蔓延り、いつも思い出すのは母の悲しそうな姿だった。
フラッシュバックする。
ノイズが走り、画面はひび割れていて、とても不快なものだ。
砂嵐の合間に、母の笑顔が映るもののすぐさま消えてしまい、そうして最後に残るのは母の怒りと悲しみが入り交じった複雑な表情だけだ。
テレビの電源が切られたようにぷつんと映像が途切れる。
僕にはわからないことばかりだ。
ポケットに入れたスマホが震える。
僕はそっと取り出し、その画面を見つめた。




