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第一章 9

 普段鍛えていない足は山の中腹辺りで悲鳴をあげていた。足の裏は摩擦で今にも火がつくのではないかというほど熱くなっていてあまり感覚がない。体のあちこちが軋んで、一気に歳を老いたのではないかと思った。


 それでも、ときおり吹くそよ風がじんわりと汗で濡れた服を包み込み、すべての憂鬱を吹き飛ばす心地よさがあった。登山している人が病みつきになる理由がなんとなくわかった気がする。


 僕は岩場の陰にある大きな石の上に腰を下ろす。体に溜まった乳酸を抜くように深く息を吐いた。


 気がついたら、また篠田さんのペースにすっかりのせられていた。昨日は帰ってから、すぐにラインが飛んできて、登山グッズと書かれたサイトと登山の心構えというアプリが送られてきた。もちろん、僕が登山に行くことを許可した覚えはないのに、最後に添えられたメッセージは楽しみにしているという文字にハートが添えられていた。もう後には引けないとため息をつきながらも、僕は意気揚々と準備を始めて、今に至る。


 首から提げたカメラを持ち上げる。ファインダー越しの景色は見慣れた街並みを映していた。いつもは僕の大きさなんて遥かに凌駕するほどのものばかりなのに、今は手のひらの中におさまるほど小さくてなんだか可愛らしかった。


 なんかいいな。僕は右手の人差し指に力を入れてシャッターを押す。写真としておさまった風景は味気ないものだった。やはり実際に目で、いや、ファインダーで見たほうがずっといい。


 ここには幹人も、篠田さんもいないのに、僕は一人で朗らかな気持ちになっていた。こんな気持ちは何年ぶりだろうか。


 登山も悪くないかもしれない。

 昨晩、登山に行くと父に伝えたら相当驚いていた。何度も死ぬなよとか言い出して、僕はどれほど信頼されていないんだろうかと思ったけど、それは仕方がないことだなと目を瞑り、僕は死なないよと伝えた。そして、登山ウェアと登山用バッグを何も言わず貸してくれた。


 結局のところ、人は一人でなんて生きていけないんだと思った。


 僕は残っている気力を振り絞って立ち上がり、頂上を見上げた。山峰は手が届きそうなほど近くにあるように感じるけど、思ったよりも距離があるんだよなとぼやきながら、また一歩ずつ山道を踏みしめる。


 頂上近くに差し掛かったところで、胸ポケットに入れておいたスマホが震える。そろそろかと、左手に着けた腕時計に目をやる。


 スマホを取り出し画面をスライドさせる。


『ねえ、景色みたい!』

 スピーカー越しの声はスキップしているようだった。少々の労いを期待していた僕からすると、すんなりとビデオ通話にしたくなかったが、あまりにも何度も迫られて、渋々ビデオカメラに変更する。そして、スマホのカメラを街の方へと向ける。


『うわあああ、すごいね! 高いね!』

 子どものように無邪気にはしゃぐ彼女の声を聞いたら、もう正直さっきまであったもやもやは吹き飛んでいた。


「そうだろ。これからもっと綺麗なところに行くから」


『期待している』

 こんなに楽しげな篠田さんは久しぶりだ。そんなことを考えるだけで、僕もスキップをして頂上まで行けそうだった。もちろん、本当はもうぼろぼろで足を動かすたびに、痛みが走るのだけど。それでも、不思議と僕の足は前に進む。


 しばらく僕の息遣いだけが流れていたから、篠田さんはご機嫌斜めになっていた。人の苦労を何だと思っているのだと、病院のベッドで優雅に見ている彼女に悪態つきたかったが、そんな元気もなかった。


 父によれば、この山は初心者にしては、少々きつい勾配と標高らしい。高校生なんだからそれくらい大丈夫だろうという甘い考えをもった昨日の自分がうらめしい。


『頂上まだ?』

 しまいには何かお菓子を食べる音が聞こえてきて、このスマホをたたき割ってやろうかと思ったが、それは彼女にとって何のデメリットにもならないのでやめておいた。


「少しくらい労ってくれよ」

 その言葉は聞こえていないわけないのに返答はなかった。相変わらず、便利な耳だ。


 額に流れる汗を右手で払い、痙攣する足を押さえて、深く息を吸って吐いた。標高が一千メートルを超えているからか、酸素が足りないような気がする。息苦しくなる一方で、勾配もきつくなってきた。呼吸だけに気を取られると、足元をすくわれそうだった。もうすぐ頂上なのだろうか。視線をあげる。手を伸ばせば届きそうなのに、その頂は果てしなく遠い。


 最後の気力を振り絞って、奥歯を噛みしめる。痙攣する足に力を入れて登っていく。数分ほど黙々と進むと、ごつごつとした岩場が現れる。そこを這うようにしてあがっていくと、一気に景色が開けた。


 登ってきた岩場の頂に足を踏み入れる。

 今までの苦労を労うかのようなそよ風が僕の頬を撫でた。

 僕はスマホのカメラを動かす。


『うわぁ、もうお腹いっぱいだね』

 それはさっきお菓子食べていたからだろうという突っ込みは言葉にしなかった。


 僕はスマホを胸ポケットに入れて、カメラの部分だけが隠れないようにした。首から提げたカメラを持ち上げて、ファインダーを覗き、少しずつピントを合わせていく。思わず息をのんだ。茜色の空が街の建物たちに乱反射し、街全体を赤色に染めていた。


 僕の手からカメラがするりと滑り落ちてもなお、僕はその景色から目が離せなかった。頭上にはトワイライトの空が広がり、街のはるか向こう側に小さく海が見えた。その海面に浮かぶ太陽は淡く灯り、この世界に彩りを与えていた。


「篠田さん、今度は一緒にここに来よう」

 一拍ほど間があってから『そうだね』と何かを噛みしめるような声がした。その言葉に僕はスマホをぎゅっと握りしめる。


『きみと夕日が見れてよかったよ』

 もう心残りはない、そんな風に僕には聞こえた。誰もいない山頂で僕は、叫びたい気持ちになる。どうしてこんなにも生きたいと願っている人間が報われなくて、死にたいと思っている僕なんかが報われるのかと。


 心は高揚しているのに、どうしてこんなにも心は寂しくなってしまうのだろうか。その理由が見つかる前に、太陽は地平線の彼方へと消えていってしまった。


『あのね……』

 その言葉を最後に篠田さんの声は途絶えた。慌ててスマホの画面を見てみると、電池切れのマークが表示されていた。


 体から空気を抜くように息を吐く。

 彼女は何を言おうとしていたのだろうか。

 繋がらなくなってしまったスマホをただただ見つめるほかならなかった。 


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