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【5】

 目の前で恋人が、望まぬ熱に侵されもがき苦しんでいる。


「俺の匂いでカイリは昂ぶり、俺はカイリの匂いで昂ぶる。分かるかな、キミには踏み込めない世界なんだよここは」


 頬を紅潮させた美原が天沢に近づき、その身を引き寄せようとする。だが彼を捕まえようとするその手は、大きく叩き払われた。


「さわ"る"な"ぁッ!」

「ははっ、酷い声だなカイリ。無理するなよ、俺たちはそう造られてるんだから」

「い"や"だぁ"!」


 触れられそうになるたび拒絶する天沢の唇は、噛み締めすぎて血が滲んでいた。


「カイリさんダメだ血が出てる! 美原さんっ、もうやめてください! カイリさんは嫌がってる!」

「嫌がってる?」


 求めてるの間違いだろう? ニヤリと笑い更に腕を伸ばした美原に、俺はついに飛びかかった。


「やめろッ!!」


 しがみつくように飛びついた相手の体は、やはりアルファなだけあって俺よりかなり鍛えられていて分厚い。同じ男の力で飛びつかれてもびくともしない美原は、しがみつく俺を冷たく見下ろしていた。


「そんなにカイリさんが欲しいと言うなら、どうして彼にこんな酷いことができるんだ!」


 すらりとした長身に、男性らしく引き締まった体躯。無遠慮で不躾な視線に晒されても、いつだって彼は堂々と背筋を伸ばしてこの窮屈な世界を歩いていた。しかしそんな彼がいま、アルファの圧に押し潰されそうになり背を丸め、全身をブルブルと震えさせ蹲っている。

 どんな時でも俺を守ろうと伸ばされていた大きな手は、そんな頼りない自身の体を必死に支えようと抱きしめていた。それが……とても悲しかった。


「カイリさんをっ、彼のことを本気で好きならっ、こんな酷いことはもうやめてくれ!」


 そう叫んだその時、しがみついていた俺の体が美原からベリッと引き剥がされた。そうして次の瞬間には骨がぶつかる嫌な音が自分の頬から鳴った。その音と同時に、気づけば俺は無様に冷たい床の上に転がっていた。


「あ"ッ……!」

「隼太ッ!」


 視界は過ぎる痛みで星が散ったようにチカチカしている。天沢の叫ぶような声が耳に届いてもまだ、自分の身に何が起きたのか全く分からなかった。

 鼻の奥からドロリとしたものが垂れてくる。それが手の甲に滴り落ちるのを、ぐるぐると回る視界でなんとか捉えていた。……そうか、俺は美原に殴られたのか。


「隼太ッ」


 天沢の呼ぶ声を遮るように、美原が床に転がった俺を跨いで立つ。そのまま胸ぐらを掴まれ持ち上げられた。


「本当頭にくるよ、お前」

「な……ぁ、がッ!」


 もう一度、少しの遠慮もなく同じ場所を殴りつけられた。


「ベータはさ、アルファの足元を這いずり回る小虫なんだよ、分かるか?」

「ゔあ"っ!」

「その虫がさ、アルファの所有物であるオメガをくすねようなんて小賢しい真似をしてさ」

「ぅがっ!」

「許されるはずがないだろ?」

「あ"あ"ッ!!」


 何度も何度も殴られ意識が朦朧としてくる。口の中にも血がたくさん溜まり、これが鼻血なのかそれとも別の傷から流れているのかすら分からない。

 霞んだ視界の奥に、こちらを見ている天沢が映り込んだ。

 床の上で蹲る体はぶるぶると震え、頬をたくさん濡らし、真っ青な顔でこちらを凝視している。今まで見た表情の中で、一番酷い顔をしている。

 それでも彼は、美しかった。


「カイ、リさん……」


 ポツリとつぶやいた彼の名前。その言葉を口にするだけで、俺の世界が華やいで見えた。

 オメガだとかアルファだとか、ベータだとか。そんなもの、もうどうだって良かった。


「カ……イリ、さん」


 彼の名を口にするだけで、だってこんなにも心が幸せで満たされて暖かくなるのだ。ふっと、思わず笑みが溢れた。


「お前、何笑ってんだよ」


 もう一度胸ぐらを強く引き上げられる。もう抵抗もする気力など一ミリもなく、両腕はダラリと下げられたまま。きっとまた思いきり殴られる。


「今日限り、カイリを忘れると言いな」


 冷たい眼差しが俺を突き刺している。返事次第では、今度こそ顔が砕けるような致命傷を与えられるかもしれない。それでも。


「ぃ……やで……す」


 それでも、俺は彼を手放す気になどなれなかった。


「はやたっ、」


 守りたかったのに。

 こんな風に、彼に泣いて欲しいわけがないのに。


「はやたぁ……!」

 

 俺だって、大好きでとても大切な貴方をこの手で、この俺の手でちゃんと、守りたかったのに。


「な……も、できな……て……ごめ……なさ」


 視界の端で、大きく振りかぶる腕が見えた。もう避ける余裕も、自身を庇う余裕もない。ただそのまま、容赦なく振り下ろされる暴力を俺は馬鹿みたいに見つめていた。


「はや"たぁぁ"あ"あ"ぁぁあ"あ"ぁあっ!!」







 ぐらりと揺れる視界。冷たい床にもう一度倒れ込んだ体は、しかし想像していた痛みをどうしてか感じていなかった。


「ぁ……う……?」


 揺れる脳をなんとか叱咤し上半身を持ち上げる。


「なっ、がぁ、ぐっ! あがっ!!」

「……な、に」


 なぜか俺を殴りつけようとしていたはずの美原が、俺の足元で冷たい大理石の床に両膝をついている。俺の血に濡れた奴の手は、まるで喉の奥に詰まる何かを掻き出そうとするかのように自身の首を酷く掻きむしっていた。


「ぐっ! ゔぐッ、がっ!」

「な、に……どうし……」


 苦しむ美原の後ろ、腫れ上がって狭くなった視界に黄金色が映り込んだ。


「か、イリさ、ん?」


 いつも自分に向けられてきた、蜂蜜を煮詰めたような甘い色ではない。まるで研ぎ澄まされた刃のように爛々と光るそれは、確かに美原を捉えていた。

 瞳が一際強く光ったその瞬間、ふわりと何かが俺の鼻腔をくすぐった。それは、その場には到底似つかわしくない花の蜜のような、優しい優しい癒しの香り。


「がぁあぁ"ぁ"あッ!!」


 だが俺を癒すその香りが強く漂った瞬間、美原が更に苦しみだした。


「カイリ、さん」


 天沢の瞳が更にキツく吊り上がり美原を見据え、口は牙を剥き出す獣のように歯を噛み締めている。

 嗚呼、なんてことだ────


「カイリさんッ」


 天沢は大理石の床に立てた爪を割りながら唸り声を上げる。そうして睨みつけられた美原は喉を掻きむしりながら、遂に口から泡を吹いた。


 カイリさん

 カイリさん

 カイリさん────


 俺は動きの鈍くなった体を無理やり動かして、まるで獣の王のように威嚇し唸る天沢の側までなんとか這いずり寄ると、その痛ましい姿を包み込むように抱きしめた。


「もう、大丈夫ですよ」


 床の上で、美原が白目を剥いて痙攣している。


「大丈夫、大丈夫ですよカイリさん。俺を脅かす怖いものはもうありません……大丈夫です、だからもう……どうか命を削ってまで、そんなことはしないで」


 自分が酷い目にあわされるかもしれなかったのに、貴方はこんな時まで……こんな時まで貴方の全てで俺を、守ろうとしてくれるんですね。

 命をかけて、俺を愛してくれるんですね。


 ベータである俺が本来なら感じるはずのないオメガのフェロモン。しかし今俺を守るように包み込んでいる優しい香りは、間違いなく天沢から出ているそれに違いなかった。

 無理やり起こされたヒートによって、異常なほど高くなった体温。本能に抗ったことで溢れ出た脂汗に体は塗れ、唇は切れ、爪は割れ、あちこちに血を滲ませて。そうしてまでバース性という本能から自身を、そして俺を守ろうとする彼のそのボロボロの体を……俺は、産声を上げる赤ん坊に触れるようにそっと、優しく抱きしめた。


「俺はずっと、貴方のそばにいます。貴方が俺を守ってくれるように、俺も全てのものから貴方を守ります」


 俺の声がちゃんと届いたのか、天沢の瞳に広がっていた不穏な光が少しだけ和らぐ。


「…………は……ゃた……?」

「あなたのことが好きです」


 付き合って、まだ三ヶ月。たったそれだけの短い時間でも、天沢カイリという男を知るには十分な時間だった。

 出会いはまったく運命的ではない、仕事の一環でなんてありふれたものだった。付き合いのスタートなんて突拍子のないものだったし、まるで流されるように始まってしまった関係だったけど。でも、それでも俺は。


「オメガだとかベータだとか、男だとか女だとか関係ない。俺は、誰よりも貴方のことが大好きです、カイリさん」


 一体いつから彼はこの身一つで、押しつけられる「世界の常識」と戦ってきたのだろうか。

ギュッと強く、でも優しく、彼の大きな体を抱きしめた。強張っていたその体から、威嚇するようなオーラが消えていく。俺にだけ優しくしてくれた香りもやがて薄れていって、気づけば天沢の全身からゆっくりと力が抜けていって。

 俺の腕の中、天沢はついに意識を手放した。



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