隣人宅にて
戸惑う胸を落ち着かせ、屋敷を去ったロージアが一番に足を向けたのは己の屍のもとだった。魂がロージアの姿かたちを保てているのは肉体がまだ生きているからなのでは。そう考えてのことである。
だが憶測は外れたようだ。馴染まぬ新居でロージアを迎えたのは無残な骸とたくさんの野次馬、そして女の啜り泣きだった。
「ではハルエラさん、あなたがこの方と話をした最後の人物なのですね?」
「はい……そうだと思います……」
「夜中に誰かが押し入る音は聞きましたか? 言い争いの声などは」
「わかりません……、私眠ってしまっていたので……」
細い肩を震わせてハルエラが声を絞り出す。項垂れた彼女の前髪の隙間から光る滴がぽたぽた落ちた。
(ハルエラ……)
ロージアはまたもや己が失敗したのに気がついた。デデルを追うのが昨夜の最優先事項だったとは言え、誰がロージアの第一発見者になるか少しも考えていなかったなんて。
ハルエラの腕には昨日とは別の編み籠があった。きっと一緒に朝食を取ろうと誘いにきてくれたのだ。どんな気持ちで彼女は床に転がった〝ロージア〟を見たのだろう。己の手落ちに対する悔いで胸が痛む。
(玄関の鍵をかけ直しておくべきだったわ。それか死体にシーツくらい……)
真夜中の追跡を始める前、一度はここへ寄りはしたのだ。人を呼べば助かりそうなら手は打ちたいと思ったから。
しかしあのとき血溜まりに突っ伏していた〝ロージア〟は誰がどう見ても絶命していた。仮に息があったとして何分ももたなかったに違いない。当人が即座に諦める程度には夜闇の中でも直視しがたい哀れな遺骸だったのだ。
(あんなものを、こんなに明るくなってから……)
乱れた髪、血の気のない四肢、命の空になった器。それはまだ昨夜と一つも変わらぬ姿でそこにあった。玄関に鍵がかかっていれば中までは入らなかっただろう。床がシーツで覆われていれば怪訝に思って一瞬でも心の準備ができたはずだ。それなのに──。
「ご協力ありがとうございます。おそらく物盗りの犯行でしょう。私は遺体に引き取り手がいるか確認に戻るので、現場は今少しこのままにしておくようにお願いします」
生真面目そうな警備兵は一礼するとハルエラを解放した。家から出るように促され、彼女はよろよろ歩を踏み出す。
(ハルエラ……!)
ロージアはついハルエラの背を追いかけた。好奇の目で隣人の不幸を楽しむ野次馬たちを睨みつけ、眼光を鋭くする。ここでもやはり霊視のできる人間はいなかったから無意味な威嚇に過ぎなかったが。
幸い短い帰路に着くハルエラを引き留めようと試みる愚か者は皆無だった。善なる隣人はうつむいたまま路地を通り抜けていった。
***
「ハルエラ? こんな朝からどこ行ってたの? 家にいないし、窓開いてるし、ご近所はなんか物々しいし、心配したじゃないか」
ハルエラの肩にくっついて彼女の家を訪ねたロージアは見知らぬ男と衝突しかけて身を反らした。
ハーフティンバーの一軒家。その玄関へと駆けてきたのはベージュの短髪に糸目の青年。背は高くも低くもなく、威圧感のない実直そうな若者だ。
「アキ君……」
男性を愛称で呼ぶハルエラに思い出したのは彼女が新婚ということである。夫の名前は確かアキオン・スプリンだったか。拭ったはずの涙を再び滲ませてハルエラは彼の胸に飛び込んだ。
「アキ君、私……っ! 私……っ!」
泣きじゃくる声が響く。アキオンは困惑しつつも妻を抱きしめ、家の中へと引き込んだ。少し悩んでロージアも閉まりかけた戸に身を滑らせる。
「どうしたの? 何かあった?」
アキオンは今帰宅したところらしい。染物工房の職人だそうだから仕事場は郊外にあるのだろう。染料というのは凄まじい臭気を放つ。だが今は爽やかな石鹼の香りが彼を包み込んでおり、仕事上がりに公衆浴場でひと汗流してきたのだと知れた。
おそらく毎日出勤しているのではなく、風呂の都合で数日分まとめて働いているのだろう。なんにせよ今日が彼の休日のようでほっとした。傷ついているハルエラをひとりぼっちにせずに済んで。
「き、昨日ね、裏の家に、ロージアっていうとても綺麗な女の人が引っ越してきたの……っ」
切れ切れに、だが順を追って丁寧に、ハルエラはロージアとの出会いを伴侶に説明する。ただならぬトラブルに見舞われた貴人なのはひと目で知れたと。立ち振舞いも言葉遣いも美しく、少しの会話で心根の立派な人だとわかったと。
「お金持ってるって誤解されて強盗に入られるかもって、私すぐに思ったのに、一人にしたら危ないかもってわかってたのに……!
一晩くらいうちに泊まってもらえば良かった! 私のパン、ありがとうって喜んでくれたんだから……!」
はらはらと涙を流すハルエラをアキオンは黙って強く抱きしめている。夫の胸に額を埋めて優しい娘はロージアのために泣き続けた。
「落ちぶれてたって、困ってたって、普通の貴族は平民にお礼なんて言わないんだよ……!」
きっといい人だったのにとハルエラは嘆く。蔑まれるかもしれないと承知でパンを焼いてくれたこと、今一度ロージアは胸を打たれる思いだった。
平民の心からの厚意でも「まさか感謝されたいのか?」と嘲笑を返す貴族は少なくない。公証人の娘だというハルエラなら彼らの冷淡さについてよくよく知っているはずだった。
「そっか、ハルエラ、僕のいないうちにそんなことが……」
アキオンの手が新妻の大地の色の髪を梳く。「とにかく君が巻き込まれずに良かった」と囁く彼にハルエラはかぶりを振った。
「でも私が、起きてちゃんと気づいてたら……! お医者様くらい呼べてたら……!」
たとえ知り合ったばかりでも隣人を救えなかったことは彼女の中で大きな悔いとなったらしい。死体も見たのだ。無理はなかろう。
泣き喚くハルエラを見ているとつらかった。彼女にはなんの咎もないのに。
「思いつめちゃいけないよ。悪いのは犯人で君じゃないだろ?」
ハッとハルエラが夫を見上げる。「あ……」と零して小さく頷く彼女の肩をアキオンは優しく叩いた。
「何かあったら起こすからさ、家のことは僕に任せて休んでおいで。君最近、色々あって寝不足なんだし」
ハルエラの手から編み籠を奪いつつアキオンは顎で階段を示す。ハルエラはまだ暗い顔で、けれど素直に「ありがとう」と二階へと上がっていった。
(…………)
そろそろ出て行ったほうがいい。わかっていたが放っておけずにロージアも後に続く。
開かれた扉の先は己も知っている部屋だった。昨夜霊として目覚めたとき、迷い込んだ素朴な一室。
「……無駄になっちゃったな」
安楽椅子に放置された編みかけのニットを手にハルエラが苦笑した。もしや薄着のロージアのために何か拵えてくれるつもりだったのだろうか。
ブーツだけ脱ぎ、ハルエラは着替えもしないで部屋の片端のベッドに潜る。
隣人の横顔と、枕を濡らす水滴だけをただ見ていた。拭ってやりたいと願いながら。
なぜだか酷く離れがたくてロージアも彼女の隣に横たわる。
そうしていつしかそっと瞼を閉じていた。




