偽造証明②
なんだ楽勝ではないか。公爵家優位で進む裁判にエリクサールはうむうむと一人満足に頷いた。
生意気にもエレクシアラが世継ぎの座に欲を出したときは驚いたが、危ぶむ必要もなかったようだ。先程から妹姫はオストートゲに情け容赦なく論破また論破を食らわされ、羽虫のごとく震えている。
いかにロージアが聖女ぶって加護を与えたと吹聴してもあれでは王太女に推薦する者などない。エリクサールの栄光には翳りの差す予兆もなかった。
(最近神殿騎士の一部がミデルガートにばかり懐いて余を蔑ろにする傾向があったが、もし連中がエレクシアラに一票投じるつもりでいたならきっともう考え直したに違いないな)
腕組みしたままフッと微笑む。突然地位を脅かされ、数日なんだか心細くて不安だったがそんなことは今忘れた。
やはりすべてエレクシアラとロージアの醜い嫉妬による誤解、清らで可憐なリリーエに対する虚実の非難だったのだ。天の星より美しい金髪と純真無垢な瞳を持つ彼女が異母姉を陥れるなど少し考えれば無い話だとわかるだろうに。まったく身勝手な女狐どもめ。
「王女殿下にこれ以上尋ねることがないようなら被告に主張を始めてもらう」
と、セイフェーティンが苦々しい顔で告げる。どうやら次は公爵家が主演を務める場面らしい。
「では王女殿下、お聞きください」
先刻までと同じく陳述はまたオストートゲがするようだ。開廷前リリーエは「父が話すのが一番説得力を感じられるでしょう?」と笑っていた。
どちらかと言うと感じられるのは説得力より威圧感だがリリーエが矢面に立たされるより公爵の傲慢ぶりを見ているほうがずっといい。エリクサールは心の中で「行け、アークレイ公!」と念を送った。
(そう言えば今日はリリーエの母堂も来ているのだったか)
傍聴席をちらと見やる。正式なアークレイ家の一員でないために拝殿の隅で娘を見守る桃色の髪の麗人を。
あちらはあちらで熟した実の憂いがある。エリクサールは「任せておけ! リリーエのことは何も心配いらないぞ!」と伝えんとウィンクした。カニエ・ツルムは祈るばかりでさっぱり気づいてくれなかったが。
「亡き妻ダーダリア・アークレイは気難しい女でした」
そうこうするうちオストートゲの論述が始まる。彼はまず故人がどんな人間だったか反論の出にくい形で説明した。
「王女殿下も仰せのように人付き合いは最低限、友人と呼べる相手はいないに等しく、ダーダリアはいつも自室で本を読み、他人への興味も持たずに静かに暮らしていたのです」
場内がややざわつく。そんな女をよく落としたなと例の不埒な御者に対する感想も耳に届いた。
「気晴らしに辺鄙な原っぱに出かける日もあったので、御者とは親しくなったのでしょう。しかし彼女の筋金入りの社交嫌いは死ぬまで治りませんでした。何しろ自分の実家にさえ便りを出さないほどでしたから」
公爵はどこへ話を持っていくつもりなのだろう。そんな厭世的な女が恋文を書くなどやはりおかしいと、エレクシアラが蒸し返さないか少し心配になってしまう。
古い手紙だ。偽物だと証明するのも本物だと証明するのも難しいに違いない。公爵は原告のように主観的で幼稚な理論は組み立てないと思うけれど。
「ゆえに今回証拠品として求められた資料を提出するのは大変なことでした。屋敷中引っ繰り返してもダーダリアの手紙、日記、そのほか私的な文章は一切出てこなかったのですから。結局妻の筆跡を参照できるものとしては公爵家の古い帳簿が数年分残るばかりでした」
オストートゲはわざとらしく裁判員やエリュピオン、貴族会議の面々と目を合わせる。そして恋文が本物だとする論拠を高らかに述べ立てた。
「帳簿というのは簡単に外部に持ち出せるものではありません。今回は家門の名誉がかかっているので一冊提出しましたが。妻の文字や文章に関する記録は本当に少ないのです。それらは普段誰も立ち入れない倉庫に保管されていたのだから、そもそも偽造が不可能だったのは明らかな話でしょう」
おお、とエリクサールは拳を打つ。参考資料が一つもなければ当然似た字で偽造はできない。できたとしたらそれこそ奇跡だ。
しかしとふと疑問がもたげる。ということは、その少ない資料を手にできた人間には偽造は可能だったという話になりはしないだろうか。
「アークレイ家ではこの五年、帳簿類の管理はロージアに一任しておりました。倉庫の鍵を持っていたのも出入り記録をつけていたのも彼女です。私が手紙を最近の偽造ではなく本物と信ずる根拠、おわかりいただけましたかな?」
後ろ姿しか見えずとも公爵が薄く笑ったのが知れる。彼の話は原告の主張を全面的に否定するものだった。
ロージアが先日パーティー会場にてのたまったのは、恋文偽造にリリーエが関与しているということだ。ならば偽造は少なくとも彼女が公爵家に入った後のこととして考える必要がある。
だがリリーエが引き取られたのはロージアの成人直後の五年前。その頃にはもう帳簿倉庫は当主であるオストートゲの管理下になかったのだから、彼らに偽造は不可能だったというわけだ。
「亡き妻の部屋も立ち入ることがあったのはロージア一人のみでした。恋文がもし偽造されたものだとしたら用意できたのは我々ではないでしょう」
そう説かれ、エレクシアラは白い額をぐっと上げた。彼女は怯えの抜けない声で「疑問があります」となお粘る。
「ロージア・アークレイ公女は異母妹を後継者として自ら教育していたはず。ならばそちらのリリーエ嬢にはつい最近も帳簿を手にするチャンスがあったはずでは?」
小さく震える声に反して視線はまるで棘のようだ。おお怖い、あれが憎悪に満ちた女の怨念面かとぞっとする。エリクサールは婚約者を哀れんで、華奢なその背にせめてもの愛の眼差しを送った。
「そんな……! 王女殿下はわたくしが恋文偽造の主犯格だと仰せになっているのですか?」
名指しされたリリーエは当惑しきって震え上がる。大きな瞳が潤む様を想像すると胸の潰れる思いがした。
「わたくしは……! ロージアお姉様を尊敬こそすれ悪し様に思ったことは一度だってありません……! あの方がアークレイ家にいられなくなった後、妹であるわたくしがどれほど耐えがたい寂しさを堪えていたか、王女殿下にはおわかりにならないのですか……!?」
ショックが大きかったのか彼女はさめざめと泣き崩れる。肩を落として身を縮こまらせるリリーエにエリクサールは思わず席を立ちかけた。
「いえ、お疑いになるのも致し方ありませんわね。王女殿下は大切なご友人を亡くされたわけですもの……」
ところが彼女を支え起こしに行く前にリリーエが頬を拭って笑顔を見せる。なんと優しい少女だろう。己を傷つけたその相手に清らな娘は首を振った。
「ですがわたくしは潔白ですわ。もちろん証明はできません。お姉様に後継者教育を受けていたのは事実ですもの。けれどこうして誠実にお話することならできます。何か不幸な行き違いで誤解があるのかもしれませんが、わたくしのことをどうか信じてくださいませんか……?」
リリーエがそう乞うた瞬間、拝殿の各所で息を飲む音がした。傍聴席からも裁判員席からも。
上目遣いで訴える真摯な姿は心に迫るものがある。この娘が手紙の偽造など考えたわけがない。エリクサールだけでなく皆がそう感じたのは確かだった。
一瞬でもリリーエを疑った者は皆強烈な罪悪感に襲われたことだろう。なぜなら少女は清廉そのものだったのだ。はっきりした証拠もないのに罪があると決めつけて、言葉の刃を振りかざすエレクシアラとは違って。
「王女殿下……! アークレイ家は本当に無実なのです……!」
強情な妹姫は黙るばかりで応じない。とは言えきっぱりとした拒絶もしようとはしなかった。
空気に飲まれて何も言えなかったのだろう。今ここで「信じられない」などと口にしようものなら一気に自分が悪者になってしまうから。
だがもはや勝負はついたも同然だった。エレクシアラは穴だらけの持論しか展開できず、まったく優位に立てていない。対してオストートゲとリリーエは的確に疑念を晴らし、裁判員からの心象を良くしていた。
おまけに今日はいつまでも「聖女の使い」が現れる気配がない。パーティー会場では王女こそ次なる王として相応しいと言わんばかりだったロージアが、エレクシアラの側についていないのだ。この事実は妹姫の──ただでさえ先代女王に瓜二つで敬遠されがちな彼女の──素養に対する疑いを膨らませるにあまりあった。
「王女殿下、アークレイ家にほかに聞きたいことはあるか?」
と、まるで仕切り直して空気を調整でもするようにセイフェーティンが問いかける。彼はどうやら王女を案じている風だ。
「では一つだけ……」
ゆっくりとエレクシアラがそう返した。歯痒そうに、だが今はこうする以外仕方ないとでも言うように。そのうえ更に彼女は引き延ばしを目論む。
「尋ねる前に話を整理させてくださるかしら。あなた方は偽造に不可欠な故人の肉筆は帳簿にしかなく、その帳簿は持ち出し不可能だったから偽造も不可能と見なした──そうですわね?」
妹姫は生気なく酷い顔色だ。このまま判決へと移れば敗北必至であるからか全身カタカタ震えている。
「ええ、その通りです」
答えたのは公爵だった。自信に満ちた彼の受け答えは裁判員にまた好影響を及ぼすだろうと予測できた。
(神殿裁判の裁判員は買収を防止するべく直前までどの神官に任じられるかわからぬからな。そんな彼らがこぞって公爵家につけばセイフェーティンとて無視はできん。やはり勝つのはアークレイ家だ)
あらゆる現在の状況が結末を予告している。中傷は事実無根なものであったと皆が頷き合う未来を。
それなのに未練たらしくエレクシアラは要約を繰り返した。
「帳簿を管理する倉庫に入室できたのはロージア・アークレイ公女と異母妹のリリーエ嬢だけ。しかし公女は手紙を偽造したところで得るものが何もなく、リリーエ嬢は恐ろしい計略を立てられるような人間ではない。だから偽造などなかった。公爵家側の主張はこれで合っていますか?」
補足を入れて妹姫は再度公爵に確認する。今度も返答は「その通りです」と変わらなかった。
「それでは一つお聞かせください。ダーダリア・アークレイ公爵夫人の筆跡を入手できた者は誓ってほかにいないのですね? 親戚も、メイドも、執事も、護衛騎士も、そのほかの誰も」
エレクシアラは別の共犯の可能性を探ろうとしているらしい。我が妹ながら本当に執念深い女である。
だが一体そんな可能性を追求して何になると言うのだろうか。どうせ今度も妄想じみた言いがかりだと一蹴されて終わりなのに。
「おりません。ペテラに誓って亡き妻の帳簿は厳重に管理されておりました。ロージアの仕事を監督するのは私の役目でしたので断言できます」
チェックメイトだ。裁判員は自分の意見を決めただろう。そろそろ大神官が彼らに見解を問いかけ、最終的な判決を下すときである。
エレクシアラは震えていた。先程よりもいっそう激しく。
彼女も深く己の無能を思い知ったに違いない。この先は王太女になる夢など見ずにひっそり暮らしてくれるといいが。
「──その言葉を待っていました」
と、奇妙な声が響き渡る。
泣いて敗北を認めるはずの妹姫の力強い声が。
「は?」
怪訝に王女を見やったオストートゲにつられ、エリクサールも原告席に立つ彼女を仰ぐ。
双眸が捉えたものはいつものエレクシアラではなかった。
まっすぐに背筋を伸ばし、彼女は晴れやかに笑っていた。こんなにも多くの聴衆を前にして、君主のように堂々と。
「ありがとうございます。それでは続けてわたくしの論拠を披露いたします」