卑劣な罠
疲弊した頭から良い考えは生まれない。ロージアは明日からの自分のために早々に床に入った。無駄に蝋燭を減らしたくなかったし、朝改めてハルエラの家を訪ねたかったから。
しかし簡単に寝付くことはできなかった。頭の中ではリリーエや彼女の母が何を企んでいるのか憶測をやめられず、ロージアを見限った父への悲嘆が渦を巻く。途切れ途切れに浅い眠りが訪れても脳は少しも休まらなかった。
何度も何度も同じ憂いを繰り返す。家族とは悪い関係ではないと思っていたのに。異母妹には目も手もかけたし、父にとっても望む娘で在り続けたのに。
──今読んでいるお話がまるでわたくしのことみたいですの。
家族で囲んだ食事の席。ロマンス小説の話題など持ち出したリリーエに父に代わって注意したのを思い出す。どんな趣味を持とうと各々の自由だが、人の集まるところでは口にすべきか熟慮なさいと。
──でもお姉様、お姉様も一度くらいは目を通しておくべきですわ。
リリーエに借りた本は、実は公爵令嬢だった庶民の娘が偽物の姉を追放してハッピーエンドを迎えるというものだった。人気だというほかの作品も苦労の末にヒロインが悪女をやり込めるストーリーばかりで、今にして思えば随分とからかわれていたような気がする。
そんな本はアークレイ家の女が読むものではないと叱りそうな父も小言は口にしなかった。あのときにはもう足元が崩れかかっていたのかもしれない。
(お父様…………)
薄い毛布を我知らずきつく握りしめる。そのときだった。ドンドンと玄関を叩く大きな音が響いたのは。
「……っ!?」
二階の寝所でロージアは飛び起きた。時刻は不明だが深夜なのは間違いない。礼儀ある客人の訪ねてくる時間帯ではないはずだ。
(ぬ、盗人?)
警戒しつつベッドから降りた。実際に金を所持しているかどうかは別にして貴族の娘と思しき女が入居したのは近隣にも知られている。妙な考えを抱いた馬鹿者が押し入ろうとするかもと懸念したからハルエラも気をつけるように言ったのだ。
だが来訪者は賊ではなかったようである。数回のノックの後、やや控えめに発された声は聞き覚えのあるものだった。
「お嬢様? ロージアお嬢様、こちらにおられますよね?」
ロージアは急ぎ蝋燭に火を灯す。階段からまっすぐ玄関に降りると覗き口の蓋を開いて誰が来たのか確かめた。
「……デデル卿?」
「そうです、俺です!」
三白眼にオレンジ頭の青年騎士はパッと表情を明るくする。こんな夜更けにリリーエの護衛がなんの用だろう。緊張が強まる一方で、もしやという思いも湧いた。淡い期待ではあったが。
「本当はミデルガートに来させたかったんですけど、あいつ暴れて謹慎中で」
ロージアの騎士の名に警戒心はやわらいだ。デデルは告げる。使用人たちで出し合った金を代表して持ってきたと。ドアを開けて受け取ってほしいと。
「わたくしのために皆が……?」
じんと胸が熱くなる。だがにわかには信じがたかった。ロージアが家の者に手厚かったのは事実だが、ここへ来たのがデデルというのがやはり解せない。
この男は軽薄だ。金を積めばいくらでも情報を垂れ流す。だからリリーエを信用しきらぬ父が彼女の側に置き、監視役にしていたのである。今もどういう意図でロージアを──御者と父以外知る者もなさそうなこの家を──訪ねてきたのか読み取れない面があった。
「ありがたいけれど金銭の援助は不要だわ。わたくしにも頭があるから」
何もできない令嬢ではない。食い扶持くらい稼いでみせる。ロージアがそう固辞するとデデルは「さすがお嬢様」と苦笑した。そしてしばしの沈黙の後、騎士は背後を気にしつつ来訪の真意を明かす。
「……実はお母上の恋文の件でお伝えしたいことがあります。中でしたほうが安全な話なのです。どうか入れていただけませんか?」
問われてロージアは迷った。ひょっとして手紙が捏造されたものだとデデルは証明し得るのだろうか。だがそれでも扉を開くのは危険な気がした。自分の護衛騎士ならともかく彼がこちらの味方だという保証はない。
「俺がここまで足を運べるのは今日だけです。お嬢様」
決断を迫る声に心は揺れた。もし有利な話なら聞いておかなければならない。泣き寝入りするのではなく裁判を起こしたければ。
(どうするべき? 能力だけなら信頼に足る男だけれど……)
リリーエについていた彼だからこそ見つけた何かがあるのかも。逡巡の後、ロージアは一つだけデデルに問いかけた。
「求めている報酬は何?」
「へへ、お嬢様は話がお早い。ひとまずは俺の持ってきた金袋ですかね」
対価の発生に安堵してロージアは息をつく。鍵を開けるとデデルはさっそく中へと潜り込んできた。すばしっこい男である。「座って」とロージアは彼を椅子に促した。
「ところであなた、この家の場所はどうやって──」
ミスに気がついたのは手遅れになった後だった。ハルエラと話をして少しは持ち直したものの、今日の己はやはり平静ではなかったらしい。
金袋が目的ならロージアのもとへなど現れず、そのまま横取りすれば済んだ話ではないのか?
思い至ったその瞬間、ぞくりと悪寒が駆け抜けた。
「……あんたはもう知らなくてもいいんじゃない?」
笑顔の騎士が剣を抜く。ほんのわずかのためらいもなく。
がらんとした部屋だから長い武器を振り回すにも難はなかった。
切っ先はすぐにこちらへと迫った。
「……ッ!」
手に持った蝋燭ごと斜めに切られる。
吹き出した血に目を見開いて転倒する。
(──あ)
最大の愚かは到着してすぐ新居を出なかったことだった。
寄る辺がないからほかを探しもしなかった。公爵家が本気で自分を締め出す気なら二度と帰ってこられぬように始末すると当然予測できたのに。
贈られたのは家ではなく、大きな棺だったのだ。
(嫌……! まだ死にたくない……!)
叫びたいのに声が出ない。血はどくどくと溢れ続ける。
咽返りそうな鉄の臭い。冷えていく体温。
指先から、四肢から感覚が消え去って、やがてロージアの意識は途切れた。




