不運な接触
聞き捨てならない言葉を聞いてオストートゲは「は?」と声を荒らげた。
どいつもこいつも人を小馬鹿にしてくれる。若造ならば若造らしく年長者の言うことに素直に従えばいいものを。
「今なんと言った? それとも私の聞き違いか?」
高圧的に問うたのに大神官は顔色一つ変えなかった。ただひと言、落ち着き払った口ぶりで同じ返事を寄越したのみだ。
「言った通りだ。露骨にそちらの肩は持てない。聖女像を前にしての公開裁判なのだからな。不自然な判決を出せば物議を醸すことになる」
生意気すぎる物言いに我知らず眉間のしわが濃くなる。一体どういうつもりなのだ? 普段はこちらの機嫌を損ねないようにもっと慎重に話すくせに。
オストートゲがリリーエを連れて大神官邸を訪ねたのは時計の針が四時を過ぎる頃だった。いつもはここにはもっと早くに来て帰るが、証拠品の提出は今日の日中、神殿が開放されている時間にと指定されていたために一番遅くに訪問したのだ。
長居をする予定ではなかった。二日後の裁判ではアークレイ家を勝たせるとセイフェーティンに約束させたらすぐ引き揚げるつもりでいた。だと言うのにこの男は、あろうことかオストートゲの頼みを拒み、八百長など不可能な相談だと鼻で笑い飛ばしたのである。
「……では明後日の勝利は確約できないと?」
低く問いを重ねれば精霊のごとき仕草で頷かれた。殺してやりたい不躾さだ。アークレイ家の当主を前にかけらの遠慮も見せぬとは。
「わかってもらえて助かるよ。敬虔なペトラの徒として私は公正な審判を下す。それが今回私のなすべきことだからな」
オストートゲは苛立ちを堪え、聖者と騎士を一瞥した。恋文と筆跡鑑定用の資料を受け取ったその直後、突然態度を変えた二人を。
従順で大人しい駒のはずだった。彼らは民間兵という人質を取られているも同然だから。
しかし今日の二人は違った。手紙類を金庫に収納するや眼差しを冷たくし、こちらの意思を汲もうともしない。騎士は帰れと言わんばかりに何度もドアを振り向くし、大神官は客間のソファにふんぞり返って長い脚を組んでいた。
目に余るふてぶてしさだ。力なき者はもっと怯えているべきなのに。
「貴様、自分の立場を弁えて発言しているのだろうな?」
暗に民間兵の叙任を延期するぞと脅しをかける。だが望む反応が返ってくることはなかった。向けられたのは渋面だけ。四人きりの大神官邸に不穏な空気が満ちていく。
こいつまさかとオストートゲが彼らの反抗理由に思い至ったとき、侮蔑の念を滲ませてセイフェーティンが嘆息した。
「わかっていないのはそちらだろう。私はどちらが勝とうと構わないのだよ。聞けばエレクシアラ王女も北部開拓賛成派だそうじゃないか? おかしいな。私は確か『この件で積極的に動いているのは公爵家だけ』と聞いたのに」
王女の情報を伏せていたこと。責められてオストートゲは舌打ちした。
おそらく昨日エレクシアラが大神官に余計な話を吹き込んだのに違いない。一人では何もできない気弱な姫だが今はロージアがついているから。
(くそ、こんなことなら追放などせず生かしたまま飼い殺しておくのだった。そうしたらロージアが死後に聖女の加護を得るなどなかったのに)
恐れもなくこちらを睨む大神官を睨み返す。憤激を取り繕いはしなかった。元平民などに下げる頭もない。
「後悔するぞ。私に擦り寄らなかったこと」
冷徹にそう吐き捨てた。王女の身分に騙されて役に立たない藁を掴んだと後で気づいてももう遅い。アークレイ家を、この己を、軽んじた罰を受けさせてやる。
「公はどうも勘違いをしているな。私は私の望みを叶えてくれるなら公でなくとも問題ないが、公の望みは私にしか叶えてやれないものだろう?」
思わぬ台詞にこめかみがひくりと引きつる。私を下に見ようというのか? 不快感が腹から喉までせり上がり、オストートゲは勢い席から立ち上がった。
「貴様……!」
だが掴みかかろうとした手は視線に鋭く制される。「裁判官への暴力は公を著しく不利にするが?」などと言われたら握り拳は引っ込めるしかなくなった。
不愉快だ。こいつも、王女も、ロージアも、何もかも。
「お父様」
と、ずっと見ているだけだったリリーエに袖を引かれる。今日初めて面会に同席した次女は「もう行きましょう」とかぶりを振った。
「大丈夫です。わたくしたちは手紙の偽造など絶対にしていないのですから。大神官様が公正に裁判を行ってくださるなら恐れることはありませんわ」
偽造恋文計画を立てた張本人の微笑みにわずか冷静さが戻る。
ああ、そうだ。セイフェーティンはデデルのこともブーンのことも知らないのだ。公爵家を怪しむくらいはしているだろうが決定的な証拠に触れたことはない。裁判当日誤魔化しきればきっとどうにかなるだろう。
「猊下はわたくしたちの味方ではありませんが、お姉様や王女殿下の味方でもありませんのよね?」
念押しされてセイフェーティンは「ああ、そうだ」と頷いた。神職の威厳を持って彼は言う。「ペテラに誓い、己は真実の味方だ」と。
「より明らかな証拠を揃え、矛盾ない論理を展開できた側が勝利すると考えてもらっていい。証拠品の保全には全力を尽くさせてもらうし、裁判においても一方の主張だけを偏重することはない」
「なるほど。でしたら問題ありませんわ。わたくしたちは先方の言いがかりを否定しきればいいのでしょう?」
淑やかに席を立ち、リリーエはスカートを摘まんでお辞儀する。目で退室を促され、オストートゲは一瞬の間逡巡した。
これ以上居座ってもアークレイ家を勝たせるという約束を取り付けるのは困難だろう。大神官は新たに王女というカードが存在するのを知ってしまった。それがゴミ札だと気づくには裁判を経なければなるまい。ほんの数日であろうともあんな小娘と同列に見なされたままなのは腹立たしいが。
「…………」
無言のまま踵を返し、出口へ向かう。「ごきげんよう」と辞去を述べる娘を連れて。
「気をつけてお帰りを。明後日は健闘を祈っているよ」
心のこもらぬ挨拶にオストートゲは眉をしかめた。愛想なしの騎士が開いたドアを抜け、大神官邸を後にする。
(必ず思い知らせてやる。思い上がりを悔いるがいい)
ほとんど蹴りつけるようにして奥庭の草を踏み歩いた。見送りの兵一人さえつけなかったセイフェーティンへの毒を吐きつつ。
忌々しい。聖女の涙くらいしか価値ある物も持たないくせに。
「……どうやらお姉様たちは相当対策なさってきたようですわね」
と、リリーエが小さな声でそう漏らす。「何?」と問えば奸智に長けた娘は所感を呟いた。
「大神官のお父様へのあの態度、王女側が勝つという確信がなければ取れないものでしたでしょう? 公爵家が勝てばまた今の縁が続いていくのに不遜に振る舞う意味などないはず。……何かあるのだと思いますわ。死人は証言台に立つなと制限されてなお勝訴を疑わない秘策が」
思いもよらない予測に愕然と目を瞠る。ならば二日後公爵家はどうなるのだ。息を飲むオストートゲに次女はにこやかに微笑んだ。
「続きは馬車で話しましょう。ここは敵陣のようですし、人に聞かれて困る話はできませんわ」
「連中の秘策とやらの見当はついているのか?」
「いいえまったく。けれど焦ってもいい知恵は出ませんので」
追い詰められていると言う割にリリーエは足取り軽く奥庭を行く。喚きたい衝動を堪えて己も次女を追った。
一歩ごとに不安は大きく増大する。提出した恋文にも筆跡鑑定用の資料にも致命的な穴などないとわかっているが、嫌な汗は止まらなかった。
あと少し。もうあと少しで望むものが手に入るのに。
(失脚する可能性があるのか? まさかこの私に?)
想像してゾッとした。あってはならない、そんなこと。
そうこうする間に足は本殿に辿り着く。神殿の巨大な三角屋根の下、本尊である白銀のペテラ像が据えられた暗闇に。
ここを抜け、神殿前部の拝殿を出て境内を過ぎれば百段階段だ。早く馬車に戻りたかった。麓の通りに待機させた。
本当にロージアたちが勝てると思って裁判を要求したなら対応を考えねばまずい。セイフェーティンを懐柔する以外の手堅い方法を──。
「あの! 大神官様に会わせてくださいませんか? 私ハルエラ・スプリンと申します。代書人ブーンの下請けをしていたと言えば伝わるかと思うんですが……」
そんな声が響いてきたのは本殿を出る直前だった。一般の参拝客は立入禁止になっている──そのため暗くて人気のない──こちら側から明るい拝殿に目を向ける。
四角く切り取られた出口。浮かぶ三つのシルエット。
リリーエがオストートゲの腕を掴むのは早かった。彼女は前方の兵士たちが客に気を取られているうちに近くの柱の陰に隠れる。聖女像を奉る祭室の大柱はずっしりと太く、小柄ではないオストートゲが半身で立っても十分に他人の視線を遮断できた。
「以前匿名で導きを求め、お話ししたことがあるんです。恋文の代筆に関する件で。それで私、明後日の裁判で王女様側の証人になれたらと……」
必死に兵に訴える高い声を耳に刻む。間もなくハルエラと名乗る女は兵士と一緒に本殿へ入り、奥庭へと歩んでいった。
豊かな大地のごとき髪。若草色の細いリボン。白エプロンに空色のシャツ。
焼きつける。靴の形からスカートの広がりまで、視認できるありとあらゆる特徴を。
「探る手間が省けましたわね。お父様、捕えるのはわたくしにお任せを」
耳元でリリーエが囁いた。王女側の切り札を見つけて次女は嬉しげに笑みを浮かべる。
なるほどまだあんな伏兵が隠れていたか。道理でセイフェーティンごときが強く出られるわけだ。
リリーエと目を合わせ、頷き合うとオストートゲは何食わぬ顔で歩き出した。まるでつい今本殿を通って現れたかのように。
わからせてやろう。誰が勝利を手にするべきか。
敗者は這いつくばるがいい。惨めに許しを乞いながら。