最後の安息
ああ、なんと晴れやかな気分だろう。近頃災難続きだったが今日は久々に胸が弾む。やはり己が主役として光を浴びると約束された場はいいものだ。
王族専用休憩室でエリクサールは紅茶を飲みつつ向かい合う少女を見やる。カップの持ち手にかけられた華奢な指、香気を吸い込む小さな鼻、伏せられた瞼を縁取る睫毛の一本一本までリリーエは精巧な人形のようだった。愛らしい碧眼がにっこりと細められると幸福な心地になる。「今日のエリクサール様はいつにも増して素敵ですわ」などと褒められたら昂揚は天井知らずだ。やはり恋人というものはこれくらい甘く優しくいてくれねば。
「ふっふっふ、そなたのドレスも今日は特別似合っているぞ。待ち遠しいな。余とそなたが華々しく広間に登場する瞬間が!」
「うふふ! きっともうすぐではございません? わたくしの着いた時点でほかの貴族の方々はほとんど到着なさっていたようですし」
宴はとっくに始まっているはずとリリーエは予測する。今頃は入場の音楽が鳴り止んで、最初のダンスの申し込みが行われていることでしょう、と。
「ふむ、ならばそろそろ誰か呼びにくるかな」
閉ざされたままの部屋の扉を薄紫の目にちらと映した。今のところノックの音は聞こえないが廊下を行き来する気配は随分増えたように思う。
本日の主役を務めるエリクサールとリリーエはダンスで広間が温まった後に手を取り合って現れることになっていた。なかなか良い演出だ。待機時間が長く退屈な点を除けば。しかしこうしてリリーエと二人きりで過ごせるなら少々待たされる程度は寛大に許さねばなるまい。
そう、己は心が広く慈悲深いのである。何しろ次の御世を統べる王太子なのだから。
「そう言えば入口で猊下が聖水をお配りになっていたのをご存知です?」
と、にこにこと嬉しそうにリリーエが尋ねてくる。
「大神官が? ほう、神殿を出てくるだけでも珍しいのにそんなことまでしているとは意外だな」
軽く返したエリクサールはなんでもない雑談のつもりだった。しかし可憐に微笑む少女は思いもよらぬ目撃情報を告げてくる。
「ええ、実はその場にミデルガートもいたのです。一緒になって来賓に聖水を手渡しておりましたわ」
「ミッ」
危うくセミの断末魔に似た悲鳴を上げかけ、ゴクリと息を飲み込んだ。生涯耳にしたくなかった騎士の名に一気に「あの日」が甦る。
──余が負けるなど有り得ない。具合が悪いに違いない。
そう思って熱を測るもまったくいつも通りだし、胃腸も元気で頭痛もなく、敗北の原因はさっぱり掴めぬままだった。侍医に見せても健康体との診断で、悪いのは具合ではなく星の巡りのほうだったのではと言われるだけで。
(あのとき余の神聖力はまともに機能していなかった──ような気がしたのだが……)
思い返すも脳は不可解で埋め尽くされる。わかるのは己が彼に負けたということ、ショックで数日寝込んだのに疾患は一つも発見されなかったということのみだ。もちろん神聖力は今も衰えなどせずエリクサールを守っている。
「わたくし溜飲が下がりましたの。ミデルガートはわたくしを主人と仰ぐのを嫌がり、エリクサール様にも生意気な態度を示しておりましたけれど、結局はわたくしたち二人のために城まで駆り出されているんですもの。どちらが真の勝者なのか一目瞭然というものですわ!」
リリーエは誇らしそうにエリクサールに微笑みかけた。そう聞いて「おお、なるほど!」と思わず拳を打ち返す。
「確かにこれは余の勝ちだ。そなたは賢いな、リリーエ!」
セイフェーティンはおそらく懇意な公爵のために祝いの席に馳せ参じたに違いない。せっかく公爵家を出たのに大神官に仕えるがゆえにミデルガートも否応なく従わされているわけだ。
気づいた途端に陰鬱は晴れ、エリクサールは満面の笑みを浮かべた。負けたとばかり思っていたが全然そんなことはない。ミデルガート程度の男、恐れる相手ではなかったのだ。
「うふふ! エリクサール様が快活なお顔を見せてくださって嬉しいです!」
最近塞いでおられたでしょうとリリーエが案じる素振りでこちらを見やる。優しく温かな眼差しはエリクサールの胸を打った。なんと愛情に満ちた女性であるのだろう。やはり彼女がキナ臭い犯罪に関わったはずがない。
(エレクシアラめ、嫉妬に駆られてしょうもない嘘ばかりつきおって)
妹を同じ休憩室に入れなくて良かったと今更胸を撫で下ろす。心無い言葉をぶつけられていたらリリーエはきっと深く傷ついた。
ミデルガートが護衛の任を離れたことも良かったのだ。あの性悪は王族への敬意も持たず、神殿内でやたらめったら大きな顔をするのだから。
(ふん、見ておれ。余の庭を引っ掻き回して面白がっていられるのも今のうちだぞ。年が明けたら正式配属が決まる前に騎士団から追い出してくれる)
この頃のミデルガートは臆面もなく神殿の下級貴族たちに「遠征では自分が最前線に立つ」と言って回っているらしい。命の危険に晒されやすい彼らの壁になってやると。
腹立たしい人気取りだ。神聖力も持たないくせに。それなのにたったの一度エリクサールを打ち倒したというだけでミデルガートは無駄に持て囃されている。おかげでこちらは毎日の訓練にも顔を出しにくくなったほどだ。
(なーにが『媚びずに済むのなら王太子殿下には媚びたくないだろう?』だ。皆が反論しないのは単に貴様の暴力を恐れておるだけだからな!)
ピシリと音を立てたカップにエリクサールはハッとする。どうやら指に力をこめすぎていたらしい。気がつけば持ち手にひびが入っていた。
いけない、いけない。冷静にならなくては。
「お時間です。ご準備はよろしいでしょうか?」
と、そのとき、侍従がドアをノックした。「ようやくか」とエリクサールはカップを置いて立ち上がる。
今日はきっとペテラスの歴史に残る日になるだろう。
聖女の奇跡の始まりだって我々を祝福するために訪れたのに違いない。
「行こう、リリーエ」
「はい! エリクサール様!」
婚約者の手を取ってエリクサールは歩き出した。
可愛いし、余計な小言は口にしないし、本当に伴侶として申し分ない女性である。出自が少々複雑なのであれこれ言われるかもしれないが、不届きな者がいたら自分が一喝して黙らせてやろう。
この瞬間、エリクサールは己を取り巻くほとんどすべてに満足していた。
自分という存在を根底から覆す嵐が迫っているのを知るのはこの少し後の話である。




