出陣前
幼い頃の思い出を胸に甦らせるとき、己は早熟な子供だったなと思う。早くから大人と同じように振る舞い、大人と同じ仕事をこなした。そうでなければ父母には認めてもらえなかったし、自分を愛せなかったから。
もちろんどんな家庭に生まれてもロージアが早咲きだったのは間違いない。人にはそれぞれ開花の時期というのがある。
そして今、ここにその固い蕾を開き始めた花が一輪。長い癖毛に櫛を入れ、流行遅れの衣装を脱いだエレクシアラが立っていた。
黒絹に黒糸で刺繍したシックなドレスは派手すぎず、親しかった友人の喪に服す意思を示している。祝宴であることを考慮してアクセサリーは大ぶりかつ華やかなものが選ばれていたが、それらは全体を引き締めて洗練された空気を醸し出していた。髪はすっきり結い上げられ、決してうつむくまいとばかりに高く重心が取られている。唇にはひとさしの紅。これが今日のエレクシアラの装いだ。生まれて初めて己の意志で戦場へと出向く彼女の。
「遅いですわね。無駄に緊張してしまうから早くしてほしいのに」
自室で侍女が呼びにくるのを待ちながらエレクシアラは呟いた。人払いされ、騎士すらいない部屋に二人。ロージアたちはこれから開かれるエリクサールとリリーエの婚約発表パーティーに備え、最終確認を済ませたばかりだ。双眸に不安を映す王女のためにロージアは努めて柔和に微笑みかける。
「もう少しだけご辛抱を。人が多いと入城にも時間がかかるものですわ」
推定した階下の状況を囁けばエレクシアラも「そうですわね」と嘆息した。だが今日の宴では彼女にも耳目が集まるとわかっているため落ち着きはない。先程から胸を押さえて室内を徘徊し、着席したかと思えばすぐさま立ち上がり、ずっとそわそわし通しだ。それでも王女の決めた覚悟は本物で、やはり後ろに引っ込ませてほしいなどとは乞わなかったが。
(本当に急に成長なさったわね。少し前までわたくしが守ってさしあげねばとばかり思っていたのに)
何度も自分の役どころを復唱するエレクシアラにロージアはくすりと頬を綻ばせる。
この二週間、綿密な打ち合わせを重ねて計画を練り上げた。アークレイ家を訴えるだけでなく王位継承順位をも動かす最善の方策を。愚兄を退けて自身が起つと決意した勇敢な王女のために。
目玉となるのは王太子の新婚約者発表だが、都の貴族が一堂に会する今日の催しは一年の功をねぎらう歳末祝賀会でもあった。奇跡の季節の到来を祝し、セイフェーティンも王宮に呼ばれている。今頃彼はガルガートやミデルガートと大広間の入口で乾杯用の聖水を配っていることだろう。
仕掛けは既に始まっていた。戦局を引っ繰り返す第一手は。
(聖女の涙を一滴ずつ飲ませれば皆の目にわたくしの姿が映る──)
今日の段取りはシンプルだ。宴の盛り上がりの最高潮、名だたる貴族と王の前でロージアがアークレイ家を告発する。突然死人が現れれば場は騒然となるだろう。たとえ公爵家であっても揉み消すことなどできはしない。婚約発表は強制的に延期となり、オストートゲとリリーエには釈明が求められる。
この手で引きずり出してやるのだ。神殿裁判の被告席に。
「お義姉様」
と、エレクシアラがロージアを見上げる。多少の恐れは滲むものの今までにない強い瞳で。
「後戻りできなくなる前に一つだけお聞かせください。わたくしは本当に次期国王に相応しい人間でしょうか」
王女の真剣な問いかけは様々な意味を含んでいた。単に君主の資質を有しているかなら答えは是だ。しかし彼女が案じているのはそれだけではないだろう。
エレクシアラが表に出れば貴族の勢力図が変わる。エリクサールについた者とエレクシアラについた者がいがみ合い、争い始める可能性がないとはとても言えなかった。
誰を頭に据えていようとほかが団結していれば国全体は安泰ということも有り得る。わざわざ均衡を崩してまで王位を獲りにいく価値が自分にあるかと彼女は尋ねているのだった。
「あなたは責任というものを理解し、果たそうとする方です。ご自分で決めた道ならば何が起きても投げ出しはしないでしょう」
ずっと見てきたエレクシアラの地道な努力を思い返しながら答える。けれどこの言葉では彼女の憂悶を取り除ききれなかったようだ。エレクシアラは目を伏せて「確かに投げ出しはしないでしょうが」と首を振った。
それなら不安の原因はもっと別にあるのだろう。広すぎる宮殿の奥で長い間孤独だったお姫様。彼女はロージアの去りしのちは一人で戦わねばならないと思い込んでいるのかもしれない。
「エレクシアラ、あなたがあなたに備わった力を示せば必ず誰か味方になる人が現れます。わたくしやミデルのようにあなたの真価を正しく理解できる人が。猊下だってそうでしょう? あなたが先代女王に瓜二つだということ、気にも留めておられないではないですか」
大丈夫とロージアは両手を前に差し出した。掌に神聖力をたっぷりこめて。
「堂々となさってください。どんなに姿がそっくりでもあなたは先代女王とは別の人間なのですから」
普通には触れられぬ代わりに王女の細い肩を優しく包み込んだ。本来王族に保護術など不要なのだが、自分はいつでも寄り添っていると伝えたくて。
別れの日を迎えるまでに彼女の道を輝くものにしてみせる。まずは今日このときから。
「さあ、これはほんの御守りです。誰にどんな目で見られても気になることはありません」
小さく囁き、ロージアは術を安定させた。効果のほどはあったのだろうか。視線を合わせたエレクシアラの瞳はもう少しも揺れてはいなかった。
不意にノックの音が響く。
侍女の声が姫を呼ぶ。
「エレクシアラ様、そろそろおいでくださいとのことです」
待ち時間が終わったことを察して二人で頷き合った。
「わかりました。今参ります」
ゆっくりと深く息を吐き、エレクシアラは扉へと進む。
ロージアも厚い壁を抜け、別ルートからパーティー会場の広間に急いだ。
いよいよだ。オストートゲとリリーエがはたしてどんな言い訳をのたまうか、今から実に楽しみだ。




