悪女の母
なんだか夢でも見ている気分だ。本当に自分の娘が王太子と婚約することになるなんて。こんなに豪華なローズピンクのドレスを見てもまだ実感が湧いてこない。見越していたのは公爵家での生活までだったから。
カニエ・ツルムの半生は吹けば飛ぶような塵のごときものだった。親の顔は覚えていない。幼い頃はぼろぼろの一軒家に大勢で住んでいた気がするけれど、記憶はぼんやりしたものだけだ。
ある日突然家を追われ、一家はバラバラになってしまった。おそらく家賃を払っていた父が逃げたか魔獣に喰われでもしたのだろう。その後はひとかけらのパンを得るために通行人に慈悲を乞い、路上で眠る生活が続いた。
運のいいほうだったには違いない。間もなくカニエは貧しくも豊かでもない一組の中年夫婦に拾われた。魔獣のせいで一人娘が死んだらしい。薄ピンクの髪と瞳が故人の好きだった花に似ていると聞かされた。小言っぽくて時々拳を振りかざす以外は悪くない人たちだった。カニエは養父母に感謝して、できる限り尽くしてやった。二人からの扱いは酷いものだったけれど。
昔のことを思い出すのは今が人生の節目だからか。
あれは十二歳の夏。昼のうちから酔っ払っていた養父がカニエを押し倒した。幸いすぐに義母が駆けつけて事なきを得たけれど、怒り狂った彼女はカニエを家から叩き出してしまった。
「淫売め! いつかこうなると思ったよ!」
耳にこびりつく言葉が重くて肩を落とす。漠然ともう帰れないのだと悟る。カニエは街をさまよって住み込みの職場を探した。
身体は十分成長していたからだろう。思ったよりも働く場所を見つけるのは簡単だった。だが雇われるのも早ければ出て行けと命じられるのも早かった。小さな家で家政婦をしても、どこぞの屋敷で下女をしてもすぐそうなる。薄々勘付いてはいたが己の容姿はトラブルを招きやすいらしい。愛らしかったから養父母は拾ってくれたのだろうが、捨てられた理由もまた同じだった。
どこにでも勝手に便宜を図っては見返りを要求してくる男がいた。カニエがそれを断ると暴虐になり、猛烈に冷たく当たる。まともな男は庇ってくれたが一時凌ぎにしかならなかった。女たちは同情するか蔑むか我関せずを貫いて、結局カニエを遠巻きにした。
真面目に、罪を犯さずに、ペテラの心に適うように生きているのにどうしていつも自分だけが困難な目に遭うのだろう?
そんな疑念が湧き上がるときカニエはより熱心にペテラに祈るようにした。辛苦は皆それぞれにあるはずだ。恨むのは筋違いである。それでもなぜ己だけ友達の一人もできずに孤独なのかは解せなかったが。
カニエの嫌う悪党にすら悪い仲間たちがいる。ひとりぼっちの者はいない。
せめて自分にも誰かいてくれればいいのに。自分と同じような誰かが。
叶うことのない願いを抱いてカニエは人生をやり過ごした。
転々と小さな店や屋敷を渡り暮らすうちにカニエは十八歳になった。その頃勤めていた館は使用人がとても多く、カニエも埋もれて過ごすことができた。
否、カニエを守ってくれていたのは人数より女王蜂の存在だろう。メイドの中に一人妖艶な女がいて、男たちは彼女に夢中だったのだ。
もう名も忘れてしまったが、女はカニエに良くしてくれた。自分も美貌には悩まされたと苦労話を打ち明けて、心からカニエのこれまでを憐れんでくれた。
初めての女友達。彼女と親しくなる中で聞き知った処世術はカニエの人生を大きく変えることになる。それでも当時はそんな手段を用いる日など訪れまいと思っていた。家族も友人もなく生きてきたカニエにとって、真面目に職務を果たすことだけが自分で自分に認めてやれる唯一の価値だったから。
女王蜂とはそれほど長く親密ではいられなかった。彼女の秘密の恋人である執事がカニエに興味を向けたせいだった。
お決まりのパターンだ。一度縄張り争いが発生すると参加したつもりもないのに己はその場を追放される。温かだった眼差しには憎悪や嫉妬が入り混じり、好意を伝えてきた口は悪女カニエに断罪を告げるのだ。
わかってくれると思ったのに。自分と似た誰かなら。
あなたのせいなんかじゃないと言ってくれると思ったのに。
「あの女、でっち上げの罪を着せて君を追い立てるつもりだぞ」
呼び出された暗い倉庫で愉快げに執事が笑う。誰しも自分が一番可愛いものだからな、なんてまるで部外者のような顔で。
噂は既にカニエの耳にも入っていた。ヒソヒソと陰口を叩きながらこちらを見やる者が増えたのにも気づいていた。
喚きこそしなかったがショックは深かったのだろう。急に何もかもどうでも良くなってくる。
馬鹿馬鹿しかった。こんなことにいちいち傷ついてしまう自分が。
もうこれきりにしてほしい。けれどどんなに願ってもどうせまた同じことが繰り返されていくのだろう。今までずっとそうだったように。
「対価をくれるなら公爵家に紹介状を書いてやろう。な、どうだ?」
鼻息がかかるほど顔を寄せて下卑た提案をする執事に、いつものカニエなら「やめてください」と拒絶の意を示したに違いない。だがもう首を横に振るのすら面倒だった。
失うばかり、奪われるばかり。それなら埋め合わせがあったっていいのではないか? ペテラだってきっと許してくれるだろう。こんなにも厄介な見目に生まれついたのに長い間よく耐えたと。
手放してしまえば倫理は紙より軽かった。
紹介状を握りしめ、カニエはアークレイ家に移った。
迷いを捨てれば人生は楽になる。言い寄ってくる男たちを適当に転がして、眉をしかめる女たちには被害者の顔をしていれば平和を守るのは簡単だった。本音をわかってほしいなどと望まなければカニエは愛される存在らしい。本当にそんなものが愛の一種ならなんて安い愛だと思うが。
新しい職場は過ごしやすかった。カニエが快適な環境を作り出すのに躊躇をしなくなったのもあるが、元々ここは行き届いた屋敷らしい。公爵の支配的な態度が使用人たちをいつもピリピリさせていた。それであまり粗暴な振舞いをする者がいなかったのだ。
表向きカニエも真面目に働いた。一年二年と平穏に過ぎていったから、ここになら根を生やせるかもと期待した。淡い夢は想定とまったく異なる形で叶うことになったが。
公爵夫人ダーダリアが第一子を出産したのは初夏の薔薇咲く季節のことだ。妊娠までになんと七年かかったらしい。公爵も公爵夫人も若いので意外だった。結婚生活がそれだけあれば四、五人は子供がいても不思議ではない。この頃は人口増加が問題視されているとは言え、公爵家なら跡継ぎ確保のために二人は作るはずだ。
屋敷の中では夫人がそういう体質なのだということになっていた。カニエも特に噂を疑ってはいなかった。「あの夜」が来るまでは。
「あの、奥様。お呼びでしょうか?」
夫人付きの専任メイドでもないのにカニエが寝所に呼び出されたのはもう日も沈んだ夜更けのこと。ベッドでは不機嫌なダーダリアが待っていた。
血のような紅い髪の、美しいけれど決して他者を寄せつけない、人間嫌いで本ばかり読んでいる──気位だけは高い貴族。ダーダリアはそんな女だ。
何を言われるのだろうか。カニエの心は久々に落ち着かなかった。
「お前、今夜から夫の夜伽の相手をなさい」
断れない響きを持ってダーダリアは冷たく命じる。思わず「は?」と返したカニエがその意味を理解するには随分な時間を要した。あまりにも度しがたい話だったから。
「わたくしが難産だったのは知っているでしょう? それなのにあの男、もう次は男児を産めなどと言うのよ。このままじゃ殺されるわ」
ダーダリアは眉をしかめて吐き捨てる。
夫人の身体はあまり強いほうではない。現在の体調などカニエが聞くまでもないほどだ。無理をすれば取り返しのつかない事態を招くのは明らかだった。
彼女は下女を欲望の捌け口にすることで最悪を回避しようというのだろうか。だがメイドが夫の情婦になればダーダリアの名誉が損なわれるように思うのだが。考えるほど謎は深まり、ますます困惑してしまう。
健康が回復するまで公爵に待てと頼めば済む話だ。それなのになぜわざわざ女を宛がう必要があるのだろう。
カニエは怪訝に夫人を見つめる。すると彼女は冷然と嘲笑を浮かべた。
「わたくしね、証明したいの。問題は公爵のほうにあるということ」
ダーダリアは「お前うちに来たばかりの頃、堕胎薬を飲んでいたそうね?」と尋ねてくる。カニエはぎくりと身を強張らせた。
堕胎薬は確かに買った。前の館の執事の子を宿してしまったようだったから。腹が大きくなる前に下ろせたのは幸運だった。決して安くはない薬でも万人に効果あるものではなかったから。
「お金ならたっぷりあげる。仕事も一部免除するわ。子供ができたら認知して養育費を支払うことも約束しましょう。そんな事態にはならないと思うけど」
だんだんとダーダリアの考えが読めてくる。彼女は孕みにくいことを自分のせいにされてきたが、本当は種のほうが劣悪だと言いたいのだ。畑を替えても芽吹かないならそうと明らかになるはずだと。
嫡子がいるから仮に庶子が生まれても相続時に大きな揉め事は起きない。「七年かけても女児一人しか産めない女」と名誉は既に深く傷つけられていて、主人とメイドの醜聞など夫人には今更問題にもならないようだ。
「頼んだわよ」
オストートゲとの間でも話はついているという。カニエは呆然としたままで公爵の寝室のドアをノックするしかなかった。
下っ端のカニエは業務の上ですら主人と直接関わった覚えがない。高圧的でニコリとも笑わぬ男だと知っているだけだった。
その男の視線が今、カニエの全身に注がれる。検分を終えたオストートゲはひと言だけカニエに問うた。
「桃色の髪の女は好色と聞くが本当か?」
聞き飽きた偏見だ。カニエの人生を困難なものにし続けた。
鼻先で笑いたいのをぐっと堪え、カニエは「さあ?」と曖昧に応じる。
「お試しになられればいいのではないですか?」
この屋敷で、夫人の認めた公爵の愛人になることは悪くない話だった。──悪くない話だと思うことで自尊心を保っていた。
いつか穴埋めさせてやろう。
胸の底で暗く冷たい炎が揺れる。
オストートゲはカニエに満足したようだった。彼の行為は暴力に近かったが、従順なふりさえすれば誘導はたやすかった。
その後の展開はダーダリアの思い描いた通りだったと思われる。カニエには一度として妊娠の兆候が出なかった。危険な時期にも交渉はあったのに。
関係を持つ頻度と期間が伸びるほどオストートゲは焦り出した。萎えたまま終わる夜もしばしばで、それでまた余計に焦るらしかった。
だが彼の機能不全は今に始まった話ではない。初回からそういう気配はないでもなかった。きっとダーダリアに酷評された経験でもあるのだろう。呪いにかかって再起できなくなる男は少なくもないものだ。
カニエと寝ると役立たずを思い知って傷つくくせにオストートゲは交接をやめようとしない。執着は別に愛ではなかった。カニエでなければ彼の息子の機嫌を取ってやれないからだ。夫妻はもはや同じ寝所に入ることもなくなっていた。
時は流れる。三年半かかってようやくカニエは子供を身籠った。その頃にはダーダリアは病を得、帰らぬ人となっていた。
使用人が主人の子種を宿した場合、屋敷から追い出されるのが普通である。金も紹介状も貰えず「無かったこと」にされるのだ。
だがカニエは公爵から二等地の下宿館を預かった。生まれた子には準男爵の爵位も授けてくれるという。
待ちに待った穴埋めが始まったのだ。カニエは一人ほくそ笑んだ。
王太子に見合う身分の令嬢が少ないことは知っていた。ロージアが誕生したとき彼女が最有力の候補者になるだろうと噂されていたことも。
オストートゲはおそらくもうこれ以上の子を持てない。だからカニエの産む赤子が公爵家を継ぐ可能性は十二分に高かった。
男児ならすぐにも引き取られるはずだ。どうしてかオストートゲは後継者に男を据えたがっているから。
胸高鳴らせてカニエは出産を迎えた。しかし産声を上げたのは男児ではなく女児だった。
「収支の報告は毎月屋敷に上げるように」
冷淡に館に関する指示だけ出してオストートゲは背を向ける。ほかにもっと言うべきことはないのかと苛立たなくはなかったが、これはこれでまあいいかと思い直した。
手元で育てた子供のほうが大きくなっても母親を大切にしてくれるだろう。それにリリーエはカニエによく似て愛らしい。公爵家に入る前に生き抜く力を身に着けさせてやらねばなるまい。
「お前には母様のような遠回りはさせないわ」
可愛い我が子を揺すって囁く。奪う側になりなさいと。少なくとも奪われ、支配される側よりは幸福でいられるから。
誰が共感しなくても自分が共感してやろう。世界に一人の裏切らない味方になろう。カニエには誰もいなかったが、リリーエにはカニエがいる。
「愛しているわ、リリーエ」
囁けば小さな手がカニエの指をぎゅっと掴んだ。
ああ、もう私も一人ではないのだ。
***
「どうしてもピンクのドレスが良かったんです。お母様の髪や瞳と同じ色の」
リリーエは頬を赤らめてこちらを見やる。確かな母娘の絆を感じ、カニエはとても嬉しかった。
(子供が親を超えていくってこんなに誇らしいものなのね)
思い出すのはリリーエがまだ幼かった頃のこと。カニエは悪い母親で、己の未熟さに無自覚なまま思い通りに娘を捻じ曲げようとしていた。
自分と同じ生き物が欲しくて仕方なかったのだ。その子を幸せにすることで不幸な自分を救いたかった。けれど。
強い敵に挑みたいとリリーエが言ったとき、カニエは突然視界が開かれた気がした。未知の感覚に激しく胸が高鳴った。
カニエを苦しめてきたものすべて、リリーエには己を高める材料でしかないのだ。傷つきもせず、恨みもせず、まっすぐに立つ娘がただ眩しかった。
リリーエは自分とは違う。けれどカニエをまるごと肯定してくれる。
苦しかったが確かに正しい人生だった。この光に出会うための。
「本当に楽しみだわ。明日の婚約発表パーティー」
万感の思いをこめてそう呟けばリリーエが「ええ!」と笑顔を弾けさせる。カニエは微笑し、そっと彼女を抱きしめた。娘の未来に祝福があるように。
(母様はお前が幸せならいいの。ほかの誰がどうなっても)
無残に散った紅薔薇を思い返して冷笑する。
アークレイ家に一瞬咲いた黄金が奇妙な枯れ方をしたのはロージアの運命を表してのことだろう。
恐れるほどのものではない。神国には明日新しい薔薇の蕾が開くのだから。




