真・熱血悪女リリーエちゃん
一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年、四年、五年が過ぎた。リリーエは十六歳の美しい少女になった。
後継者教育は間もなく終わり、ロージアもそろそろ城に輿入れする頃合だ。毎日は平穏で、リリーエにすら姉妹の関係は永遠になろうかと思われた。
だが運命は望む者に手を差し伸べる。
その始まりはなんの気もないカニエの零した愚痴だった。
「まったく難儀な男だわ」
母はまた本邸に呼びつけられていたらしい。「ろくに役にも立たないくせに朝まで付き合わせるなんて」とあちこちの凝りをほぐしつつ嘆息する。
オストートゲが不能と言うのは聞いていた。昔はもう少し体裁を保てていたが、リリーエの生まれる頃にはまったく駄目になっていたと。それでも相手がカニエなら多少どうにかなるようで、母は時々小館に朝帰りする。ねぎらいのデザートを持って訪ねたリリーエはこれまたなんの気もなく「ふうん」と母の不平不満に応じた。
「それにしても不思議ですわね。子供は足りておりますし、本来ならもう励む必要ないはずですのに。お父様はそんなに快楽を得たいのかしら?」
鉄で作った仮面のごとき無表情を脳裏に浮かべながら問う。気持ちいいとは聞くけれど、あの冷血人間がそんな遊びに固執するとも思えなかった。
「プライドの問題よ。変に完璧主義者だから、自分の息子がうんともすんとも言わないことに耐えられないの。それだけよ」
なるほどと納得する。確かに父にはそういう必死さがあった。高圧的な態度で誤魔化してはいるが、あれは小さな人間だ。いっそ哀れになるほどに。
紅茶が入ると会話は自然とデザートのことに移っていった。その日はそれで終わりだった。
天啓がもたらされたのは翌日だ。
リリーエはカニエの頼みで朝から神殿に出向いていた。母もそろそろ四十に近い。睡眠不足で具合が悪く、健康祈願の御守りが欲しくなったそうである。
拝殿へのお参りを終え、リリーエは急ぎ社務所に向かおうとした。
そのときだ。聞き捨てならない台詞が耳に飛び込んだのは。
「大神官、昨夜はヤバかったらしいな」
「聖女の涙飲む日だったんだろ?」
「そんなに精力つくなら俺も飲んでみてー」
「馬鹿野郎、そんなおこぼれがあるかよ」
「けど毎月余らせてるらしいじゃん!?」
年若い神殿騎士たちは参道に令嬢がいるのに気づくと慌てて口をつぐんでしまう。そしてそのまま声をかける隙さえもなく立ち去った。
(精力がつく、聖女の涙……?)
瞬間、電撃がリリーエを貫いた。
衝撃のあまり日傘を取り落とす。
──思い、ついてしまった。ロージアを追い込み、蹴落とし、尊い命までも奪う方法。
リリーエはカニエの出した課題通り、幼い頃から小グループも大グループも意のままに操ってきた。その知恵の集大成が公爵家に絡めるべき糸を示す。
これならきっと上手く行く。あの人と戦える。
己の全力を出し切った謀略をぶつけて勝利することが。
「お母様、わたくし王太子妃になります!」
人払いした小館でカニエに告げると母はぽかんと目を丸くした。
お前は何を言っているの。完全にそう困惑する顔だった。
「ど、どうしたのリリーエ? 急にそんなことを言い出すなんて」
カニエにはわからないらしい。わざわざロージアを押しのけなくても公爵の地位は確定しているのに、なぜそれ以上を求めるのかと本気で首を傾げられる。
居ても立ってもいられずにリリーエは絶叫した。
「でもわたくし、このままただの女の子で終わりたくないのです!」
技を磨けば試したくなる。人として当たり前の衝動だ。
ずっとずっと燻ぶってきた。平穏極まりない屋敷で。
「強い敵にこそ挑みたい……! そしてわたくしがほかでもないお母様から教わった手練手管が世界に通用することを証明してみせたいのです!」
わたくしやれます、やらせてください。リリーエは涙とともに訴える。
掴みたいのは努力の成果だ。譲られた星ではなく、自分の実力で手に入れた自分だけの地位だった。
己の伸ばしてきた才能の真価を知っているからこそ「必要ない」では諦めがつけられない。愛しているのだ、心から、人を罠にかけることを!
「リリーエ……」
この段になってカニエは初めて彼女の教育が何を生んだのか悟ったらしい。熱い手をリリーエの頬に添え、母は真剣な目をして問う。
「すべてを失うことになっても悔いはないのね?」
力強く「はい!」と返せばカニエはリリーエを抱きしめた。
「それなら母様も一蓮托生。お前とともに地獄を歩むわ」
テーブルの上で冷めていく紅茶には目もくれず、互いの想いを確かめ合う。
「お母様!」
「リリーエ!」
新たな目標を掲げた母娘の抱擁はやまなかった。
強敵を倒して最強の女王となろう。
ここまで育て上げてくれた恩師のためにも。
決めかねていた護衛騎士にデデル・ニークを選んだのはこのすぐ後のことである。彼にはこっそり神殿を調査させ、大神官の苦悩を暴き、聖女の涙の効能が確かなものか裏を取らせ、母と一緒に代書人を探してもらった。
父も簡単に手に落ちた。元より冷酷非情な人だ。「お姉様に代わって王太子と婚約させてくださるなら何度でも大神官を脅してさしあげますわ」と言えば利害は完璧に一致した。
オストートゲの協力のもと恋文が偽造される。故ダーダリア・アークレイは人間嫌いで手紙を残さなかったから、参照できる筆跡を用意するのだけは骨が折れたが。
準備は着々と整っていく。それとなくロージアにロマンス小説を貸し出して計画を匂わせてみたけれど、異母姉は気づきもしない。違和感くらいは覚えていたかもしれないが、決定的な疑いを持たれるには至らなかった。ロージアの立ち位置からは父の裏もリリーエの裏も見えないのだから当然だ。
深い落とし穴に嵌まったとき、それが墓穴だと知ったとき、彼女はどんな風に嘆くのだろう。正道で光り輝いていた人は。
(ああ、陰謀って最高ね!)
こんなにも創意工夫に満ちた情熱的な競技がほかにあるだろうか?
一生これだけやっていたい。これからもずっと、ずっと。
打ち立てられる記念碑を想像してリリーエは胸を震わせた。
──そうしてあの運命の一日がやって来て、ロージアという薔薇は散ったのだった。
***
白いカップをテーブルに戻す。窓に映る雪の量は先程よりもいっそう増したようだった。
「ごちそうさまです。とても美味しゅうございましたわ、お母様」
礼を述べ、リリーエは立ち上がる。座ったままでも良かったが、今日は母にどうしても見てもらいたいものがあったのだ。
「お母様もどうぞこちらへ」
手招いたのは衝立の奥。ローズピンクの華やかなドレスを広げた一角だ。
「まあ! これが婚約発表パーティーの衣装なのね?」
頬を紅潮させるカニエにリリーエは頷いた。
ぴったりした上半身の繊細さをスカートの膨らみで強調する新スタイルのドレスである。ギャザーを寄せた袖も優雅だし、何よりふんだんに薔薇の花があしらわれたところが気に入っている。
ロージアが存命だった頃、敢えて薔薇で身を飾る娘などいなかった。誰しも比類なき一輪に並ぶ勇気は持てなかったからだ。
これからはリリーエがペテラスの薔薇と呼ばれるだろう。
正式にエリクサールとの婚約が結ばれれば。
(勝利に浸って使用人をいたぶるのはもうおしまい。そろそろ王宮入りした後のことを考え始めなければね)
宮廷は今より遥かに権謀術数渦巻く世界であるのはまず違いない。
楽しみで仕方なかった。踏み出した道の先に待つ一切が。




