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ロージア ~悪役霊嬢に聖女の加護を~  作者: けっき
第1章 薔薇の命日
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ハルエラ

 怒りは時に己を支える活力となる。公爵家を追われたショックは大きかったものの、ある意味エリクサールのおかげでロージアは悲嘆に打ちのめされずにいられた。

 とは言えそれも新居に到着するまでの短い間の話だった。現実はすぐ明白な形をもってロージアが坂道を滑り落ちた事実を知らせた。


「こ、これがわたくしの家……?」


 慎ましすぎる一軒家をぽかんと見上げ、しばしその場に立ち尽くす。どこをどう見ても庶民向けの住居である。どんな生活を送る場所なのかロージアには想像すら及ばぬほどの。

 アークレイ家からの最後の贈り物として適切なのかそうでないかも判別は難しかった。見渡せば路地裏には似たような黒屋根のハーフティンバーが並んでいる。ほかに確認できるのは地区の共用らしき水場と小広場くらいだった。


(……寒い……)


 吹きつけた風に縮こまる。民家の陰からちらちらとこちらを気にする視線も心を波立てた。ともかくロージアは今後の住まいに入ってみることにする。

 昨日まで主人の娘だった相手に気まずさしかないからだろう。鍵だけ渡して御者はとっくに屋敷へ引き返していた。万事己で確認せねば教えてくれる者はいない。

 開錠し、重い木扉(もくひ)を押し開く。悪鬼でも待ち構えているかと思ったが、中は単に殺風景なだけだった。テーブル一つと椅子一つ、備え付けの大棚が一つ、空の暖炉に煤けた壁、小さな窓と細い階段が一望できたすべてだった。


(え? これだけ?)


 一階全体の広さは自室の半分もない。狭い箱に閉じ込められたようで陰鬱な気分が増す。

 足を向けた二階も大きな差はなかった。置かれていたのはベッドとチェストの二つきり。そのうえどの抽斗(ひきだし)にも新しい衣服はおろか一着の古着もない。


(もしかして食べ物もないの?)


 嫌な予感は的中した。一階の大棚も床下貯蔵庫も空っぽなことが判明する。衣も食もなく住だけでどう生きていけというのだろう? ロージアは深く肩を落とした。

 とにかく少し落ち着こう。膝の震えを誤魔化して傷んだ丸椅子に腰かける。

 だが座ったことでどっと疲れが押し寄せて、思考は却って乱れてしまった。考えなければならないのはこの先のことなのに、なぜこうなったかばかり頭をぐるぐる回る。


(絶対におかしいわ。人間嫌いのお母様が御者といい仲になるなんて)


 証拠品の恋文を見せてもらえなかったことも疑いに拍車をかけた。偽造だと証明できればロージアは家に残れたのに、一度の機会も与えられずに終わったことが。

 しかし同時に謎でもあった。わざわざロージアを追い出さずともリリーエはアークレイ家を手中に収められたのだ。一人娘と王太子の婚約が決まったとき、父オストートゲは使用人の産んだ異母妹を公爵家の跡継ぎとして育てるべく引き取ってきたのだから。


(お父様だって深いお考えがなければそんな恋文握り潰してしまったはずよ。何か理由があるのだわ。あの方には長いことわたくしだけが味方だったんですもの……)


 待っていれば迎えにきてくれるのではなかろうか。「お前を屋敷から遠ざけなければ危険だった」と事情を明かしてくれるのではなかろうか。

 甘い空想にロージアはかぶりを振った。手首を掴んだ父の遠慮ない力、氷と見紛う眼差しを思い返すとそんな展開はありそうに思えなくて。

 ──捨てられてしまったのだ。どうしてなのかは不明だが、アークレイ家に必要ないと見なされた。そうでなければ完璧を求めたあの父がロージアに土をつけるはずがない。


(わたくしこれからどうすればいいのかしら……)


 かたかたとかじかむ指を握りしめる。無人の部屋は寒く暗く、なんの展望も抱かせてはくれなかった。

 あるものは身一つだけ。己を守る方法すらわからない。

 ロージアは室内をうろうろしては椅子に戻りを繰り返した。

 混乱していた。無意味に過ぎていく時間を浪費するしかできなかった。

 一つも馴染むもののない部屋。有無を言わさず断たれた未来。すべてが重くのしかかる。

 公爵家の力がなければ何もできない存在なのだ。こんな形で自分の卑小さに気づきたくなんてなかった。不可能など何もないと信じていたのに。二十年の時をかけて積み上げてきた己自身を。

 ──どれくらい経った頃だろう。たった一人でどう生きていくか不安で胸が張り裂けそうになったとき、コンコンと玄関をノックする音が響いた。


「あのう、すみません。私この裏に住んでいる者なんですが……」


 木扉を隔てて聴こえたのはうら若い娘の声。突然の来客にロージアは思わず息を押し殺した。

 誰にも今の自分の姿を見られたくない。あったのはつまらないプライドだ。けれど隠れたところで自分の首を絞めるだけなのも承知していた。近所の者はロージアに興味津々だろう。応対せねば悪い噂が流れるに違いない。


「……どうぞ。鍵なら開いているわ」


 入室を許可すると隣人は「お邪魔しますね」とドアを開いた。

 思った通り若い女だ。肩下へと流れる髪は大地を思わせる明るい茶色、瞳の緑は新芽のごとく輝いている。パフスリーブのシャツと革のロングスカート、小綺麗なエプロンに編み上げブーツといういでたちは庶民の中では富裕な層だと匂わせた。人好きしそうな顔立ちで、どこかリリーエを思い出させる。


「えっと、私、ハルエラ・スプリンと申します」


 ハルエラは初めに自己紹介をした。年は十八、新婚夫婦で子供は無し。夫は染物工房に勤めており、自身は家政と雑務をしつつ過ごしていると。

 言葉に含んだところはなかった。目線には多少こちらを窺う素振りが見えたけれど、それは新参者を蔑視するものではなく対象についてよく知ろうとする友好的なものに感じた。

 だが敵意が露わでないからと簡単に気を許すわけにはいかない。何を考えて彼女がこの家の玄関を叩いたのか定かではないのだから。


「そう。よろしくね、ハルエラ。わたくしは……」


 ひとまず己も名乗ろうとしてロージアは声を止めた。ロージア・アークレイと名乗っていいかわからなかったからである。

 追い出された家の名を出すのはきっとまずいだろう。母方の実家の姓も使用は避けるべきだと思えた。

 では何か、今の自分は名無しも同然であるのか。


「………………」


 瞠目し、押し黙るロージアに察するものがあったのか、ハルエラは「あっ、いいですよ! お名前は話したくなったときで!」と焦ったように首を振る。それから彼女は腕に抱えていた編み籠をロージアに押しつけた。

 ひらりと捲れた布巾の下から香ばしい匂いが立つ。籠の中には柔らかそうな焼き立てのパンが詰まっており、色彩の欠けていた部屋が不意に華やいだ。


「これは……」

「お裾分けです。あの、差し出がましいかなとは思ったんですが、なんとなく大変そうだったので」


 ハルエラは馬車でやって来たロージアを見ていた一人らしかった。心遣いの伝わる笑顔で彼女は続ける。父親が公証人をやっていた関係で逼迫(ひっぱく)した状況の貴族に会うのは初めてではないのだと。


「近所の方はまだしばらく遠巻きにしてくると思うので、困り事があれば私の家においでください。ご不安でしょうし、できるだけ手助けしますから」


 それだけ言いにきたんです、とハルエラは笑う。邪気のかけらもない顔で。


「じゃあ私はこれで。すみません、お邪魔しました」


 踵を返したハルエラをロージアは思わず呼び止めた。「待って!」の要請に娘がきょとんと振り返る。


「……ロージアよ。ありがとう、ハルエラ」


 感謝を述べるとハルエラはこそばゆそうにはにかんだ。リリーエに似ているなどと思ったこと、申し訳なくなってくる。相手にしなくていい相手のために彼女はわざわざ足を運んでくれたのに。


「戸締りだけ気をつけてくださいね。物盗りが入ってくるかもしれないので」

「ええ、わかったわ。あなたが帰ったらすぐ施錠します」


 ハルエラが去った後、ロージアは椅子に座り直し、籠の中身をあらためた。三つ四つの丸パンだけかと思ったら、蠟燭にマッチ、ミルクまで入れてくれている。

 小さな親切はロージアの心に沁みた。彼女にきちんと礼を言えた自分自身を正しい人間だと信じられた。逆境は逆境のままでも。


(大丈夫。何がどうなってもわたくしはわたくしだわ)


 貴族や商人の私文書を作成する公証人なら自分もなれるかもしれない。公女として最高の教育を受けてきているのだ。市井(しせい)でだって十分通用するだろう。

 安心すると鈍っていた食欲が戻ってきた。

 丸パンをちぎって頬張る。口内に広がる温度に目頭が熱くなる。

 涙とともにパンを食べたことのある者だけが人生の本当の味を知るという。詩人ギエテの言葉を浮かべ、ロージアは微笑んだ。

 生きていこう。

 王太子妃や公女でなくとも生まれた意味があるはずだ。






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