誕生! 熱血悪女リリーエちゃん
ちらちらと細い雪が舞っているのに気がついて窓から薔薇園を見下ろした。先日つけた垣根の覆いは既に除かれ、枝葉は強い北風に煽られている。
(道理で冷えるはずだわ)
灰色の空を見上げてリリーエは毛編みのストールを羽織り直した。庭の緑が仄かに白い。夜にはもっと積もるだろう。雪かきなんてしなくてもいい身分になった今ではどうでもいいことだが。
(薔薇はすっかり例年通りね)
眼下の景色を一望してリリーエは胸を撫で下ろす。黄金が枯れた後、へばりついていた残骸は二日も経てば塵と化した。最初はなんの呪いかと恐れる者もいたけれど、アークレイ家にはもう十日以上不吉なことは起きていない。
(よその薔薇だって結局すぐに散ってしまっていたものね)
残念がっていた街の人々を思い出し、リリーエは口角を上げた。護衛騎士の死や原因不明の熱病が続いていたからまた何か起きるのではと心配しすぎていたようだ。エリクサールとの婚約発表パーティーも近づき、望んだすべてが間もなく手に入るというのに。
「リリーエ、お茶が入ったわよ」
と、母の呼ぶ声がする。「ありがとうございます」と礼を述べ、リリーエは冷え込む窓辺を離れると暖炉の前に据えられたテーブルに着席した。
元はロージアの自室であった薔薇の間の、円卓に並ぶ陶器のティーセット。アークレイ家のものではなくカニエが持ち込んだ私物である。
子供の頃、リリーエはマナー教育を受ける際にこの白いカップとソーサーを使った。ゆえにこれらは母娘の思い出の品として今も時々棚の奥から引っ張り出されてくるのである。
「久しぶりですわね。お母様が手ずからお茶を淹れてくださるだなんて」
微笑んで母を見つめれば「あと何回こんな風に過ごせるかわからないもの」と返事があった。
「あら、わたくしお母様には王宮へだってご一緒してもらうつもりですのよ? 王太子妃の生みの親なら伯爵位くらい授かるのは当然でしょう?」
肩をすくめるリリーエにカニエは口元を綻ばせる。どこまでも一緒。純真なその言葉に母は満足したようだ。
「さあ、冷める前に飲んでちょうだい。未来の王太子妃殿下」
促され、リリーエはカップを持ち上げた。湯気の立つ紅茶を鼻に引き寄せてまずはその香りを楽しむ。吸い込んだ甘い香気はリリーエをなんだか懐かしい気分にさせた。
「こうしていると思い出しますわ。お母様と暮らしたあの家のこと……」
「ふふ。私たち本当にここまでよくやってきたわよねえ」
しんみりとカニエが呟く。リリーエは「ええ」と同意した。
「本当に、長い道のりでしたわね」
ぽつりと零せば波紋のように達成感が広がった。来る婚約発表パーティーで賛辞と祝福の嵐を受ける己を夢想し、にんまりとほくそ笑む。
この辺りで一度己の人生を振り返るのもいいかもしれない。そうすれば頂に達した際の充足はより深いものになるだろう。
リリーエはそっと瞼を伏せた。
脳裏には古い記憶が駆け巡る。
自分という人間の血肉となった一切が。
***
忘れもしない。あれは四歳の誕生日。リリーエは生まれて初めて貴族令嬢の着るような豪華なドレスを贈られた。
肌触りの良い絹に半分透けたサテンのリボン、レース模様は手が込んでおり、大喜びで部屋中くるくる回ったことを覚えている。
当時リリーエはまだリリーエ・ツルムという名前でカニエと城下の小さな館で暮らしていた。貴族らしい戸建ての邸宅とは違う縦型の集合住宅だ。ただし一棟まるごと所有権はリリーエにあり、管理人を務める母は家賃収入で生計を立てていた。
「おかあさま、ありがとうございます! すごいですわ! とってもすてきなドレスです!」
はしゃぐリリーエを見つめてカニエは優しく微笑する。愛しげに薄桃色の目が細められ、花蜜のような甘い声が「気をつけなさいね」と呼びかけた。
リリーエは母のことが大好きだった。いつも足元にくっつき、どの部屋へもついて回った。柔らかな膝に抱かれては温もりに身を浸し、本当に幸福だったと思う。
カニエの「教育」が始まったのは誕生日の翌日からだ。早くもお気に入りとなったドレスでまたリリーエが軽やかに踊っていたら、突然母の手にドレスを剥がされた。代わりに押しつけられたのはぼろのワンピース。わけがわからず戸惑っていると厳しい顔でカニエが告げた。
「リリーエ、よく聞いて。お前はアークレイ公の娘よ。けれど正式な子供ではないの。養育費としてこの家を貰ったけれど、私たちいつまでもここに住めるとは限らないわ。ある日急に家具も何もかも取り上げられて追い出されるかもしれない。だからこの先何が起きても大丈夫なように、母さんと心構えをしていきましょうね」
母が何を言っているのか初めはよくわからなかった。ただ自分たちの暮らす家は予告なく奪われる可能性のある場所らしいと理解できただけだった。
「それってドレスがこんなきたないのになってしまうかもということ?」
「そう、リリーエは賢いわね。貧しくなれば服だけじゃなく食べ物も変わってしまうわ。腐りかけの肉や魚を食べられたらかなりいいほうでしょう。パンはカチコチで味のないのがほんのひと切れ、それさえ口にできない日だってあるでしょうね」
カニエは続ける。寝床を探して一晩中さまよう羽目になるかも、悪党どもにさらわれてよその国に売られるかもと。
「ねえリリーエ、私たちはいつそうなってもおかしくないのよ」
リリーエは怖くて震えた。慰めてほしかったのに母はそうしてくれなかった。それどころかカニエは泣きじゃくる我が子を倉庫に閉じ込めたのだ。暗く狭い闇の中、与えられたのは野菜くずの薄いスープが一杯きり。リリーエはたった一人で半日も寂しく耐えねばならなかった。
次の日もカニエはリリーエに同じことをした。一つだけ違ったのはカニエも古びたワンピースを着て一緒に倉庫で過ごしたことだ。
「お前が落ちぶれるときは母様も落ちぶれる運命だからね」
いつものように微笑んで母が言う。ねだればカニエはリリーエを優しく膝に抱いてくれた。物置は埃っぽくて辟易したが、その日は昨日より楽しかった。どんな暗闇でも母が側にいてくれるなら大丈夫だ。リリーエは安心して翌日を迎えられた。──けれど。
「お、おかあさま……?」
三日目、リリーエが着せられたのは誕生日に贈られた美しいドレスだった。対してカニエは昨日より更に傷んだぼろを着ている。己と母につけられた差にリリーエは恐れおののいた。今すぐカニエに普段着に戻ってほしかった。
「ねえリリーエ、これだって十分起こり得ることなの。わかるでしょう?」
落ち着いた声に淡々と諭される。リリーエだけが公爵家に引き取られ、母は一人で放浪するかもしれないと。それが一生の別れになるかもしれないと。
リリーエは泣いて、泣いて、泣き喚いた。そんなこと認められなかった。
「おかあさまはずっといっしょじゃなくちゃいや……!」
ドレスを涙と洟で汚し、半狂乱で訴える。そんなリリーエを腕に抱き止めてカニエはそっと囁いた。
「母様とずっと一緒にいたいなら、ただの女の子でいちゃ駄目よ」
学ぶべきを学び、人心を操る術を得なければ自分たちは生き残れないと母は言う。リリーエが努力を放棄し、甘い怠惰に身を任せれば、いつかカニエだけ路頭に迷う日が来るかもと。
「わかったら明日から母様と特訓を始めましょうね」
温かな部屋にリリーエを一人置き去り、自分は倉庫に閉じこもった母の姿にリリーエは尋常ならざるショックを受けた。そしてそのとき誓ったのだ。母の言いつけをよく守り、母を守れる娘になろうと。
こうしてリリーエは悪女の道を歩き出した。己の愛する者のために。




