聖女の涙
聖女の涙。そう聞いて最初に頭に浮かんだ言葉は「なぜ?」だった。そんなものを手に入れて一体どうしようというのだろう。
聖女の涙とはその名の通り満月の夜、ペテラ神殿の聖女像が流す涙のことである。大神官はこの聖水を用いて結界を保つのだ。当たり前だが一般人が所有していてもなんら意味なき代物だった。
「本当ですの? お父様は何をお考えなのかしら……」
ロージアは思わず大神官に尋ね返す。今度こそオストートゲの思惑が明らかになると見ていたのに、またもや謎が深まってしまった。
秘密主義の人だから大神官も用途までは聞いていないだろう。まさか封印を弱めて国家転覆を謀っているのではなかろうな。いや、それよりも貴族会議の完全掌握が現実的か。しかし思いつく憶測はどれもいまいち納得しかねた。
「というか大丈夫なのですか? 聖女の涙を他人に譲り渡すなど」
エレクシアラも不安げにセイフェーティンに問いかける。少々気まずそうな顔で大神官は「ああ、職務には差し障りない」と弁明した。
「アークレイ公に譲渡する予定だったのはこれまでの余剰分なのだ。適合度が高いためか私には汲み取れる半分ほどで十分でな。ただ神殿法では聖女の涙の取引は禁じられているから……まあ褒められたことではないよ」
余剰分。であれば封印は揺るぎないものなのか。ロージアにはますます父が神域の水を求める理由がわからなくなってしまう。
(信心深い人ではないし、コレクションしたいわけじゃないわよね。なんなのかしら、本当に)
ううんとロージアは頭をひねる。けれど皆目見当もつかない。
セイフェーティンに「封印を守る以外にはどう役に立つものなのです?」と質問するもなぜか答えは返らなかった。代わりのように大神官は真顔でこちらを凝視する。
「……ひょっとして知らないのか……?」
美麗な顔を思いきり歪める彼にロージアはえっとたじろいだ。もしや神国の貴族としては常識レベルの知識だったのだろうか。そう思ってエレクシアラを振り返ると王女も小さく首を振る。どうやら彼女にもなんの話か不明らしい。
偉そうに空中に浮かんでいるのをただちにやめてロージアは床に移動した。腰を折り、頭を低くして教えを乞う。できる限り真摯な態度で。
「申し訳ありません。わたくしが勉強不足だったようです。聖女の涙についてどうかご教授くださいませんか?」
今の流れからすれば秘匿されるような話ではないはずだ。だからロージアはセイフェーティンがすぐに応じてくれるものと思っていた。
だがなぜなのか大神官は言いにくそうに口ごもる。「それは、その」と目を泳がせて彼は返答をはぐらかした。
「困ってるみたいだし話してやれば? 一部じゃ有名な話でも知らねえ奴は一生知らねえで終わるだろ」
と、成り行きを見守っていたガルガートが横からそう口を挟んだ。ロージアもエレクシアラもミデルガートも一斉に「えっ」とどよめく。
「あ、あなたお義姉様が見えているの?」
「神聖物でも身に着けているのか?」
矢継ぎ早に問われた騎士は「違う違う、見えてねえし御大層なモンも持ってねえ!」と首を振った。
「さっきから声だけ聴こえてんだよ。今はこの、ここらへんから」
言ってガルガートは正確にロージアを指し示す。以前も土の中に隠れた際に気配を察知されたけれど、何がどうなっているのだろう。王族でも大神官でもない彼に霊体の声が伝わるなど。
「普通は見えないものなのか?」
きょとんと尋ねるセイフェーティンは己の騎士も同じ景色を見ているものと思い込んでいたようだった。神聖物か神聖力を持つ者にしか認識は不可能だと説明すると「なるほど」と頷かれる。
「ごく微量だがガルガートも聖女の涙を口に含む機会がないではないからな。それで少し神聖力が高まっているのだろう」
うん? とロージアは今聞いた言葉を脳内で検証した。
最初から神聖力を宿して生まれる王族と違い、大神官は後天的に聖女の力を身に宿す。その方法が聖女の涙を飲むことだ。適合度が高いほど得られる力も大きいのでペテラスの国民は幼少期に必ず一度は簡易検査を受けるようにと法で定められている。
なるほどセイフェーティンとガルガートの親密さなら意図せず一滴分ほどの雫を与えることもあろう。生々しい想像は控えるが。
「あ、見えた」
と、また異な声が響く。ロージアが熟考する間にガルガートはポケットからガラスの小瓶を取り出しており、無色透明の液体に浸した指をぺろりと舐めたところだった。
「何をやっているんだ君は!」
「いや、こうしたほうが話早いかなと思って」
「早いだろうがマイペースが過ぎる!」
どうやらガラス瓶の中身が聖女の涙であるらしい。行動の早い男だ。
ロージアは一応ぺこりと初めましてのお辞儀をした。ガルガートのほうはというとおもむろに息を吸い、深々と頭を下げてくる。
「すまなかった。間接的にはあんたが死んだのは俺らのせいだ。できることはなんでもするからこいつを責めないでやってほしい」
思わぬ謝罪に狼狽する。セイフェーティンも「やめろ、決めたのは私だ」と立ち上がって騎士の顔を起こそうとした。だがガルガートの岩のごとき巨体はびくとも揺らがない。
「主人の過ちを引き受けるのも護衛騎士の役目だろ? お前はそこで黙って偉そうに座ってろって」
ガルガートは腕でも脚でも好きにしろと言わんばかりの雰囲気だ。まったくなんてよく似た兄弟なのだろう。
「法律上あなたたちは罪と呼べる罪を犯したわけではないわ。聖女の涙の取引も未遂だし、今日の情報提供で十分相殺できるでしょう」
顔を上げてと促せば騎士は「すまない」とまた詫びる。重い空気を散らしたのはミデルガートの嘆息だった。
「詫びはいいから聖女の涙の効能を言え。何か知っているんだろう?」
このひと言で話題が少し遡る。封印を守る以外にはどう役に立つものなのか。注目は自然ガルガートとセイフェーティンに集まった。
「……あー、その、なんだ。アークレイ公でなくても昔から聖女の涙を欲する男はそこそこいてな」
ぼそぼそと歯切れ悪そうに大神官が喋り出す。大仰なほど逸らされた視線が妙に引っかかった。声は小さいし頬は赤いし彼はどうしたと言うのだろう。
「あれを飲むと神聖力が格段に向上するが、副反応としてほかにも──、まあ個人差はあるんだが、その……、そろそろ察してくれると助かる」
まったく意味がわからずにエレクシアラと目を見合わせた。大神官は両手で顔を覆い隠し、詳細の言語化が必要とは思わなかったから、などと縮こまっている。
断片としか言えないこんな話だけで推測し得るものなのか。謎解きをやっている場合ではないのだが。
そう苦言しようとしたときだった。ガルガートがストレートに告げたのは。
「──要するにだ、適合度が低くてもたくさん飲めば性的不能が治るわけ」
時が止まるとはこういう事象を言うのだろう。ロージアは真っ白に染まった頭をしばらく動かすことができなかった。
エレクシアラも同じくだ。ただ一人ミデルガートだけが反応素早く兄に怒声を浴びせていた。
「高貴なご婦人方の前だぞ! もう少し言葉を選べ!」
「これ以上どう選ぶんだよ!」
セイフェーティンが聖女の涙を半分以上余らせる理由に思い至ってしまい、ロージアはそっとかぶりを振る。護衛と懇ろになるわけだ。歴代最高の適合度ということは副反応も強いのだろう。
「……ではお父様も治療をなさりたかったと?」
なんとか平静を取り戻し、ソファに沈む赤面中の大神官に問いかけた。身を起こしたセイフェーティンは断定に近い答えを返す。
「ほかにあの傲慢な男に貧民を助けるほどの動機があるか?」
出揃ったピースはすべて繋がった。今ようやくあらゆる疑念が決着した。
メイドたちに手を出しきらなかったのはその活力がなかったからだ。乱暴をしようにも得物が折れていたのである。
リリーエをエリクサールの婚約者に据え直そうとしているのはロージアが父の指令より倫理を重んじるゆえだろう。聖女の涙は消耗品。安定供給を望むなら思うまま神殿を転がせるように王家を操らねばならない。
公爵家の跡継ぎがいなくなっても良かったのは、もう一人子供を作ればいいだけの話だったから──。
そんな未来と秤にかけて父はロージアを棄てたのだ。
「そう……フフ……。そういうことだったのね……」
漏れ出た声は怨霊らしく冷たく乾ききっていた。
「家門ごと滅ぼしていいと思います」
「使用人が路頭に迷わず済むようにわたくし手を貸しますわ」
ミデルガートとエレクシアラも肩を震わせるロージアを激励する。
父に対して残っていたひとかけらの情もたった今永久に失われた。代書人を殺し、娘を殺し、嘘を流布して人々を欺いた罪。償ってもらわねばなるまい。無論リリーエたちも一緒に。
「お義姉様、訴訟の準備をいたしましょう」
と、力強い声に呼びかけられ、ロージアは後方を振り向いた。いつの間にかソファから立ち上がっていたエレクシアラがまっすぐこちらを見つめている。
「わたくしがアークレイ公を訴えます」
訴訟人にはなれないとうつむいていたはずの彼女がそう告げた。枯葉の色の瞳を燃やして。
「わたくし痛感したのです……! 黙って大人しくしていたら功績は横取りされ、失態は押しつけられると。不正がまかり通るのも規範となるべき王族が揃いも揃って愚かなせいです」
父王に陰で悪者にされていたことがエレクシアラには相当ショックだったらしい。王女は「ですのでこれからは表に出ます」と高らかに宣言した。
「お父様も、お兄様も、わたくしを当てにするだけしてねぎらいの一つも口になさらないのですから……! あんな人たちに国を任せたくありません。この機にわたくし王太女を目指しますわ。お兄様を引きずり降ろして!」
かつて見たことがないほどに彼女は強く拳を握る。ロージアが「ですが証拠集めが途中でしょう」と宥めるとエレクシアラは左右にぶんぶん首を振った。
「いいえ。わたくしずっと考えていたのです。法廷ではどのような組み立てで公爵を追いつめるべきか。勝てる自信ならあります。もちろん猊下には厳正な判決を下していただく前提で」
王女は止まりそうにない。ハルエラという証人もいるわけだし、確かにもうアークレイ家を突き回す必要はなさそうだけれど。
「それなら急いでもらえると助かる。公爵は二週間後に婚約発表パーティーを行うと言っていた。聖女の涙はそのすぐ後に要求するつもりのようだ。渡してしまうときっと良くないのだろう?」
セイフェーティンの言う通りだ。父の手にメイドたちの身を脅かす危険物を委ねたくはない。そうなる前に必ずなんとかしなくては。
「わかりました。まずはその婚約発表パーティーをぶち壊してやりましょう」
ロージアは決意する。最後の幕を上げようと。
計画は頭に浮かびつつあった。後はそれを実行に移すだけだった。




