セイフェーティンの回想
磨かれた白影石のつるつるした床の上を、老人のしわだらけの腕に引かれて歩いている。それが己に思い出せる最も古い記憶である。
物心ついたときにはセイフェーティンはもう神殿の子供だった。
生まれた村は北の外れで、魔獣に襲われ滅びてしまったそうである。たった一人、まだ乳飲み子の己だけが血の一滴も流さずに寝息を立てていたらしい。
ひょっとしたらペテラの加護を身に受けた赤子かも。期待とともに王都へと連れ帰られたセイフェーティンはさっそく神官に試験された。
神殿には神聖力との適合度を示す魔法陣がある。その中にセイフェーティンが横たえられると円陣は眩い黄金に輝いた。
数百年に一人の逸材。それが神殿に引き取られた唯一無二の理由である。
先代の大神官はセイフェーティンを最有力の後継者として本殿の専用邸に迎え入れた。世が世ならそんな意向は黙殺され、自分は市井に捨てられていただろう。大神官とは神国の気高き守護者であるとともに、生まれだけは高貴な神殿騎士たちが与えられ得る最上の栄誉なのだから。
セイフェーティンがこの座に就くまで平民が大神官に任命された例はない。高位貴族も下位貴族も家門から聖者を出したがった。過去には平均をわずかに上回るばかりの乏しい神聖力しかない大神官もいたほどだ。
魔獣討伐の遠征でセイフェーティンは何度も何度も殺されかけた。敵である魔獣にではなく味方のはずの人間に。
次代の大神官を目指す貴族らには己が邪魔で仕方なかったのだろう。聖務に就く前のセイフェーティンは大きいだけの空の器に過ぎなかった。聖女の力は大神官に任じられて初めて授かるものだから、戦場で彼らを守る盾にもなれていなかった。
適合度の高さだけは音に聞く、しかし開花は先の蕾。今のうちに潰してやれと胸に殺意を秘めた者がはたして何人いたことか。
だがセイフェーティンは生き延びた。生き延びて、時代に選ばれ、史上最も強固な結界を生み出すペテラスの守護者となった。
それでも心は昔のままだ。所詮は平民と蔑まれていた頃の。
(先代の後見があったとは言え、所属は民間兵だったからな……)
ごろりと毛布に包まれたまま身じろぎする。隣の男を起こさぬように。
苦難の記憶は今も克明に脳に刻まれている。少ない糧食を得るために戦い、儚く死んでいった者たち。見捨てられて飢えた仲間。今でさえ民間兵に所帯を持とうと思えるほどの稼ぎはない。あの頃に戻るのはきっと一瞬だ。
なんとかしてくれと国王に直訴したのは一度や二度の話ではなかった。だがそのたびに返事を濁され、はぐらかされた。
大神官には権威はあっても権力がないのである。神殿のことは結局全部王と貴族が決めてしまう。信者からの寄付金ですら上限が定められ、余剰はすべて宮廷に吸い上げられた。
ペテラの作った神殿法は大神官が王家を脅かす存在になることを許さない。神国には終わりなき魔獣との戦いが宿命づけられているのに内戦などやっている暇はないからだ。
疑いもなくそれは正しい措置である。
だがしかし、聖女の予見しなかった民間兵という組織は金か権限のどちらかがあれば十分救えたはずなのだった。
(大神官になって二年。その間私がしたと言えるのはガルガートに護衛騎士を任せたことくらいではないか?)
静かに重い息をつく。
魔獣の出現数は減った。民間兵も今はそれほど危険な囮をやらずに済むようになっている。けれど根本の問題はずっと未解決のままだ。
耕す土地を得られれば、そこを所有財産にできれば、年老いつつある兵士も戦地を去れるのだ。王に封土を頼んだのは一人につき家一戸分。それだけだ。騎士と言っても下級騎士なら準貴族だし、誰の取り分も奪いなどしないのに。
(貧民が不動産を持つこと自体気に入らない連中が多いから……)
思い出す。貴族たちの冷たい目。もし今飢饉に見舞われれば躊躇なく彼らは貧しい者から切り捨てるだろう。
──あれを譲ってくれるなら民間兵に土地と爵位を与えよう。
条件付きでもこちらのために動いてくれると言ったのはあの男だけだった。
手を取る以外なかったのだ。自分では救えないものを救うには。




