苦悩する者
予期せぬ事態が起きたとき慌てる者は少なくない。大神官が対応を焦るほど大小のミスが期待でき、公爵家の悪事の証拠を握れる可能性は高まった。
だが意外にもセイフェーティンは兵も密書も出そうとはしなかった。震えを誤魔化す強い足取りで小堂を出た後は待機していた護衛騎士に声もかけずに木立の道を歩むだけ。アークレイ家に疑心を持つ娘が迷い込んできたのに何もしないなど彼はどういう腹なのだろう?
「おい、急にどうしたんだよ!?」
物言わぬままセイフェーティンは困惑気味のガルガートを伴って邸宅へと引き返した。本殿の先の簡素な庭、限られた者の出入りしか許されない大神官専用邸へと。
その間腹心のガルガートには一切の指令なし。押し黙り、足早に歩き続ける彼に騎士はついていくほかなかった。
追跡以外できなかったのはロージアも同じである。本殿付近を警護しているミデルガートと合流できればしたかったが、今は見咎められないように二人を追うので精いっぱい。とても己の騎士など探す余裕はなかった。
なぜセイフェーティンは迅速に手を打とうとしないのだろう?
本当に彼はこのままハルエラを捨て置くつもりなのだろうか?
揺れる氷色の長い髪を見つめていても考えなど読み取れない。木々を伝い、土中に潜り、二人の後方に張りついていたロージアは意を決めてガルガートの革製ブーツに取り憑いた。ここなら大神官に目撃されずに近づけるし、騎士が気配に勘付いて攻撃してくることもあるまい。
「本当にどうしちまったんだって、お前!」
滑り込んだ大神官邸。戸板を激しく軋ませて玄関ドアが閉ざされる。主人の細い肩を掴んでガルガートは問いかけた。
固く結ばれたセイフェーティンの唇はすぐには言葉を吐こうとしない。だがやがて、低く掠れた小さな声が白い喉から絞り出された。
「我々は過ちを犯した」
悔いた様子で美貌の男が眉を寄せる。ガルガートが「は?」と首を傾げると大神官は独白めいた台詞を続けた。
「手を組む相手はもっと慎重に考えるべきだったのだ。まさか公爵がここまで裏のある人間だったとは……」
「いや、わかるように説明しろって」
騎士に乞われてセイフェーティンはぽつりぽつりと語り始める。先程起きた出来事を。
公女追放のきっかけとなった恋文は捏造されたものかもしれない。己が代筆したと主張する女が匿名で相談に来た──そう告げた彼にガルガートが絶句する。状況を理解したらしい騎士は愕然と問い返した。
「……はあ!? それじゃあのおっさん、自分の娘貶めて命まで奪ったってことか!?」
がらんとした邸内に動じた声が反響する。少し抑えろと叱るように大神官は「シッ」と長い人差し指を立てた。
「王太子の婚約者を挿げ替えるためだろう。今より王家を操りやすくするとは確かに話していたが、まさかこういう意味とはな」
囁きの後、二人は重苦しく沈黙した。静けさが衝撃の深さを物語る。
やり取りから察するに彼らはロージア追放と殺害の件には関わっていないらしい。それどころか詳しいことは知りもしなかった様子である。父との間に共有する秘密は大きそうなのに。
「……お前どうするつもりなんだ?」
「どうするも何も、なんらかの形で償わねばなるまい。既に二人も無辜の者が屠られたのだ。しかも一人は君の弟の主君ときた。……我ながら情けないよ。もっと穏便に済む話だと思っていたのに」
「公女殺しはあのおっさんが勝手にやったことだろ? 最初からどんな手を使うつもりか知ってればこっちも応じやしなかったんだ。お前が気に病むこたねえよ」
「原因を作ったのは我々だし、表立って口にできない取引に頷いたのも我々だ。いくら民間兵たちを騎士にしてやるためだったとは言っても──」
言いきらぬうちにセイフェーティンが嘆息とともに口を閉ざす。重く項垂れ、彼はしばし塞ぎ込んだ。
(……なるほどね。神殿の事情はなんとなくわかってきたわ)
民間兵たちを騎士にしてやるためだった。大神官のその言葉がすべてだろう。
政治基盤を持っていない平民出身のセイフェーティンが願いを叶えようとすれば他人の力を借りるしかない。最高位の神官で、最高裁判長を務められる人間でも、貴族会議が頷かなければできることはほとんどないのだ。民間兵の騎士格上げに反発する都市貴族は多いから、劣悪な環境に置かれてきた兵士の待遇改善には高位貴族の後ろ盾が必要不可欠だっただろう。
(だから猊下はお父様の手を取った。二人は北部開拓の件で知り合ったというわけではなく、もっと前から協力関係にあったのね)
ロージアは思い出す。半年前、突然父に神国北部の資料を求められたこと。あのときは不作を案じてついに父も開拓に乗り出したのだと思っていた。だが実際には大神官との取引のためだったとしたら?
魔獣の出没する森を豊かな畑に変えるためには戦闘に慣れた民間兵を移住させる以外ない。貴族会議は「平民は平民のまま連れて行け」と冷たかった。父もそういう騎士叙任反対派の筆頭だったはずである。
危険な仕事に従事させる以上相応の報酬が必要だ。名誉と財産、これだけは譲れないと王に説いたのはエレクシアラだ。優柔不断な現国王は有力貴族らの言いなりだから、彼女が訴えていなければ民間兵は奴隷同然に連行されていたかもしれない。
議論は結局膠着状態に陥った。だが意外な方向で進展する。一転して賛成の立場を表明した父がロージアの資料を用い、反対派を黙らせたのだ。あの裏にもし別の思惑が存在したのだとしたら──。
「これからどうしていくべきかは考え直さねばなるまい。相談に来た女の話はおくびにも出すなよ。もう死人を増やすのはごめんだ」
思考は暗く張りつめた声に遮断された。大神官の指示を受け、ガルガートが「ああ、わかった」と返答する。
ともあれ二人がハルエラの安全を脅かすおそれはなさそうだ。ブーツの中でロージアはほっと胸を撫で下ろした。
(……それにしてもお父様の狙いは一体なんなのかしら?)
セイフェーティンの胸中を知ったことでいっそう深まった謎に戸惑う。
大神官の要求が「民間兵を騎士にする」だけだったならわざわざロージアを追い出さなくとも早晩達成できていたのだ。むしろ己は良い協力者だったはずである。
(今より王家を操りやすくする──ね)
もう少し調べてみなければなるまい。まずはそう、オストートゲが大神官に求めただろう見返りから。そうすれば父が偽物と承知で恋文を利用したことも、リリーエを王太子の婚約者に据え直そうとしていることも、公爵家の跡取りの座を空席にしたことも、すべての理由を明らかにできるかもしれない。
(この二人、こちらに引き込めないかしら?)
ロージアは悔恨に満ちた青年たちの顔を見上げる。父の所業に嫌悪を抱ける人間なら話し合う余地はありそうだ。ミデルガートが取り持ってくれれば──否、エレクシアラに頼めばきっと彼らと協同できる。
決めてしまえば行動は早かった。疲れた様子で執務室での書類仕事を始めた二人から離れ、ロージアは床下に潜り込む。
大神官邸を後にして境内を抜けるとすぐにハルエラの無事の帰宅を確認し、王宮へと飛び立った。聖女の力の器として説得力ある登場プランを練りながら。




