ハルエラ・スプリンの日常
信頼できる味方が増えるのはいいことだ。移籍した神殿騎士団で「配属未定正騎士」という実に身軽なポジションを得たミデルガートはロージアの命ずるままに諜報活動を開始した。兄の紹介で大神官にも会ったらしい。所属部隊が本決まりになる春までは本殿警備に就くそうで、不穏な動きがあればいち早く察知してくれそうだった。
彼に神殿を見張っておいてもらうことでロージアも自由になった。四六時中偵察や監視のために動く必要がなくなったからだ。大神官と父の繋がりを知るには面会予定が入った際に聞き耳を立てる算段をつければいい。次の瞬間こそ何か起こるかと身構えながらオストートゲに張りついていなくても、神殿へと足を向けた父を押さえてしまえば済むのだ。
こうしてロージアはアークレイ家を後にした。実家で調べられそうなことはすべて調べ終わっている。父の傍らに留まってもこれ以上得られるものはないだろう。獣に首輪を嵌めないまま屋敷を離れていいものか、それだけは大いに悩んだが。
(ナナたちには御守り代わりに神聖力を授けてきたから平気よね? 効果は一回限りだから様子は見に行かなくちゃだけど……)
ロージアは生家の使用人たちを思い浮かべて嘆息する。かけたのは外敵から身を守る保護の呪いだった。もし父に良からぬことをされたとしても逃げる隙を持てるようにと。
(とりあえず淫行が日常というわけではなさそうだったものね)
かぶりを振って思考を現実に切り替える。明るい民家の明るい景色に。
眼前には揺れる若草色のリボン。大地の色の髪を広げ、空色のシャツの娘が忙しく書き物をしている。ふうふうとインクを呼気で乾かすとロージアよりも二つ年下の彼女は溌溂とした顔を上げた。
「お待たせしました。これでばっちり完了です!」
「おお! 早いね、ありがとう!」
ハルエラは書き上がったばかりの文書を初老の男にまとめて手渡す。男には大切な書類らしい。作成人の細かな説明を受ける彼は大いに安堵した様子だ。そんな男を優しく見つめ、ハルエラは小さな書き物机から立ち上がった。
「確認は済みましたか? 足りないものはありませんね?」
この数日、王宮でもなく屋敷でもなくロージアは初めてゆっくり隣人の家で過ごしていた。思いつめた顔をして神殿を見上げる彼女がどうしても気がかりだったから。アキオンはまた染物工房で泊まり込みの仕事のようだし、一人にしておけなかったのだ。
「それじゃあこの書類を持って会堂を訪ねてください。急いだほうがいいですので、必ず今週中に行ってくださいね」
「ああ、ああ、もちろんだとも。なんなら今すぐ向かうつもりだ」
「本当ですか? だったらひと安心です!」
朗らかに客の相手をするハルエラを彼女の肩にくっついて見やる。依頼者はこれで何人目だろうか。看板も出していないのによくぞここまで繁盛するなとロージアは感心しきりだった。
長く隣家に留まってわかったことがいくつかある。それはハルエラが今までどんな人生を歩んできたかということだ。
彼女のもとには頻繁に人が訪れる。老若男女問わず様々に。初めはご近所と付き合いが深いのかと思っていた。しかしどうやらハルエラに会いにくるのは家庭の愚痴を聞かせたがる隣向かいの主婦ばかりではないようだ。
「ところで君にはいくら払えばいいのだね? 無論ただではないのだろう?」
「私の取り分は弁護会への報酬に含まれるので、ここでのお代は結構ですよ。会堂までどうぞお気をつけて!」
「おお、そうかい。それなら良かった。もしまた君の世話になることがあればよろしく頼むよ!」
客人はにこやかに手を振ると足取り軽く玄関を出ていく。ハルエラも笑って彼に手を振り返し、扉が閉まるまで見送った。ぱたんと響くひと区切りの音。すると今度はてきぱきと筆記用具の片付けが始まる。
何がしか労働はしているだろうと踏んでいたが、彼女の仕事が仲介屋なのは意外だった。舞い込んだ相談に対し、ハルエラは予算や要望を尋ねつつ弁護士または公証人を紹介する。読み書きできても小難しい法律関係の書類を作れる庶民はそう多くなく、文書作成代行をしてやることも珍しくない。
父親が公証人とは聞いたけれど、彼女自身がこれほど実務能力に長けているとは考えもしなかった。成人前から家業の手伝いをしていたのは間違いない。それもおそらく将来有望な助手として。
ハルエラには十八歳とは思えない専門的知識があり、高い教育を受けてきたことが窺えた。残念ながら彼女の師である父親は娘の成人を待たずに他界したようだが、存命していればハルエラは今頃自分の事務所を構えていたのではと思うほどだ。
(看板がないのは組合に加入できなかったってことよね。それでも毎日客足が途絶えないのだもの。実力もだし、強い伝手があるのだわ)
ここ数日聞きかじった話を総合するに、彼女は信頼していた父の一番弟子に裏切られ、後を継ぐはずだった事務所を乗っ取られたらしい。親しかった別の弟子が仕事の世話をしてくれて生計を立てられるまでになったようだ。
ある日突然生まれ育った場所から追い出された。己と同じ境遇にロージアは胸を痛めずにいられなかった。
再起を経験したハルエラにはロージアに提案できる具体的な身の立て方が思い浮かんでいたのだろう。だからあれほど死を悲しんでくれたのだ。
「……ふう! もうすぐ夕方だし、今日はこれ以上来ないかな?」
窓辺に人影がないことを確かめてハルエラが息をつく。スカートのポケットから例の切り抜きを取り出すと彼女はにわかに表情を曇らせた。
偽公女のゴシップ記事。一人になるとハルエラは必ずそれを読み返す。角がよれて汚くなっても彼女は決して新聞を捨てようとしなかった。
未だロージアを忘れずにいてくれる情の深さをありがたく思う反面、やはり気の毒にも感じる。知り合ったばかりの隣人が自責するようなことではないのに。だがハルエラは、日に日に沈黙の暗さを深めるのみだった。
「……私もちゃんと人に相談するべきだよね」
ぽつりと小さな独白が零れる。深刻そうなその響きにロージアはやはり心配になる。
一体何を思いわずらっているのだろう? 聖女の力で頭の中まで覗けたらいいのに。
「よし! 勇気を出すぞ!」
ポケットに記事を戻すと彼女は拳を握りしめた。
ぱたぱたと戸締まりをしてどこへ行くのかと思えばハルエラの足は神殿の立つ丘へと向かう。どうやら先日諦めた参拝に赴くらしい。
ロージアは長い散歩に付き合おうと彼女のシャツのボタンにするりと入り込んだ。
ハルエラが何をしようとしているか、もし先に知っていたらきっと止めたに違いない。それは多分、彼女にとって本当に危険な綱渡りだったから。




