現れた騎士
遠ざかっていく二人の声にロージアはほっと胸を撫で下ろす。とうに死んだ己が言うのもなんだけれど、生きた心地がしなかった。
どこまでも続く真っ暗闇でとにかく少しも動かぬことを心がける。まだ顔を覗かせるわけにいかないし、潜りすぎて地中で迷子にもなりたくない。
(わたくし本当に幽霊なのね……)
しみじみと実感する。切っ先がしつこく我が身を貫いたのを思い出して。
人体や調度品をすり抜けることは何度かあった。だからおそらく壁や床でもすり抜けられるのだろうと予測はしていた。
今までそれを避けてきたのは単純に怖かったからだ。入った後に出られなくなったらどうしよう、変に一体化してしまったらどうしようと。
だが今後は恐れずいろいろ試してみるべきかもしれない。逼迫した状況でも落ち着いて行動できるように。
(……行ったかしら?)
足音も気配も消えて、響くのは日の出を告げる鳥の鳴き声だけになる。身を起こし、ロージアは鼻から上の頭だけ突き出した。
またセイフェーティンに見つかってはかなわない。霊体のほとんどを土中に埋めたままいそいそと庭を去る。本殿から拝殿へ、拝殿から百段階段へ抜ける間、緊張が緩むことはなかった。
(とりあえず神聖力の高い人にはわたくしが見えるみたいね。聖女の力を身に受けるのは直系の王族と大神官だけだから、普通の神官や神殿騎士は大丈夫と思うけれど)
もぐらのように移動しながらロージアは乱れた思考を整理する。
本殿の衛兵は堂々と目の前を横切るロージアの気配を感じてもいなかった。神殿内のあちらこちらで忙しなく働き始めた神官たちも右に同じだ。
(気配だけでもわたくしを感知できたのはあの騎士一人ね)
ガルガート、と呼ばれていた。記憶が確かならそれはミデルガート・セレの兄ではなかったろうか。爵位を貰って神殿騎士をやっているとは聞いていたが、まさか彼が大神官の護衛とは。
(貴族階級ではなさそうな砕けた喋り方だったし、ミデルと同じ髪色だったわ)
リリーエの剣にされてしまった己の騎士が脳裏をよぎる。兄弟なのは間違いあるまい。ガートというのは南西部の港町に多い名だ。
ミデルガートは実兄と大神官の親密ぶりを知っているのかと案じてしまう。ガルガートがロージアの隠れ場所を見抜いた理由も定かでないし、またしても頭痛の種が増えてしまった。
(もしかしたら猊下から神聖物でも賜ったのかもしれないわね)
ふむ、と閃きを熟考する。
王族や大神官に匹敵するほど神聖力を高められればその人間はロージアとやり取り可能になるかもしれない。では己が神聖物を生み出せば──たとえば誰かの所持品に聖なる祝福を与えれば──エレクシアラと同じように連絡を取り合うことも不可能ではないのでは?
(有り得るわ。試してみる価値もある)
と、土に潜んでいた全身が露わになる。境内を抜けて階段まで出たらしい。
ここまで来れば大神官と出くわす心配はないだろう。ひとまずガラス温室に戻ってエレクシアラを待つとしよう。
そう考えたときだった。ペテラの祝福を授けるにはおあつらえ向きの人物が下界から上がってきたのは。
(ミ、ミデル!)
青いコートと黒髪が絵画のごとく風にはためく。表向きは無表情に、しかし心底忌々しげに連れの令嬢の手を引くのは、長いことロージアの重用してきた騎士だった。
まさかこんな早い時間にこんなところで出会えるとは。起き上がれるようになったリリーエが御守りでも買いにきたか? それにしては異母妹の服装は参拝にそぐわぬ華美な一着に思えるが。
(なんでもいいわ。探す手間が省けたわね)
ミデルガートもリリーエもこちらに気づいた様子はない。一瞬の逡巡の後、ロージアはさっと彼らに近づいた。
どうすれば聖女の力の恩恵を与えられるかなど知らない。知らないが、何かやり方があるはずだ。
ロージアは試しにミデルガートの剣を掴んでみた。しかし以前と変わりなく右手はむなしく柄を通り抜けていく。
であればこれはどうだろう? 思い切ってロージアは刃に宿るイメージで無理やり剣に身をねじ込ませた。
特別な儀式も呪文も要らなかった。拍子抜けするくらいあっさりと、霊体は騎士の長剣にとり憑いた。
(あら、これいいわね。どこもはみ出していないのにちゃんと前が確認できるわ)
どうやら鍔のあたりに「目」があるらしい。ミデルガートが歩くたび視界が微妙に上下する。肉体があれば酔っていたなと死人らしい方向で安堵した。
(ミデル、ミデル、聞こえる?)
呼びかけてみてふと気づく。発そうとした声を発せていないことに。
少し焦ったがすぐに剣には口がないからだと悟る。それでは祝福を利用して交信するのは無理なのか。ロージアはなんだとがっかりした。
(ミデルになら今のわたくしを見せてもいいと思ったのに)
仕方ない。一旦出よう。ロージアは剣の中で身じろぎする。
そのとき不意に聞き慣れた声がして、ロージアはぴたりと静止した。
「リリーエ、もう着いていたのか? 余よりも早いとは驚いたな!」
振り向いたミデルガートの動きに合わせてロージアの視線も後方へと移る。
朝日を浴びてきらめく銀髪、形状だけは整った顔、中身の伴っていない頭。王太子エリクサール・ペテラス・ルオシムのご登場だ。
「まあ、エリクサール様!」
甘ったるい声で嬉しげにリリーエが応じる。百段階段を上るのにこれでもかと装飾のついた重いスカートを履いてきたのは彼との待ち合わせだったかららしい。
出るに出られなくなったわね、とロージアは嘆息した。しばらくは大人しく剣に収まっておいたほうが良さそうだ。この状態ならエリクサールの双眸にも映っていないようであるし、大神官にも見つかりはしないだろう。
「そうそう、そなたに良さそうな御守りを昨日のうちに手に入れておいたのだ。遠慮なく受け取るがいい」
王太子はニコニコと懐から魔除けのブレスレットを取り出す。負けず劣らずニコニコと異母妹が彼の前に両手を捧げた。
「まあ! もしや昨日のお見舞いの後、わたくしのためにわざわざ? 本当に嬉しいですわ! 今までにどなたからいただいた贈り物よりも一番に大切にいたします!」
リリーエが掌を重ねて喜ぶ姿を見てげんなりする。神国ペテラスの未来さえ考慮しなければよくよくお似合いの二人だ。笑顔で支配を企む女と危機に気がつかない男。能天気で羨ましいくらいである。
「神殿のものは王家のものと言っても過言でないからな! ほかにも欲しいものがあれば余に愛らしくねだるといいぞ!」
「きゃーっ! エリクサール様ステキーっ!」
くだらぬ茶番を見せつけられて鼻先で笑ってしまう。同じ侮蔑を抱いたのかミデルガートもハッと乾いた笑みを漏らした。
「……おい、おぬし。今こちらを向いて笑わなかったか?」
と、エリクサールがぴくりと耳を跳ねさせる。不愉快げに眉をしかめて彼は騎士をねめつけた。
「何がおかしい? 申してみよ」
「いえ別に? 微笑ましいなと思って見つめていただけです。ご気分を害したのなら申し訳ございません。この通りお詫びいたします」
毛ほども心のこもらぬ謝罪にエリクサールの頬が引きつる。ミデルガートは堂々としたもので、汗一つ掻いていないのが窺えた。
「くっ……なぜこんな男を側に置いておるのだ、リリーエ。こやつロージアの護衛騎士だった男であろう?」
ぎりぎりこちらに聞こえる声で王太子が婚約者候補に耳打ちする。異母妹はうふふと笑ってエリクサールの疑問に答えた。
「主人を喪った彼が不憫でしたので。それにわたくしも未来の王太子妃として見映えする者を連れ歩かねばなりませんし」
リリーエがミデルガートの容姿を褒めるとエリクサールは余計に立腹したようだ。二十二歳の成人男性とは思えない幼稚さで彼は騎士に対抗した。
「余がこれほどに美しいのだから十分だ。そんな男は足しにもならぬ」
「まあ、エリクサール様ったら」
「それに護衛は実力で選ばねば。見目に頼って鍛えておらぬ者もおるしな」
「まあまあ、エリクサール様ったら」
暗殺者としても生計を立てられそうな腕を持つミデルガートになんという言い草だろう。傲慢とは恐ろしい欠陥だ。
ただエリクサールに他人の実力が測れないのは無理のないことでもあった。聖女の加護を身に受ける王族には熟練の技も鍛え上げられた肉体もたいして必要ないのだから。
「おっ、そうだ。せっかくだから余がおぬしの力量を見極めてやろう。今からちょうど神殿騎士の朝稽古が始まるし、一対一の勝負をせぬか?」
と、唐突に王太子が拳を打つ。ロージアは騎士が持ちかけられた話の酷さに思わず耳を疑った。
有り得ない。エリクサールと一対一の勝負なんて。
王族は破邪の使命を担う者として超人的な防御力と回復力を持つのである。ルオシム王家のお世継ぎが一人でぶらぶら気軽に歩き回れるのは、どんな毒も効かぬ身体で刺された程度では死なないからだ。同じ王族以外でなら王太子を殺せる力の持ち主は大神官しかいなかった。
守りの堅さほどではないが攻める力も同じことだ。並大抵の戦士より王族の一撃はずっと重い。ミデルガートでも打ち払えるとは思えなかった。
「余が一戦交えてみて、リリーエの護衛に相応しくないと判断したらおぬしは席を辞するのだ! リリーエには余がもっと強い男を探してやろう」
エリクサールは不敵に笑う。騎士の集まる練武場で痛めつけ、恥をかかせるつもりなのだなと目論見は見て取れた。
なんて浅はかな男だろう。これまでも程度の低さにうんざりはしてきたが、未だ新鮮に驚ける。弱き者を守る力をいたぶるために使うとは。
「どうだ? 怖いのならやめておくか?」
「いえ、仰せの通りにいたしましょう」
ミデルガートの返答にロージアはもどかしく歯噛みした。彼の立場ではそう答えざるを得まい。それに断っても断らなくても相手を喜ばせるのなら、戦うほうを選ぶ男だ。
「ほう、逃げぬとは感心だな」
「ご要望に応じる代わりに私が勝ったら一つ褒美をくださいますか?」
瞬間「は?」とエリクサールが目尻を吊り上げたのが見えた。なぜに貴様が勝利する前提で話しているのだという顔だ。
「是非とも王太子殿下にお願いしたいことがあるのです」
物言いこそ淡々としていたが、ロージアにはミデルガートが怒り猛っているのがありありと伝わった。
好き勝手に他者を評価し、面倒な義務は誰かに押しつけ、思うままに生きる彼を騎士は以前から嫌っていた。ロージアの一件もあり、今はより強い憤懣を抱えていることだろう。
条件の不利など関係ない。ミデルガートは本気で勝ちにいこうとしている。
「ちょっとミデル、勝手に返事をするなんて」
青年二人の間に入ったリリーエが騎士を叱るも一度燃え上がった火は既に消し止めようがなかった。
「……フフッ! 良いではないか。この男もやる気のようだし、この場は余に預けてくれ」
王太子は挑発的に騎士を見やり、残り少ない階段をずんずんと上っていく。
「どうした? 早くついて来い。本当に余を打ち倒すことができたなら小さな願いの一つや二つ叶えてやる」
先程よりも少し大きく視界が揺れた。エリクサールの背を追ってロージアの騎士も境内へと入っていく。
かくして早朝の一騎打ちは幕を開いたのであった。




