公女の家捜し
ペテラ神殿の歴史は古い。聖女ペテラがともに魔霊と戦った英雄ルオシムと結ばれて神国の統治を始めたとき、王都の守りとして建てたのがペテラ神殿の興りである。
神殿は常に国家の安寧の象徴だった。ペテラの遺した封印は魔なる者たちのすべてを阻みはしなかったが、人々を襲うのは結界の綻びから抜け出た小型の魔獣のみとなり、それも常設の神殿騎士団が打ち倒した。
神殿騎士では太刀打ちできない魔獣には王族や大神官が相対した。ペテラの祝福を受けた彼らが真の力を解き放てばどんな群れも最後には全滅した。
また神殿は重要な裁判が開かれる場でもある。特に王族、高位貴族の名誉を揺るがす訴えは必ず大神官が担当した。だから彼とオストートゲが裏で通じているとしたら本当に大変な問題なのだ。
(着いたわね)
三日月が王都を照らす暗い夜、ロージアは神殿に続く百段階段に舞い降りた。いきなり本殿に侵入しても良かったが、聖女の力の器としてはペテラに敬意を払うべきだと思われる。それで通常の参拝時と同じように、白影石の積まれた最初の階段から順路に沿って上がっていくことにしたのだ。
(足は浮いたままだから邪気落としにはなっていなさそうだけど……)
今宵のロージアは女性神官の装束である白いワンピース姿だった。首周りとスカートの裾には神殿所属であることを示す青緑の細いライン、肩には同色の透けた薄衣がついている。
例によって誰にも見られはしないのだが、ドレスコードを考えるのはもはや己に染みついた不可分の性らしい。それになんとなくここでは神官服のほうが霊体に力が満ちるような気がした。
(よし、それじゃあ行きましょう)
静かな参道の白い階段をふわりふわりと過ぎていく。己以外に参拝客の姿はない。天上で月と星とが瞬くのみだ。
見上げたペテラ神殿は相変わらず砦のごとき威容だった。敷地内に神殿騎士の練武場や宿舎があるからというだけでなく、建立当初は実際に要塞としての機能を果たしていたゆえだろう。当時は今より魔獣の数が多かったから。
断崖の頂の、白影石の防壁に囲まれた神の土地。ペテラの遺した古代魔法を現在も保存する。
長い階段を上りきれば閉ざされた正門が徐々に姿を現した。雨避けのための低い屋根を飛び越えてロージアは境内に入る。
ここまで来ると砦らしい雰囲気は薄れた。防壁が厚く仰々しいだけで、中に本当に城が立っているわけではないからだ。噴水もあれば憩いのためのベンチもあり、緑豊かな木立もある。広々とした練武場と貴族の子弟の宿舎を横目にロージアは拝殿へ向かった。
(本当に誰もいないわね)
視界は暗いが白影石の神殿は闇に浮かび上がるようだ。最も目を引くものは重たげな三角屋根、次いでそれを支える列柱。溝の刻まれた八本もの太い柱が等間隔に神殿正面を飾っている。側壁はやはり白影石でできており、天井高く取られた窓が清廉な星明かりを受けていた。
拝殿の奥がどうなっているのかはロージアにもわからない。一般の参拝客は神殿中央に据えられた祭壇の手前までしか立ち入れず、拝殿に連なる本殿には一度も入ったことがなかった。
(夜の内陣なんて初めて)
緊張しつつ内陣を進む。荘厳な屋根の下、八組の列柱が向かい合う長い身廊を。
ペテラを祀る祭壇は間もなく目の前に近づいた。どこからも聖女像──とは言えここの像はレプリカで、本物は本殿にあるのだが──がよく見えるように祭壇周りは数段床が高くなる。ロージアの目指す地は更にこの奥にあった。
(! 見張り……!)
祭壇横を過ぎてすぐ、闇に小さく篝火がちらつく。夜番と思しき二人の兵がひょこりと顔を出したのは神官と俗人の領域を分ける本殿の入口だった。
「ふあーあ、暗いと眠くなるよな」
「本当に寝るなよ。またどやされるぞ」
ちょうど交代したところなのだろうか。槍を立てて彼らは入口の守りにつく。ロージアに気づく様子もなかったので、申し訳ないが二人の間をするりと抜けさせてもらった。
いよいよ一般人立入禁止区域である。だが本殿内部は暗すぎてよく見えない。レプリカと対になる位置に半円形の泉があり、中央に銀の聖女像が立っているのはわかったが。
観察のために長居することはしなかった。元々そんな予定ではなかったし、ロージアの本命は神殿ではなく大神官なのだから。
(きっとそろそろ寝ているわよね?)
夜を選んでやって来たのはその懐を探るためだ。
北部開拓計画には神殿の協力が不可欠なため、生前ロージアは当代の大神官セイフェーティン・ペテラスについて調べていた。
聞いた話によれば彼は祭儀や式典でもない限り大神官邸の執務室で書類と睨めっこしているか、対話室にて迷える民の相談に耳を傾けているか──要は務めに明け暮れているらしい。
大神官の最も重要な役割はペテラ像から授かる力で魔霊の封印を維持することだ。だから彼は基本的に本殿を離れないし、王族でさえ彼に会うには自ら訪問者となる必要がある。
それくらい神殿に張りついている人物なので、こっそり部屋を漁りたければ彼の寝入った隙を狙わねばならなかった。風で浮かせた書類を読む程度造作もないが、人目につくと厄介だ。ロージアもなるべく騒ぎは起こしたくない。
(あった、あそこが出口だわ)
暗がりに月光差し込む拱門を見つけてロージアはふわり近づく。
本殿を出るとそこは至って平凡な、なんの変哲もない庭だった。
短く刈られた足元の芝、よく手入れされた植込み、アクセント的な背の高い常緑樹。木立以外は花壇もなく畑もなく、印象はシンプルのひと言に尽きる。庭は主人の趣味と性格をよくよく反映するものだけれど、少なくとも大神官は優美さにこだわるタイプではなさそうだ。
(まあ本人があのご尊顔ですものね……)
ロージアは祭儀で目にした大神官の完全としか言いようのない美貌を瞼に甦らせた。
人と言うよりも精霊じみた氷の色の眼と長髪。唇は動くのが不思議なくらい整って、新雪のごとき四肢が舞えば誰もが視線を奪われた。いくら庭を綺麗にしても彼の側では花も関心を買えはしまい。
エリクサールですら大神官より自分のほうが美しいとは言わなかった。肩をすくめて「美の種類が違うのだ、美の種類が」と苦しい言い訳をするだけで。
あの玲瓏な人の住居に忍び込むと思うと少々気が引ける。しかし事実は確認せねばならなかった。大神官と父がどういう関係なのか。
意を決し、ロージアは木々の奥に立つ大神官邸へと進む。白壁のこじんまりした簡素な平屋へ。
だが足は木立を抜ける直前で縫い止められた。前方に妙な人影が見えたからだ。
(えっ?)
ロージアは息を飲む。篝火が照らし出すのは玄関ポーチでただならぬ空気を醸し出す二人。一人は黒髪の大男。後ろ姿しかわからぬが灰緑の外套に肩甲をつけていて神殿騎士なのだと知れる。もう一人は手足と長い髪しか見えない。逞しい腕に抱き寄せられ、その人は唇を塞がれているらしかった。
(あ、逢引き!? こんなところで!?)
大神官専用の邸宅の前だぞとあまりのことにぽかんとする。ほかには人気もなかったが、神殿騎士が何をやっているのだと呆れ声が出かかった。
ここが担当の騎士だとすれば任務は当然大神官の護衛のはず。だと言うのに女を連れ込むなど言語道断、なんという不届き者だろう。
だが衝撃は一つきりでは済まなかった。騎士の首にかけられていた白い手がするりと解かれ、二人が口づけを終えると、身を離した女の細面が見えたのだ。篝火の側でいやに火照って映る顔は、一度目にすれば生涯忘れられそうにない大神官セイフェーティン・ペテラスのそれだった。
(…………!?!?)
何を見たのか処理が追いつかず瞠目する。役目を放って女を連れ込んだわけではなく、護衛騎士と大神官が恋仲だということだろうか? であれば二人の逢瀬は特に糾弾されるものではない。自分の家で自分の恋人とプライベートを楽しんでいるだけだ。
(ペ、ペテラは神官職の世襲を禁止しただけで恋愛は禁止していないものね。子供を持たない条件で妻帯していた大神官も過去にはいるし……)
ロージアは懸命に神殿法の条項を思い返す。
それにしても驚いた。一瞬自分がここへ何をしに来たか頭から消し飛んだ。ロージアの災難よりセイフェーティンの熱愛を記事にしたほうが民衆受けを望めるのではないだろうか? 偽公女の話題など一日で枯れそうだ。
(猊下は護衛騎士との関係を知られてお父様に脅されている……なんてことないわよね?)
脳裏をよぎった可能性にいやいやとかぶりを振る。弱みと思っているのなら戸外でいちゃつきはするまい。それに大神官は既婚者でも婚約者がいる身でもないし、主従の一線を越えていようが非倫理とは言えなかった。
(あ、行っちゃう)
いい雰囲気のまま何事か囁き合ってセイフェーティンと護衛騎士は邸内に引っ込んでいく。パタンと扉が閉ざされて、辺りは静寂に満たされた。
(……ええと、わたくしも行かなくてはね)
慎み深いレディとしては気乗りしないがロージアも目的のために動き出す。木陰を離れ、白い平屋の裏に回り、小さく話し声のする一室を窓からこそりと覗き込んだ。
(っ……!)
伸ばした頭を即座に屈める。案の定そこは寝室だったらしい。今見たものを早く忘れようとしてロージアはぶんぶん首を振った。
玄関先で随分盛り上がっていたものな。これはしばらく出てくるまい。そう断じ、次は執務室探しに移る。平常心、平常心と唱えつつ邸宅の窓という窓を覗いた。幸いセイフェーティンの仕事場はすぐに見つけることができた。
書類の積まれた大きな机に散らかった筆記用具。ここねとロージアは強めの風を起こして窓を開放する。隙間から中に侵入すると照明代わりに小さな光の球を浮かべた。
(さあ、お父様と神殿の関係を明らかにしなくては)
ロージアはざっと机上を確認する。初めに見たのは手紙入れだ。公爵家から届いたものがないかパラパラとチェックする。だがそれらしいものはなかった。
仕方がないので山脈を成している文書を端から順に崩しにかかる。大神官がどんなルールで書類の置き場を決めているのかも不明だし、目的を果たす最も確実な方法はすべてに目を通すことだと言えた。
(まあ一晩あれば終わるでしょう。あちらも長くかかりそうだし……)
ちらと隣室に目を向ける。かすかに漏れる意味深な物音には気づかなかったふりをしてロージアは浮かべた文書に集中した。できれば二度とこんなときに訪れたくないと願いつつ。
──さて、それから何時間過ぎただろう。机の上と抽斗と小さな書棚の全部を検め終わったとき、空は薄っすら白んでいた。
光球を消し、ロージアはふうと息を吐く。これだけ探して得られたのは結局成果とも呼べぬ成果だけだった。
訪問者リストには確かに父の名が見られる。この数ヶ月、足繁く通っていたのは確からしい。ひと月のうちに三度も四度もというのは父のスケジュールを考えるとかなり不自然なことだった。
一方寄進物リストのほうではアークレイ家の名前はさほど出てこない。父が賄賂を渡している可能性も考えていたが、少なくとも帳簿の上では不正は発見できなかった。
──不可解だ。いくら考えてもわからない。父がどんな意図をもって大神官と会っているのか。
接点がなんだったのかは予測がつく。北部開拓を推し進めるアークレイ家の当主として顔合わせする機会はどこかであっただろう。だが親交が続いているというのがどうにも解せなかった。
(大神官と仲良くしてお父様になんの得があるというの?)
無駄なことはしない人だ。叶えたい望みがあるのは間違いない。だがそれが何かまではロージアにも見当がつかなかった。
当代の大神官セイフェーティンは平民の出の男である。接近しても利のある後ろ盾などない。政治的な発言権も持たないし、神官として受け取れる寄付の総額も決められている。よって彼から掠め取れる財産もないのだ。
(美しさが気に入ったとか?)
まさかねと苦笑する。あの筋金入りの冷血漢が美などに心を動かされるとは思えない。そうかと言ってほかの理由も浮かばないが。
ともかく収穫はここまでのようだ。そろそろ神殿を出るとしよう。
諦めてロージアが窓に向かったときだった。背後で突然低い声が響いたのは。
「──何者だ? ここで一体何をしている?」
明らかなこちらへの問いかけにロージアは身を凍らせる。
気がつけば壁を隔てて響いていた物音は止んでいた。咄嗟に掴んだ紅髪で顔を隠して振り返ると、セイフェーティンの切れ長の目と目が合った。
「誰だお前は」
己の迂闊さを悔いたけれどももう遅い。彼だって聖女の力を宿す人間の一人なのだ。見咎められる心配をしておくべきであったのに。
「……ッ!」
寝室のドアは開いていた。騎士のほうまで出てくるとまずい。一方には視認できて一方には視認できない女など即幽霊だとばれてしまう。アークレイ家と戦う準備が整っていない今は「死んだはずのロージアがうろついている」などと知られては困るのだ。一も二もなくロージアは開いた窓から飛び出した。
「待て!」
神官服を翻して庭を駆ける。足を使うより飛んだほうがずっと速いが霊ではなくて不審者と誤認させたかった。
大神官の視界から逃れるために茂みに飛び込む。しかしここからどうやって彼を撒けばいいのかはわからなかった。庭を囲む壁は高いしセイフェーティンは既に騎士を呼んだようだ。頭を上げて動くのは危険である。
(ど、どうすれば……!)
草木の間で縮こまるロージアのもとに足音が接近する。大神官の「あっちに逃げた!」と大きく叫ぶ声がする。
これはいけない。本当になんとかせねば。
(お願い上手く行って……!)
祈りとともにロージアはあるアイデアを決行した。
前々から思いついてはいたが、染みついた常識からどうしても試してみる気になれなかった非常手段を。
──次にロージアが迎えたのは深淵のごとき暗闇だった。




