善には悪を予測できない
ロージアがアークレイ家に舞い降りたのは十五時の鐘が鳴り響く頃だった。
騒がしかった早朝とは打って変わって館は落ち着いた雰囲気だ。煙突の陰に隠れて見下ろした外庭では使用人たちが洗濯物の取り込みや落ち葉掃きなど各々の仕事をこなし、普段通りの一日を送っているかのように映る。実際にはこの平穏は表面的なものに過ぎず、長女の追放と次女の護衛騎士の死が彼らの心に大きな衝撃をもたらしたに違いないが。
「はーあ、やっと落ち着いてきたわね。デデルの顔を見なくて良くなったのは嬉しいけど」
「ロージア様がいらっしゃれば朝だってあんなにバタつかなかったでしょ」
「今頃どうなさっているのかしら。本当におつらいでしょうね……」
清掃用具を戻しにいくメイドたちのお喋りに聞き耳を立てる。
デデルの件より皆ロージアの今後を案じているようだ。殺されたという話はまだ広まっていないらしい。
初めのうちロージアはこっそりと生家の様子を窺っていた。エレクシアラやエリクサールに姿が見えたということは、当然ほかの者たちも浮遊する霊体を目撃すると考えたからだ。
しかし推測は的外れだったようである。本邸の角を曲がった先、ばったりと出くわした初老の庭師はロージアに気づかず行ってしまった。目が悪いのかと疑ったが、余念ない彼の仕事ぶりはよく知っている。本当に見えなかったのだとすぐ知れた。馴染みの守衛に声をかけても懇意なメイドの通り道を塞いでも結果は同じ。それで堂々と敷地内を移動することにしたのである。
(王族だけはわたくしを視認できるということかしら)
様々な可能性を考えてみたが、これが一番しっくり来る仮説だった。聖女の子孫のあの兄妹なら同種の力を感知できても不思議ではない。
己がペテラなら万一の危機に備えて力の器と王族が協同し得る手段を何か残しただろう。逆に王族以外には簡単に存在を悟られぬように仕向けたはずだ。不定期に起きるペテラの奇跡の内実を知られれば何に利用されてもおかしくないから。
(おそらく普通の人々の目に映る方法もあるのでしょうけど、仮にそれが判明しても行動は慎重に決めるべきね)
ロージアは改めて譲られた力の大きさを実感する。ヨミは好きにやってみろと言ってくれたが大義を失う真似だけはしたくなかった。力とは、制御されてこそ有益に働いてくれるものなのだから。
と、脇で待ち構えていた使用人出入口のドアが開く。奥から出てきた侍従の頭をひらりと越えてロージアはいよいよ邸宅内部へと忍び込んだ。
妙な気分だ。見知った顔がこちらを素通りしていくのは。
だが悲嘆はするまいと決めていた。今こうなった己でなければできないことがきっとある。ただ少し、残してきた者たちを思うと胸が痛むだけで。
「本当にいいの? 正式に配属が決まるまで部屋で休んでおけばどう?」
「でも一人だけぼんやりしているわけにもいきませんから」
「うーん、それじゃこのお茶を公爵様の書斎までお願いできる? くれぐれも無理はしないでよ?」
「わかりました」
不意に耳に入った会話にロージアは飛行を止めた。蔓草模様の絨毯を敷いた長い廊下、話し声のした角を覗けば専任メイドのナナがいた。
離れ離れになってから一日しか過ぎていないのに随分久々に会う気がする。ロージアという主人を失った彼女はまだ次の役職を言い渡されていないのか別のメイドの仕事を手伝っているようだ。
腫れた瞼に青い唇。ツインテールは艶に欠け、全身どこも生気が足りない。溌溂と仕事に励む彼女らしさが抜け落ちていた。抱えた紅茶の盆だけは長年の修練により微塵も揺らしていなかったが。
(ナナ……)
睡眠不足と精神摩耗が見て取れるのに双眸だけはいやに鋭く、どこか不安を掻き立てられる。ナナはこれから父のもとへと向かうようだが盾突きはしないだろうかと心配になった。
側で見ていてやったほうがいいかもしれない。ロージアが探しにきた恋文もおそらく書斎の机にある。このまま彼女についていくかとロージアは幼馴染の隣に浮いた。必要ならば自分が守ってやれるように。
「公爵様、お茶をお持ちいたしました」
間もなくナナは父の書斎に到着した。片手で盆を支えつつノックしたドアの向こうから「入れ」と短い指示が届く。
「失礼します」
ナナが部屋に入ってもオストートゲはちらとも顔を上げなかった。使用人をねぎらうことに一切興味がない人なのだ。用務机に積み上げられた書類の山は父の心にはだかる高い壁だった。
トポトポとナナがカップに茶を注ぐ間ロージアは机の上を点検した。書信は本棚に片付けはしないだろうし、例の恋文は手紙入れか抽斗に収められているはずである。
覗いたトレーには未返信の招待状しかないようだった。なら恋文は抽斗か。確認するには無人になるのを待たねばなるまい。念力で机を荒らす現場は極力見られぬほうがいいだろう。
だが仕事中のオストートゲが書斎を去る気配はなかった。それだけではなく茶を淹れ終えたナナのほうもなぜか退室しようとしない。ティーセットはまた後で下げに来ればいいものを、彼女はじっと机の傍らに控えている。
「なんだ? 用が済んだなら出て行け」
視線を上げて父が冷たくナナに命じた。しかし彼女は果敢に足を留め続ける。
「公爵様にお願いがございます」
その声に書類にサインするオストートゲの手が止まった。振り絞った勇気が萎まないうちに話し終えようとするようにナナは一気に捲くし立てる。
「亡き奥様のものだという恋文をお見せくださいませんか? ロージア様が公女ではなかったなど到底信じられません! 手紙を読ませていただければおかしな点が見つかるのではと思うのです」
激情を堪えた声でそう乞うと友情に篤い幼馴染は深々と頭を下げた。父はといえば「くだらない」と取り合うつもりもなさそうだったが。
「使用人ごときが何を偉そうに。当主の決定に逆らうな」
吐き捨てられてナナはきつく目を尖らせた。
「──乳姉妹です! 二十年もあの方にお仕えしてきたのです!」
聞いた覚えがないほどの声量で彼女は強く訴える。ただの使用人ではないと。従者である前に家族で友人なのだと。
それでようやくオストートゲは彼女が誰かを認識したようだった。ああ、とかすかに色の変わった重低音が部屋に響く。
「そうだったか。お前はロージアの専任メイドだった娘か」
椅子を軋ませて父はナナの前に立ち上がった。もしや彼女の要望を聞く気になってくれたのだろうか。だとしたら話が早く進みそうだ。ナナが偽造恋文に不審な点を発見すればオストートゲはリリーエとカニエに疑心を持つだろう。そうなれば悪党二人は今後動きづらくなる。
「では味見はこれが初めてだな」
一瞬にやりと父の口角が上がった。酷薄な目はいつもと変わりなかったが、ぎらついた眼光にロージアは得体の知れぬ嫌悪を覚える。オストートゲの手がナナの胸に伸びたのはその直後のことだった。
(──は?)
何が起きたのか把握しきれずロージアは硬直する。
大きな手。骨ばった男の右手がメイド服の上から乳房を掴んでいた。
思考停止に陥ったのは己だけではない。ナナもまた辱めを受けていることを自覚するまで数秒の時を要した。
誤って接触したのでは決してない。父の手は無遠慮に柔らかな肉を鷲掴みにしたままでいる。
「キャアアッ!」
悲鳴を上げてナナは後方に退いた。バランスを崩し、彼女はその場に尻餅をつく。逃げたいけれどどうしていいかわからない。そういう顔だ。双眸に涙を浮かべてナナはぶるぶるとオストートゲを仰ぎ見た。
「ふん。そそりもせんな」
侮辱的な言葉を吐いて父は眉間のしわを深める。
目の前で、一体何が起きたのかまだわからない。
あの父が──ナナに乱暴をしたのか? 雇用主が、使用人に、性的な暴力を?
「言っておくが、ロージアなら金目のものを狙った賊に殺された。再会の日は二度と来ない。さっさと忘れて真面目に働くことだな」
「な……っ」
オストートゲの冷たい台詞にナナの瞳が瞠られる。彼女を躾けようとしてか父は更なる追い打ちをかけた。
「お前は今日からリリーエ付きのメイドになれ。ロージアから色々聞いて城の内情に詳しいだろう? 二十年も無駄にした分これからは役に立ってもらう」
温情のかけらさえない人事異動にナナが絶句する。首を振ろうとした彼女の声を制して父は話を終わらせた。
「まだ行かないのか? 何をされてもいいらしい」
「……ッ!」
くすんだ蒼のツインテールを振り乱し、ナナが書斎から逃れる。閉ざされた扉が激しく音を立ててもロージアは身動き一つできなかった。
立ち尽くす。すべてが信じられなくて。
本当にこれが己の知るアークレイ家なのだろうか。




