王太子は馬を駆る
エリクサール・ペテラス・ルオシムは未曽有の混乱の中にいた。
月光のごとく燦然と輝く銀髪を振り乱し、額に滲んだ汗の玉を飛び散らせる。
心臓を押し潰すのは恐怖。未知と既知に対する恐怖。ともすれば縺れそうな足を無我夢中で駆けさせる。
一体あれはなんだったのだ。
己の紫眼は何を見たのだ。
走って、走って、限界を超えて走り続けた。飛び出してきたエレクシアラの温室が遥か後方に過ぎ去るまで。
(なぜロージアが城にいるのだ!? 有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ!)
使用人たちが出入りに使う裏門に辿り着いても震えは収まらぬままだった。息を切らし、壁に手をついて青ざめるエリクサールに気がついた門番が「で、殿下!? どうなさいましたか!?」と大慌てで寄ってくる。
私用でこっそり出かける際には何も言わずに見送るだけの兵だから、よほどこちらの様子が尋常でないのだろう。返答するためともかく呼吸を整えた。
「だ、大丈夫だ。訓練を兼ねて少々走ってきただけだ」
つい今起きた身の毛もよだつ出来事をエリクサールは語らなかった。話したところで通じまいと思ったのだ。公女追放について知るのはまだ一部貴族のみ、ましてロージアが化けて出たなど説明してもキョトンとされて終わりだろうと。
(ば、化けて出……)
自分の思考に自分でぞっとし、貴ぶべき己の身体を抱きしめる。
本当にあれはロージアだったのだろうか。死んだというのも誤報でないのか。
だって昨日の今日なのだぞ? 初日に賊に入られるなど運が無いにもほどがある。
(いや、まあ、公爵家が家名のために何かしたのかもしれないが……)
恨めしげにこちらを睨む夕暮れ色の彼女の目と、確かに薄っすら透けた姿を思い返してエリクサールは息を飲んだ。
いやいやいやとかぶりを振る。よもや己に怨念が向けられているなどそんなことはないはずだ。彼女を家から追い出したのは公爵だし、エリクサールは少々話を聞きかじっただけである。恨みを買ったはずがない。
(しかし面白がって見物には出向いたな……)
思い出すのはロージアとの最後のやり取り。紅髪を美しくないと誹った。
あのとき彼女は完全に呆れた顔でこちらを見ていた。けれど結局反発の声はなく、己はついに小言女を打ち負かしたぞと気分よく帰城したのだ。これから始まる真実の青春に思いを馳せて。
(考えようによってはまあ、余がロージアを選ばなかったせいでこうなったというわけだが……)
エリクサールは瞼を伏せてふっと笑う。
今日はリリーエに会いに行くつもりでいたが、やめておこう。やめて急ぎで大神官に会うとしよう。
神殿になら悪霊を祓う護符か聖物があるはずだった。聖女の血を引く己にも退魔の力は宿っているが、備えあれば憂いなしだ。怖いわけでは決してない。いずれ神国ペテラスを治める綺羅星の安全はより堅固に守られるべきなのだ。万が一にも呪いや祟りを受けようものなら国中の民が悲しんでしまう。
「本当になんともないのですか、殿下? 今日はご遊興よりもご静養なさったほうがいいのでは……」
「良い。なんともないと言っておろう」
心配そうに進言する衛兵に首を振り、エリクサールは門の外へと踏み出した。生きた人間の顔を見て少しは我を取り戻したが、今は王宮に留まるほうが心を休められる気がしない。
(御守りを受け取ったら大神官に祈祷もしてもらうぞ……!)
ばくばくと跳ねっぱなしの胸を宥め、出された馬に跨った。丘を下り、平素と変わらぬ街並みを眺めているとようやく精神が日常に戻ってくる。
(ひょっとするとあれは余の見間違いだったかもしれぬな)
死んだと聞いて動転してあんな幻覚を見たのかも。そう考えれば納得行く。
魂は命の河に還るのに幽霊などいるはずがない。子供にだってわかることだ。まあ念のために御守りは肌身離さず持つようにするけれど。
(気のせい、気のせい)
脇を湿らす汗は無視してエリクサールは自分自身に言い聞かせた。今までにない速度で神殿を目指しながら。




