エレクシアラ
不幸な子供というのはどこにもいるものだ。聖女ペテラの血脈を連綿と保つルオシム王家の宮ですらそれは例外ではなかった。
エレクシアラは気が弱く、人前に出ようとしない姫だった。王族は大抵銀に輝く髪を持って生まれてくるけれど、彼女の癖ある剛毛は灰色がかった枯葉の色で、黒ずんだ眼も貴石や花にはどうにも喩えがたかったからだ。
美貌きらめく兄のすぐ側でエレクシアラは常に数段低い者として扱われた。ロージアの目から見ても本当に酷かった。初めて出会った五年前は会話らしい会話も交わせなかったほど彼女は人に怯えていて。
エレクシアラはいつも物陰か壁際で肩を縮こまらせていた。彼女を冷笑して憚らない高慢な貴族たちから逃れるように。
『ありがとうございます、アークレイ公女。あなただけです。わたくしなどを気にかけてくださるのは……』
婚約者の妹である王女と打ち解けておきたくて、ロージアはありとあらゆる機会を使ってエレクシアラに近づいた。欠席できない公式行事の前には助力を惜しまなかったし、舞踏会や茶会では彼女が軽んじられないように味方した。そんな積み重ねがあって、生来聡明なエレクシアラは少しずつロージアに心を開いてくれたのだ。
『まあ! 素晴らしいです、エレクシアラ姫。この植物園は殿下がここまでになさったのですか?』
招かれたのは宮殿の奥庭にある王女の菜園。あなたにならば見せてもいいと照れくさそうにエレクシアラが温室、水耕、畑を案内してくれる。
『一年に二度三度と収穫できる作物の研究をしているのです。我が国は深刻な食糧問題を抱えてしまっておりますから』
王族というのは美と快を追求した花園を拵えるものと思っていたが、認識を改めなければならなさそうだ。エレクシアラの地味な園庭は価値を秘めた宝があちこちに溢れていた。
『こちらは寒冷地でも育つ芋で、こちらは干ばつにも耐えるように品種改良を進めている同種の根菜、それとこちらは……』
紹介は次第に熱を帯びてくる。王女は新種の作物を効率よく試作するために農夫らを雇っていた。王都の郊外に護衛騎士名義で所有する畑があり、農閑期には誰でも通える農学校を開いているそうである。
『なんと素晴らしい慈善事業、いえ、公共事業なのでしょう……!』
ロージアは感動を禁じ得なかった。あのエリクサールの妹がまさかこれほどまともとは思いも寄らなかったからだ。否、エレクシアラは真人間というだけではなかった。彼女はロージアの想定を大きく超える才女だった。
『我が国の慢性的食糧不足は解決が難しいのです。考えてみてください。年に一度、一組の夫婦につき一人の子供が生まれるとして十年経てば十人増です。しかし畑は新たに開墾されない限り収穫増は見込めません。嬰児は次から次に生まれてくるのに食物の生産はずっと追いつかないままです。一刻も早くこの状況をなんとかせねばなりません』
王女は語る。神国ペテラスの総人口と大まかな出生率、死亡率、現時点での耕地面積、主な作物、そしてその収穫量を。人口は掛け算的に増えていくのに農地は足し算でしか増えない。方策を固めて王家が農夫を指導せねばならないのだと。ロージアはもうすっかり彼女の話に引き込まれた。
『是非もっと詳しく伺いたいですわ。殿下のもとで学ばなければならぬことがわたくしたっぷりありそうです!』
熱弁するとエレクシアラは薄赤く頬を染めた。
『そんな風に言ってくださったのは公女が初めてです』
その日以来彼女はロージアの前だけでは明るく笑うようになった。公女ではなくお義姉様と呼び親しんでくれるように。
王女の最終目標は魔獣の頻出地帯である王国北部の開拓だった。聳える長城、防衛線の向こうに広がる暗黒の森。そこを畑に変えられれば食糧難は解決する。エレクシアラは確信していた。
『こうなったのもルオシム王家のせいですから』
事あるごとに彼女は言う。彼女の努力は当然の責務なのだと。
ペテラスの食糧危機には明確な発端があった。今は亡き先代女王、悪名高きセレティエラ──エレクシアラの父方の祖母──がきっかけとなった人物だ。
贅沢好きの女王は激しく散財した。派手で新しいもの好きで、彼女の治世にペテラスの服飾技術は百年進んだと言われている。
またセレティエラは極度の清潔好きであった。馬車の窓から見下ろした街に汚物が転がっているなど到底許せなかったし、民衆の肌が薄汚れていることも我慢ならないと諸都市に大衆浴場を建設した。
ここまではまあ良かったのだ。衛生状態が劇的に改善され、庶民の死亡率が下がったことは君主として称えられるべき功績だった。だがその結果起こったのは爆発的な人口増加、そして「凶作でもないのに食べ物が不足する」という史上例を見ぬ凄惨な異常事態だった。
死人が減れば当然のごとく食い扶持は増える。即位数年で国有の穀物倉庫は空になり、貴族会議が他国からの支援(内政干渉)を拒むと神国内の至るところで餓死者が大量に出始めた。打ちこわしなどの暴動が起きた地域はまだいいほうで、最悪なのは口減らしに森に子供や老人を棄てた地域だった。
魔獣は人の死肉を喰らって増殖する。聖女ペテラが魔霊を封じて約五百年、おそらくは最大数の魔獣がペテラス国土を襲った。
事態の収拾は困難を極めた。小村がいくつも滅び、そのたび敵は強くなった。一世紀ぶりに魔獣は都市部にまで現れ、混乱はついに王都を飲み込んだ。
セレティエラは古い長城を修繕し、からくも敵を北部森林地帯へと押し戻すことに成功したが、根本的な問題を解決できたわけではない。人口増加を抑制できない環境とどうしようもない食糧事情が神国に残された。
衛生的な理由での死者は大いに減じたが、代わりに現在の死因は飢えが圧倒的だ。貧者は風呂には入れても食事にはありつけない。ペテラスの食料供給は弱者の犠牲を前提に成り立っている。
ティーカップは既に満杯、溢れた水はちょろちょろと垂れ流しのままだった。水の重みでカップそのものもひび割れてしまっている。このままではいつまた生死のバランスが崩れ、第二の災いが起きるか知れない。
『お義姉様、お義姉様が王太子妃となった暁にはどうかあなたが先頭に立ち、北部開発をお進めください』
魔獣の巣窟を削り取り、人間の畑を増やす。それがペテラスの最重要課題であると王女は言う。近年では食糧難が日常化しすぎたために都市貴族の感覚が麻痺しているが、新風が吹けば変わるはずだと。
エレクシアラには彼女自ら指揮を執る気はなさそうだった。諦めきった声で王女は悲しく告げる。
『わたくしがどんなに言葉を尽くしても誰も耳を貸しませんから』
そう目を伏せた彼女の面立ち、髪、瞳、あらゆる身体的特徴は、ペテラスを滅ぼしかけた先代女王セレティエラの生き写しなのだった。
『わかりましたわ、エレクシアラ。ですがそれならわたくしたち二人でやればもっといいとは思いませんこと? 王太子殿下には式典で偉そうにだけしていただいて、実務はわたくしとあなたで力を合わせましょう』
ロージアは約束した。必ず王女の支えになると。
現国王は貴族からの批判を恐れて優柔不断が度を過ぎるし、エリクサールもまったくもって当てになる男ではなかったが、この義妹と手を取り合えるなら意義しかない結婚だった。
ペテラスの前途は明るい。ロージアにはエレクシアラが、エレクシアラにはロージアが、そう信じさせてくれる心強い味方だったのだ──。




