これまでの日常
「おい!何度言ったらわかるんだよ!ちゃんと話聞いてたのか?」
同僚のアッシュが俺を怒鳴るのはいつもの事だ。
彼はこの冒険者パーティのリーダーなので、俺は迂闊にも反論する気も起こらない。
いや、正確には反論して怒鳴り返したい気持ちはあるが、それをした後の結末が目に見えて予想出来てしまうのだ。
アッシュは俺のような下僕の抵抗に、苛烈にそして残酷にやり返してくるだろう。
俺は鎖に繋がれた猿のような存在として、この冒険者パーティに括り付けられている。
「聞いてるのか!おい!チッ!」
舌打ちが擦れ合う剣先の様に鋭く、そして明瞭に聞こえてくる。
俺の体を、顔を冷たい汗が伝う。体は熱く、より熱くなって動悸と共に呼吸が浅く早くなる。
俺の持っている仕事道具に彼の手が触れる。そして俺から強引に奪い取った。
俺は何も言えない。言いたい事は山程あるが何も言えない。
「これは仕事出来ない奴が持ってていいもんじゃねえんだよ!没収だ!」
俺から奪い取った装備を高く掲げると、パーティメンバーのミカを呼び寄せた。
「ミカ!いいもんやるよ!」
ミカは俺より年下の女性でとても美しい。そして俺よりずっと仕事が出来る。
彼女の冷たい眼差しが怖い。冷たい言葉が怖い。冷たい表情が怖い。
「これ前から欲しかったのよ。ありがとアッシュ。」
彼女の表情には嘘がない。
アッシュには天使のような微笑みを見せるし、俺に冷たい眼で一瞥する。
永久凍土と、どこか遠くの楽園の気候。それを併せ持つ。
俺は満足げな表情のアッシュとミカを眺めた。
二人の笑顔のために、俺は存在しているのか。それも悪くないかもしれない。
俺は家に帰って泣いた。自分に嘘をつき続けて生きるのは苦しい。もう耐えられない。
誰か助けてくれ。もう眠りたくないんだ。朝が来るのが怖い。
日の出と共に俺は逃げ出した。なんの当てもない現実逃避を始めてしまった。
しかし足は職場へ向かっていた。今は何時だ、もう始業時間は過ぎているぞ。
そもそも冒険者がどうして始業時間なんて物を大事に守る必要があるんだ。
それは雑用や事務があるから、ギルドに任せると手数料がかかる。
俺達のパーティは儲かってはいるが、儲かっている所から搾り取ろうとするのがギルドだ。
だからギルドに頼らず自分達で出来る事は自分でやる。それがこのパーティのモットーだ。
地代を考慮して農村の一角に2階建ての質素な建物をパーティのアジトとして建てた。
活動拠点と呼ぶには些か抵抗がある。だってこの活動が長続きする気がしないからだ。
少なくとも俺にとっては。
俺は仕事道具を没収されてから、アジトの脇にある水車小屋の管理と維持を任された。建物の力の源泉だと皆が言うが俺はそうは感じない。
水車は自然の水力と、貯蔵庫から流れ出る魔力を利用してただ回っているだけで、動力源としては何処の何も動かしてはいない。前の持ち主が撤去を面倒くさがって放置しているだけだろう。
水力と魔力の流れを利用して回る水車。どっちかが止まれば水車も止まる。その分水力だけに頼るよりもかなり強い力で回る。
だから俺が貯蔵庫に魔力を貯めておく必要があるのだ。無意味な仕事だけど、皆の士気に繋がるならそれはそれで大事な仕事だ。
アジトの脇にある水車小屋の水車が止まっている。俺はその光景をみて血の気が引いた。水車小屋の管理と維持が俺の仕事なのだから。
建物の前にアジトの皆が集い、ただ俺一人を待っている。それを見て心が苦しくなる。
アジトには良い人達もいる。俺達と同じような冒険者だけど、いじめられている俺の事を庇ってくれる人達。
直接のパーティメンバーじゃないけど、地元の冒険者の人達が俺達の活動の手伝いに、わざわざアジトに働きに来てくれている。
そんな人達も呆れたような渋い顔をしている。俺のせいだ。
皆が俺を見る。そうだ俺は結構な遅刻をしたのだ。仕方ないだろう。そう割り切っても足取りは重くなるばかり。
見かねたアッシュが俺の元に歩いてくる。とても怖い。動悸が始まる。体が震えて涙が出てくる。
これがノランさんだったら。ノランさんはアッシュにいじめられた時に俺を庇ってくれた。
仕事で失敗しても、次があると優しく励ましてくれる。どれだけ失敗しても怒らない優しい人だ。
やんわりと優しく指摘してくれる。彼女はまさに天使のような人だ。
身も心も美しくて、彼女の事を考えると辛い時でも一人で妄想の世界に浸ってしまう。
勿論、それでは乗り切れない時もあるが。
怒りを越えて冷めた表情。そんな顔のアッシュを見たのはそれが最初で最後だった。
「今何時だ。」
俺は黙ってしまった。
「今は十時だ。二時間も遅れるなんて、何処か痛いのか。具合でも悪いのか。」
俺は微笑みながら問いかけてくるアッシュに安堵してしまった。
しかし、それは途方も無い怒りから来るものだとすぐに気づいた。
それでも、期待せずにはいられなかった。
「はい。お腹が痛くて、息が苦しくて。」
「それはな!みんなそうなんだよ!甘えるんじゃねえよ!」
「お前なぁ!みんなの前で謝れ!こっち来い!」
皆が俺を睨む。ノランさんまでもが渋い顔をしている。
「「遅刻してしまってごめんなさい。皆さんを二時間も待たせてしまってごめんなさい。
もう二度と遅刻しません。許してください。」これを言うんだよ。さぁ、跪け。」
アッシュに言われた通りに皆の前に跪く。涙が地面に落ちる。
「遅刻してしまってごめんなさい。皆さんを二時間も待たせてしまってごめんなさい。
もう二度と遅刻しません。許してください。」
「誠意が足りねぇんだよ!腹から声出せよ!」
アッシュが怒鳴る。
「遅刻してしまってごめんなさい……。皆さんを二時間も待たせてしまってごめんなさい……。
もう二度と遅刻しません。許してください。」
「なんでさっきより声小せぇんだよ!泣いてんじゃねぇよ!泣きたいのこっちだよ!」
「じごくしてしまってごめんなす。びばばんをびびぼんも待たせてしまってごめんなさい……。
もう貧乏と密告しません。融通して臭い。」
「何言ってるかわかんねぇよ!ふざけてんじゃねえぞ!」
恐怖と涙で舌がうまく回らない。アッシュは何度も何度もやり直しを要求した。
ノランさんは結局助けてくれなかった。
その日の自分は仕事どころでは無かった。いつものようにアッシュとミカに怒鳴られたり嫌味を言われる事には慣れていた。
いや、慣れてはいないが耐えられた。首の皮一枚だが。心は脳が司っているのだから首が切れれば心も死ぬだろう。
その日首は切れた。仕事のクビではないが、心は死んだ。皆の前で激しく怒られて、泣きながら何度も跪いて謝罪したからではない。
その時点で心は瀕死になった。しかしその時はまだ蘇生の希望はまだ残されていた。
ノランさん。アンジーさん。バクーさん。この三人の内誰かに庇ってもらう事だけがその日を乗り切る唯一の希望であった。
ノランさんはいつも心の安息地を提供してくれる。アンジーさんは明るい人で俺を怒らない。バクーさんも明るい人で俺を怒らない。
だからきっと誰かが俺を助けてくれる。そう信じて終業まで乗り切った。本当に苦しかった。
バクーさんが帰っていく。
「あんた二時間残業しなさいよ。このまま帰ったらクビよ。」
帰り際にミカが発した冗談にアッシュが笑う。アンジーさんとノランさんは笑っていないのを見て一安心。
だけど庇って欲しかった。やっぱり不安になってきた。皆内心では俺の事を嫌っているんじゃないだろうか。
アンジーさんも帰っていく。残ったのはアッシュとノランさんと俺。
「お前のせいで皆に迷惑かかったんだぞ。ちゃんとわかってんのか?それがわかるまで帰るなよ。」
アッシュは帰り際、冗談交じりに俺を責めた。
ノランさんの顔を見る。笑っていない。黙って明日の仕事に必要な書類の整理をしている。
彼女が荷物を持って立ち上がる。俺の方を向かず、ただドアに向かって歩いていく。
そして振り向いた。
「今日はお疲れ様」
それだけだった。俺は励ましを期待するのが浅はかだと重々承知している。だけど、それしか希望がなかった。
帰路は何処までも長く、そして暗澹としていた。家に帰れば温かい食事を作りたくなる。そして暖かいベッドで眠りたくなる。
そしてそれは終わりのない日々の回廊に俺を押し込める。俺は果たして本当に自分の意志でこの生活を選んでいるのか、それを疑問に思った。
金も名誉も地位も、それがどの程度自分自身の幸福に寄与しているのか見当がつかなかった。
全て捨てても俺は幸せになれるんじゃないか、そんな破滅的な思考が俺の頭を過る。
「こんな時間にお出かけですか?」
「あぁ、ちょっと。」
俺はギルドの会員証を街の門番に見せた。
「あっ!失礼しました。暗くてお顔をよく拝見出来なかったもので。しかし、あまり遠くに行かないでくださいね。門が閉まって街に帰れなくなりますよ。」
「帰れなくても心配しないでいい。」
夜は自然と力が満ちたような気分になる。仕事から開放されて、自由になるせいだろうか。
今は俺は森に向かって歩いている。そこにはモンスターが出現するが、低級ばかりだ。
巨大な碧樹の枝に飛び乗り、魔法で植物のベッドを作るとその上に寝転がる。
「俺は天才魔法使いだって、子供の頃は皆がそう言ってくれたんだけどな……。」
一人ぼやきながら眠りに落ちようとすると、懐かしい羽音が聞こえてきた。
「ねぇ、ちょっといい?」
羽の生えた小さな怪物が恐る恐る俺に声をかけてきた。
「ルル?きみはルルなのかい?」
ルルは声を上げて微笑んだ。そして俺に口づけをしてきた。久しぶりの感触だ。
「僕の事覚えているんだね。また君に会えて嬉しいよ。ショーちゃん」
俺は子供の頃に、この森に住む仲間達が殺されないように、また人間に危害を加えないように膨大な魔力を用いてアジールの様な場所を作った。
いわば聖域である。低級モンスターの彼らを守るには、これしか無かったのだ。魔力の過剰消費による後遺症が今も残っているが、後悔は全くしていない。
巨大な碧樹の根本に昔の仲間達が集まってくる。星くずの様な灯りを纏う木々。恒星の様に色鮮やかな灯火。それは花の様に咲き、気づくと俺は泣いていた。
巨大な羽蟲の姿をした怪物が俺の元にやって来た。覚えているとも、彼はジョーだ。
「みんな君との再会を待ち望んでいたんだ。君の来ない間に随分と様変わりしたよ。ショー」
ジョーは鮮やかな羽飾りを纏っていた。それになんだかダンディになっている。
複眼も鋏のような口元も昔のままだ。しかし、振る舞いは紳士的で過去の喧嘩っぱやさがすっかり消え失せていた。
「ジョー、アンおばさんは元気かい?」
「元気だとも。みんな下で待ってるぜ。」
樹の根本に降りていくと、歓声が上がった。奥の方に車が見える。大きさこそ馬車と同じだが、引いているのはロバの様に大きな芋虫だ。
馬車ならぬ虫車を引く芋虫が混雑をかき分けてこちらへ向かってくる。アンおばさんだ。
「ショーちゃん大きくなったね。今夜泊まる場所はあるのかい?ないなら家へおいで、みんな待ってるよ。」
魔法でもないのに馬車の扉が勝手に開く。仕組みは分からないが人間のものより大分進んでいる。車内の灯りも馬車の天井それ自体が輝いて照明となっている。
座席も柔らかい。なんだか植物の繊維が束ねられているようで、鳥の巣の様な形をしている。生地も張られていないのだが弾性があり形は崩れない。謎は深まるばかりだ。
樹上からはよく見えなかったが、車窓からはすっかり過密化の進んだ聖域の様子が伺えた。俺は不安になった。この森を出てしまえば彼らに命に保証はない。
寄り添うように俺の隣に座るルルは、笑いながら答えた。頬にぐりぐりと頭を擦りつけてくる。
「ショーちゃんは心配性だなー。地下には広大な世界が広がっているんだよ。もっとも人間にとっての地下とは少し違う概念だけど。」
ルルがその小さくてかわいらしい手で車内誌を俺に手渡す。旅行案内誌のようだが、聞いたことの無い地名ばかりが並んでいる。
「どこか行きたい所ある?僕は冥王星に行った事があるぐらいだけど。」
「冥王星ってそりゃ空に浮かぶ星だろう。地下じゃないし、ましてやそこに行くなんていくら魔法でも……。」
ショーは驚いた。ルルが冗談でも言ってるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「冥王様もショーちゃんに会いたがってるし、顔見せたら喜ぶよ。明日予定あるかい?」
「明日は仕事が。だけど仕事で失敗しちゃってな。」
ショーちゃんはショーになった。もう今は誰も彼を子供扱いなんてしてくれない。大人としての責任を、そしてその重圧に耐える事を求められる。
「仕事が嫌で逃げ出してきたんだ。だけど、やっぱりみんなに迷惑かけちゃいけない。それで怒られたのに、仕事を無断欠勤なんてしたら大変だ。」
「今日の早朝にはここを出るよ。待つのは苦じゃないから城門が開くまでしばらくそこで待機して、門が開いたら心配かけた門番さんに謝って、走って家に帰って仕事道具を……。」
「いや、仕事道具も没収されたんだった。だから俺は水車小屋の管理をしていて、水車が動かないとみんなに迷惑がかかるんだ。それで泣いて謝って許してもらって……。」
「ショーちゃん……。」
ショーは泣いていた。みんなに対する責任を感じたからだ。アッシュもミカも怖いけど、真面目に仕事をしている。それはわかっていた。
「俺仕事行きたくないんだ……。だけどどうすればいいのか分からないんだ。みんなに迷惑もかけたくないし、今この仕事をやめたくても代わりがいないんだ。引き継ぎの相手を探さなきゃ。」
ルルは悩んだ。彼を助けたくて言葉を紡いだ。
「水車の管理なら、アンおばさんの所のクェーぼっちゃんがいいかもね。今家にいるから、大丈夫。大丈夫だよショーちゃん。」
「森の住人が街で就労するのは危険だ。」
「クェーが就労するのは、その街の"地下"だよ。それに、僕らはショーちゃんとしか地上の街に行かないし、その時は冥王様がついてくれるから大丈夫だよ。」
「俺の職場に地下なんてないぜ。」
「僕らの地下っていうのは、この世の地下という意味なんだ。それは地理的な意味ではなくもっと怪異に近い意味を持ってるんだ。」
「さっぱり分からないや。俺バカでごめんよルル。」
「ショーちゃんはバカじゃないよ。ショーちゃんが聖域を作ってくれたから、この広大な地下世界が出来たんだ。ショーちゃんは自分が全て知っている事にまだ気づいていないだけなんだよ。」
ショーはうんうんとしばらく考え込んだ後にくたびれて黙ってしまった。
アンおばさんの家の前に着いた。
「じゃあ、お邪魔させていただきます。」
ルルがショーちゃんを庇うように寄り添いながら、家へ入っていくとぷっくらとした体つきの黒いカモノハシがいた。
彼はよく分からない骨のネックレスをつけていて、頭の毛を金色に染めている。
「おぉー!ショーさん?!ほんとにショーさんだ!」
「ショーちゃんが仕事の引き継ぎを探していてね、クェーが適役なんじゃないかと思って。」
「マジ……ですか。いや!すみませんショーさん!ほんとにショーさんの仕事なんですか?それ?」
「そうだよ。仕事道具を没収されてしまってね。だけど大事な仕事だよ。」
クェーは困惑した。
「水車小屋の仕事は重労働ですけど、給料はずみますからね。というか仕事道具を没収って……。その職場おかしくないですか?」
「おかしいんだよ!」
ルルが叫んだ。
「そうよ!おかしいわ!」
アンおばさんも叫んだ。
「いや、どこにも水車が繋がっていないから体にちっとも負担はかからない。ただ、みんなが仕事してる中で俺だけ手持ち無沙汰で怒鳴られたり嫌味を言われたりで耐えられないんだ。」
ショーは泣いた。
「楽してるように見えるかもしれない。だけど、仕事ももらえないし他の仕事もさせてくれないんだ。」
クェーはある一つの結論を演繹して導き出した。
「ショーさん!家の脇にある水車を回してみてください。試しでいいんで!」
家の脇には小さな貯蔵庫と動かない水車があった。それはアジトの脇にある水車を大分小さくしたらこんな風になるだろうという物であった。
「貯蔵庫に魔力を流し込んでみてください。」
ショーが貯蔵庫に魔力を流し込むと、すごい勢いで水車は動き出す。回転に比例して水車自体が発光して、その輝きが増していく。
「これ、おもちゃみたいでかわいいですね。ただこれだけ明るいと近所迷惑になりそうなので、ここらでやめていいですか?」
ショーは魔力を流し込むのを止めると、先程と変わらない様子で言った。小さな貯蔵庫にあるだけの魔力は夜更けに尽きるだろう。
周りは絶句していた。
「参ったな……。」
水車の輝きは衰えを知らない様子で、軽く魔力を流し込んだつもりの彼を困らせた。
「明日!明日には冥王様に会いに行くよ!ショーちゃん仕事やめよう!地下世界で冥王様と働こう!」
ルルが興奮した様子で叫んだ。
「明日のいつ出るんだい?クェーの都合もあるだろうし、あまり急に決めなくてもいいんじゃないか。」
抱きついてくるルルを、ショーは困惑した様子で優しくのける。
「いや!俺の事はいいです!ショーさんの都合で考えてください。」
クェーが割って入った。
「引き継ぎの交渉もすんなり決着がつくとは限らない。どのみち俺は明日も出勤するよ。」
「それなら俺もついていきます!引き継ぎがいればいいんでしょ!ショーさん!」
ショーはクェーに押し切られる形で職場への同伴出勤を承諾した。
「それで決まりね!さぁご飯食べましょう。みんな部屋に戻って。」
アンおばさんは嬉しそうに皆の頭を腹で撫でた。
夕食に食べた森の幸を煮込んだ具だくさんのスープはとても美味で驚いた。
「肉は入っていないんだよね?」
「全部森の幸よ。木の実や植物しか入ってないの。」
ショーはこの森での生活をいつまでも続けたいと願った。来たばかりだが、なにしろ居心地が良い。冥王様というのもよくわからないが、多分悪い奴では無いだろう。
明日が最後の出勤だ。心でどれだけそう考えても、ベッドに入って毛布を被っても震えは収まらなかった。冥王様と仕事する事にも不安は無いが今ひとつ希望も持てないでいた。
朝になると、アンおばさんが朝食を用意してくれていた。
森の幸はいつ食べても美味しい。肉では無いのに肉よりも肉らしい美味しさがある。それでいてしつこくない。本当に不思議な味だ。
城門が開くと、門番はショーについてくるクェーとルルの姿を見て一瞬驚いた。しかし、それ以上に凄まじく悍ましいものを見た。
なんだかこうヌメりのある死というか、灯台の様に巨大でどんな光も吸い込む漆黒のヌルヌルとした異形。人の体を持ち、蠑螈の黒い皮膚を持ち、象の鼻を持ち、魚の眼をした怪物。
口は無く、長い鼻を垂らしギョロりとした眼が門番を見下ろす。巨大な怪物は己の背丈と同じぐらいに巨大な槍を持ち、漆黒の甲冑を身に纏う。
「ショーさん……あの……お連れの方はどなたですか?」
「あぁ、友達のクェーとルルです。今日は彼らの就労の世話をしにやってきました。昨日は心配かけてしまってすみません。」
「いえ……その後ろにいるお方です。」
「あぁ、冥王様ですか?確かに見た目はいかついですけど、僕ら人間だって蛙から見ればあんなもんですよ。悪い人ではないですから安心してください。」
彼らはアジト目指して街を進む。
冥王様の鼻がショーの頬にそっと触れる。彼を優しく叱る。
「あんなもんはないだろう。もう少し言い方ってものがあるじゃないか。」
「どんなもんがいいんだい?」
クェーが口を挟む。
「そうだな……ぞうおじさんとかがいいかな。」
冥王様は自分をぞうおじさんと呼ばれたい。それは数万年前からの願いであった。
「いいね。」
ショーが初めて皆の前で笑顔を見せた。
丘を登っていくと、職場の建物と水車小屋が見えてきた。ノランさんの姿が見えた。しかし彼女はこちらを一瞥するとすぐに目を逸らして建物に入ってしまった。
職場へ向かう足は軽やかであった。それは、自分がこれまでと違う存在になったという確信があったからである。
ショーとクェーが建物へ入る。
「本日付で退職します。そして隣にいる彼が引き継ぎを担当するクェーです。」
クェーは黙っていた。緊張で何も喋れなかったのだ。
「彼は地下で働きます。連絡は音声伝搬魔法を通じて行えます。その利用を行う為の魔力生成貯蔵装置をそこに生やしておきます。」
窓の外から屈むようにして中を見ていた冥王様がすかさず助け船を出した。
口も無いのに地獄の底から響く悲鳴の様な声が辺りに響き渡る。
建物の脇にある水車小屋とは反対方向に、獣の牙の様な形をした深紫色のグロテスクなものが大きな音を立てて生えてきた。
人の背丈の三倍程の高さがあり、根本は象の足の様に太く頂上に向かって段々と細くなっていく。
「もうわかった。わかった。今までありがとうさようなら。」
ミカが正気を保とうと必死になって言葉を絞り出した。
ショーはアッシュの方をちらと見たが、蒼白の表情で追い払うように手で払う仕草をしているのが見えただけであった。
アンジーさんもバクーさんもノランさんでさえもただ無言で目を逸らしている。それを見て彼は寂しく背を向けた。
職場からの帰り道、彼はぼやいた。
「せめてさよならだけでも言いたかったなぁ。」