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眠れる獅子を起こすのは

「カーライル、起きてください」


 狭いベンチに窮屈そうに横たわるのは、カーライル・マンフッド。先日私の護衛となったばかりの男である。

 急な外出が決まり護衛が必要となった私は、忙しい家令に代わり、この男を探して鍛錬室までやって来たのだ。


 頭の後ろで組んだ自分の腕を枕代わりに、カーライルは気持ちよさそうに……とは到底言えない顔をして眠っている。

 眉間に深く刻まれた皺に真一文字に引き結ばれた唇は、誰が見ても苦悶の表情だと思うに違いない。


「ねえ、起きてください」


 一歩、また一歩と慎重にベンチへ歩を進めた私は、手を伸ばせば触れる位置でまで来て立ち止まった。

 むやみに殿方に近づいてはいけないと、常々きつく言われているけれど……この場合は仕方ないわよね?


「カーライル……?」


 名前を呼び、肩を揺する。ただそれだけの行為なのに、なんだかとても親密に感じてしまうのはどうしてだろう。

 そっと触れた肩は分厚く、固く、明らかに女性のそれとは違う。

 火照る頬に気がつかないふりをして、私は小さく息を吐いた。


 いつもシャツをだらしなく着崩し、ブルーグレイの髪をぞんざいに束ねたこの男は、急遽隣国への留学が決まった私のために、お父様が探してきてくれた護衛だ。

 隣国の事情に詳しく、腕が立ち、身元のしっかりした人物。

 そう聞いていたのに、現れたのは言葉遣いも態度も、そして服装すらもずいぶん粗野で乱暴な男だった。

 だから初めて紹介された時、今までの礼儀正しい護衛との違いにとても驚いたのを覚えている。


「……なにをしても起きないのね。これでは護衛失格ではないのかしら」


 今度は強く肩を揺すって起こそうと伸ばした手を、寸前で止めた。

 大胆に開いたシャツからのぞく逞しい胸元に、胸がトクリと跳ねた気がした。



 ……◊……



「婚約を破棄させていただきたいのです」


 それは親しい人だけを招いた、私の卒業を祝う夕食の席でのことだった。

 お祝いに欲しいものはあるかと尋ねられた私は、迷うことなくそう答えていた。


 唐突な発言に息を呑んだのは、私の幼馴染みで許婚でもあるフリードリヒ様。ヨーエンブルグ伯爵家の三男であるこの人は、幼い頃に決められた私の正式な婚約者だ。

 そして彼の隣に座る妹のアンリエッタも、向かいに座る両親も、ヨーエンブルグ伯爵夫妻も、困惑したような面持ちで私を見つめている。


「実は、以前から隣国のシャザナにあるアカデミーより、留学のお誘いをいただいておりました」

「エメラルダ、お前そんなこと一言も……」


 咎める父の言葉を遮り、私は言葉を続ける。


「ずっと迷っていたのです。ですが、もしお許しいただけるなら、私は自分の可能性を試してみたいのです」


 私の両親であるシュタインベルク伯爵夫妻は、妹のアンリエッタが生まれた後、不運なことに家督を継ぐべき後継の男児に恵まれなかった。

 そのためヨーエンブルグ家の三男であるフリードリヒ様との婚約が整ったのは私が五歳、フリードリヒ様が八歳の時のことだった。


 私より三つ年かさのフリードリヒ様は、争いごとを好まないとても穏やかで優しい方だ。私達は喧嘩一つすることなく、幼少時代を過ごした。

 だからだろうか。

 互いに恋愛愛情はなくとも、親愛と敬愛さえあれば大丈夫なのだと思っていた。

 いずれ私達は温かな家庭を築くのだと、そう信じて疑わなかった。


 けれども、ある日私は気がついてしまったのだ。

 フリードリヒ様がアンリエッタの名を呼ぶ時の、まるで甘いものを口に含むような優しいお顔に。

 切ないほどにそっとフリードリヒ様の背中を見つめる、アンリエッタの眼差しに。


「──ですから、私の代わりに妹のアンリエッタをフリードリヒ様の婚約者に」


 静まり返った食堂に、私の声だけが浮いて聞こえた。



 ……◊……



「……ねえ、カーライル、本当に寝ているの?」


 何度声をかけても起きないのを確認して、私はカーライルの腕にそっと触れた。

 肩と同じに固く、引き締まった男性の腕。

 この腕に抱かれる女性は、一体どんな気持ちになるのだろう。


 あの夕食会以降、フリードリヒ様とアンリエッタが一緒にいる姿をよく見かけるようになった。

 居間で、図書室で、蔓薔薇に囲まれた庭の四阿で、離れていた時間を取り戻そうとするかのように、二人は仲睦まじく肩を寄せ合う。


 今思えば、公的な場所でエスコートしていただく時以外、フリードリヒ様が私の手を取ることはなかった。

 腕を組むのはいつも私から。

 口付けは頬か額に。

 贈り物のカードに書かれるのは決まって「敬愛する貴女へ」。


 あのように大切そうに抱かれれば、私もアンリエッタのように可愛らしく笑えたのかしら。

 あのように情熱的に口付けをされたら、あるいは私も……


「……いけないお嬢様だな」

「……っ」


 突然響いた低い声に、大袈裟なほどびくりと身体が竦む。慌てて放そうとした手を、カーライルの手が摑んだ。


「寝ている男に悪戯とは、感心しないな」

「ご、ごめんなさい。でも、貴方が寝ていたから起こそうとしただけなのです」

「ふーん?」

「あの、手を放してください」


 ニヤリと不遜な笑みを浮かべ起き上がったカーライルは、私の手を引き寄せて自分の胸を触らせた。


「触ってみたかったんだろう? ほら、好きに触っていいぞ」

「ち、違います! そんなはしたないことは考えておりません!」

「なんだ、じゃあ俺に触って欲しかったのか?」

「ちが……!」


 揶揄うような口調とは裏腹に、そっと、まるで壊れ物でも触るかのように、大きな掌が背中を覆う。

 布越しに感じる熱に、今度はドクリと大きく心臓が跳ねたのがわかった。


「あ……の、放して、ください」

「なあ、どうして悪者を演じる?」

「え?」

「自分の我が儘を通すふりをして、婚約者と妹をくっつけるのはどうしてだ? 二人の仲を取り持って恩でも売ったつもりか? そうまでして逃げるほど、この伯爵領を継ぐのが嫌だったのか?」


 思わぬ問いかけに顔を上げれば、至近距離から覗き込む灰色の瞳と視線がぶつかる。咄嗟に逸らした顔を、カーライルは手の甲でするりと撫でた。


「それともあれか。淡泊でお優しい婚約者じゃあ物足りなかったのか」

「そんな……違います! フリードリヒ様は貴方と違い紳士なのです。ですから結婚するまではと、私に気を遣ってくださっていたに違いありません」

「へえ。気を遣ってねえ。あんたの妹とはあんなによろしくやってるのにか?」

「それは……私はアンリエッタのように可愛くありませんから」


 思わずぽろりと溢れてしまった呟きに、私は慌てて頭を振った。


「ごめんなさい。なんでもありません。どうか忘れてください」

「……ったく、馬鹿な男だ」

「え? あっ」


 突然ガラリと変わった険を含んだ声に驚く間もなく、強い力で腰が引き寄せられる。

 気がつけば、私はカーライルの腕の中に閉じ込められていた。


「なあ、教えてくれ。今までこうやって抱かれたことはあるか?」

「あっ……」


 耳朶を打つ低い声に、背中がぞくりと粟立つ。

 腕から逃れようと懸命に身体を捩るのに、それを宥めるように指が背骨を辿る。

 なにかを確かめるような指の動きに、堪えきれずに小さな声が漏れてしまう。


「こんな風に触れられたことは?」

「……っ」


 首筋を擽る不埒な指に、私は必死で頭を振る。


「じゃあ、これは……?」


 突然ふっと視界が暗くなり、カーライルの顔が近づいたかと思うと、唇が重なる。

 少しだけ冷たくてかさついた、男性の、カーライルの唇の感触。

 これが口付けだと理解した瞬間に、ドクドクと激しい心臓の音が全身を支配した。

 

「おい、まさかとは思うが……唇へのキスも初めてなのか?」


 突然唇を離したカーライルが、私の顔を見て驚いたように眉根を寄せた。

 躊躇うように親指の腹で眦を拭われたことで、私は初めて自分が泣いていたことに気がついた。


「すまない。その……悪かった」


 戸惑いを含んだ声に、黙って首を振る。

 嫌だった? 怖かった? それとも悲しくて泣いているの?

 違う。まるで泉が湧くように溢れ出るこの感情は、悲しみではなくきっと……。


「……いいえ、謝る必要はありません。これは嬉しくて」

「嬉しい?」

「はい。初めて女性として扱ってもらえたのが、嬉しくて」


 許婚だと、将来の伴侶となるのだと教えられたあの日、私はフリードリヒ様に恋をしたのだと思っていた。

 友人達が言うときめきや胸を焦がすような感情ではなくても、それが恋なのだと信じたかった。

 けれどその一方で、自分は情の薄い冷たい人間ではないかと。フリードリヒ様を見ても何も感じない私は、女性としての魅力に欠けるのではと、いつも不安だった。


 だから、こんな胸が震えるような感情が自分の中にあったことが、素直に嬉しい。


「カーライル、ありがとう」


 涙を拭って顔を上げた私を、もの問いたげな灰色の瞳がじっと見つめていた。





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