反転
「裏の裏は表って言いますけどね。あれ、本当は違うと思うんです」
Wさんは、会社帰りに体験したという話を、そんな出だしで語ってくれた。
夜遅くなって、彼はタクシーを拾った。しかし乗り込んですぐに、違和感を覚えた。左側から乗車してそのまま腰を落ち着けたはずだったのに、気付けば後部座席の右側に座っている。
それだけではない。運転手は助手席にいるではないか。いや――ちゃんとハンドルを握っている。外車なのか?
Wさんは外を見て、もっと驚いた。タクシーは車道の右側を走っている。タクシーだけではなく、他の車も。そして道路標識は左右が逆になっていた。
ここは反転した世界なのだ。反射的に腕時計を見ると、いつも付けているのとは逆の方、つまり利き手にある。文字盤は反転しており、短針は逆行している。言うなれば鏡の中の世界にWさんはいた。
きっと、悪い夢に違いない。早く覚めてくれと、Wさんは財布の中のお守りを探した。祖母がくれた大事なものだ。もはや利き手も逆になっていた。ちらりと見えたお札の肖像画も、しっかり左右逆向きになっていた。
あった。お守りを取り出すと、それだけは正しい向きのままだった。目を閉じて強く握りしめていると、
「お客さん、困りますよ」
運転手の声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。座席は元の位置、左側に戻っている。Wさんは慌ててお札を差し出した。今度は反転していなかった。
「僕が怖かったのはですね、夢の中で、鏡を見た時です」
Wさんが言うには、バックミラーにもサイドミラーにも、何も映っていなかったという。真っ暗な、闇があるだけだった。
「裏の裏は表じゃない。何もないんですよ。無です。裏側に一旦足を踏み入れたら、もう戻っては来れないんです」
それが恐ろしかったと、Wさんは汗をかきながら語った。
「ああ、ほんとうに、帰ってこられて濶ッ縺九▲縺」
言葉の最後は反転していて、よく聞き取れなかった。