その四 ($)
不機嫌そうな顔とは正にこのことを言うのでしょう。
眉間に皺を寄せ、暖房がよく効いていて実際のところはむしろ暑いくらいの室内で、極寒の冬空に投げ出されたように貧乏揺すりを続け、口につけた煙草は既に三本目に至ろうとする我が雇用主の塚本荘蔵四十九歳独身バツイチは作りたての湯気も収まりきらないサバ定食に一切手を触れる事もなく、眼前の平坂さんを捉えています。
そして、僕の左手に繋がった平坂さんの右手は工場に設置されたロボットアームのような正確さでサバの骨を綺麗に取り除いていきます。僕は可能な限り彼女の手の動きについていこうとするも、妙な遠慮から僕の左手は彼女の動きに引っ張られたりくっついたりして、そわそわします。
サバ定食の前に肘をついたまま僕を閻魔大王の如く睨みつける義道叔父さんはとても怒っているように見えます。そして、じりじりと火がついた煙草を灰皿に押し付けると僕の目を覗き込んで声を上げます。
「で、さあ。荘ちゃん。何これ。」
「サバ定食です。」
そこで、スパーンと。
隣の席に置いてあった新聞紙が僕の頭頂を襲います。
こうして叩かれるのは神戸に着いてから一体何回目でしょうか。
「馬っ鹿、お前。そうじゃねえだろ、そうじゃ。とりあえず、この、何。平坂さん…?まあこの人が朝飯食いたいって言うからここまで来たけどよ」
「でも、ほら。朝御飯って一日の中で一番大切ってテレビでも言ってますし。」
もはや義道叔父さんは新聞紙で突っ込みもせずにただ大きなため息をついて、出来の悪い甥を持ってしまったと言いたげなとても失礼な目をくれます。
「違うでしょう…ねえ、平坂さんとやら。」
そして、僕の四半世紀にも満たない人生の中で、一度たりとも輝いたところを見た事が無いどんよりとした義道叔父さんの瞳が平坂さんを捉えました。
「………」
背筋を伸ばし、一方の箸はしっかりと人差し指で挟み他方の箸は行儀よく中指の第一関節の辺りで行儀良く座っている平坂さん。彼女はメトロノームのように規則正しい咀嚼を継続します。
そして、ごくりと。
「…すみません。もう少しだけお時間頂ければ幸いです。」
そう無感動に放った平坂さんは既に綺麗に切り分けたサバの上に大根おろしを載せ、あくまで小さく控えめに「ごめんなさい」と口にしながら、僕の左手ごと醤油に手を伸ばす。その度に会釈をする程に叔父さんの眉間には深い皺が生まれていきます。
「サバ、好きなんですね。」
「うん、父も好きなの。」
こうして、平坂さんは機械的な咀嚼を繰り返します。
「おい。」
義道叔父さんの目はこれまでに無いほど細いものとなっており、その瞼の隙間から見える黒い瞳は今にも何かしらのビームを放出しそうな雰囲気を漂わせております。
「はい、社長。」
義道叔父さんは四十九歳で独身 (バツイチ) はストレスに日々晒される生活を送っているというのに頭髪は同世代の他の者と比べても健在且つ黒いままで、肌のキメもそれほど荒れているわけでもありません。なのに、頬骨が突き出たその顔はそんな若々しさを感じさせる特徴を無慈悲なまでに、無意味なものにします。
要はとどのつまり、端的に言うなれば人相が悪いのです。
義道叔父さんの顔写真を街行く人々へお見せし、職業が何かとお聞きすればきっと十人の内で限りなく少なく見積もっても十五人程は「ヤから始まる自営業」に関わるお方であると判断することでしょう。そしてその特徴は今こうして向かいの席に座った状態でも存分に発揮されております。
「…お前もさっさと食え。」
味のなくなったガムを吐き捨てるように僕のサバ定食のプレートに視線を投げる叔父さんの顔は少し力が抜けたように見えます。
「それでは遠慮なく。」
そう答えた僕を横に振り向くこともなく目線だけをくれた平坂さんはただの一言も発することもなくただただ先程からの機械的な咀嚼を継続いたします。
僕の左手は平坂さんの華奢な右手に繋がったまま、サバ定食の上をフラフラしたままで、少し肩が凝ってきました。利き腕ではない方の腕が使えないという状況は状況で面倒なものということを理解します。僕は平坂さんの邪魔にならないよう、肩をその場でくるりと回してから眼前のサバ定食へと切り込みます。
いざ、尋常に。
そんな僕を見た義道叔父さんは何故か特大のため息をついて右手で頭をがしがしと搔きむしりました。
ここまで流れを簡潔に説明します。俗に言う前話回想というやつです。
(1)目が覚めると知らない美女、名を平坂直子さんという方が僕の左手に手錠で繋がってた。
(2)神戸湾に到着後、義道叔父さんと僕〈平坂さん付き〉は合流します。
(3)義道叔父さんのボロボロのクラウンワゴンには手錠を外せる工具は搭載されておりません。
(4)ホームセンターが開店する九時までの約三時間はやることが無いので朝ごはんを食べにきました。
(5)平坂家は親娘揃ってサバ定食がお好きだそうです。
という流れになります。
「もう、いいよ。」
そう静かに、はっきりと口にした平坂さんは自由になった左手でナプキンを手に取って口の周りを拭いております。彼女が軽くその右手で僕らの腕を結合する金属の存在を主張することでようやく僕はその意を理解します。
「あ、ありがとうございます。」
不思議なものです。
何がと言いますと、僕は相手がどれ程年の離れた方であっても敬語で話をすることはできない方とは積極的なお付き合いを控えさせて頂いているのですが、平坂さんの口調にはどこか丁寧さが染み込んでいるようで妙な嫌味を感じないのです。
平坂さんは僕の礼に小さな会釈で答えると店員のオジさんを呼び、食後の緑茶を注文します。
そんな僕を捉える義道叔父さんの妙な視線に気づかないふりをして僕も眼前の焼き魚へと注意を向けました。
義道叔父さんは、三流のテーブルマナー講師であれば卒倒するような不器用さで焼き魚を分解していきます。箸でごちゃごちゃと魚の身をかき混ぜたと思うと今度は左手で尾ひれを掴み、さながら餌付けされている野良猫のように無遠慮に魚にかじりつきます。
そんな無粋な叔父と血縁があるとは思えない程聡明なその甥である私は、有する技能全てを投資してもなお、綺麗にその身を憎き骨から除去することができません。もしかするとこの不器用さは少なくとも三代に渡った遺伝なのかもしれません。遺伝とあれば致し方ありません。いざ尋常に、
「下手だね。」
え、ともはや文明の利器である箸の使用を半ば放棄しかけた僕をそう隣の平坂さんが口を開きます。
「焼き魚はね、頭からちょっとづつ、一口大に切りながら尻尾に向かって取り出すの。」
平坂さんのスラリとした人差し指がぎょろりとした目から焦げだらけの尾ひれへと流れます。
「いっぱい取ろうとすると、上手くいかないから。だから少しづつ取るのがいいの。」
平坂さんは淡々と僕に焼き魚の食べ方を教えますが、彼女の上体が僕の方面へと近づく度に優しげな香りが鼻の奥で舞うような気がしました。平坂さんの横顔はもう既に何回も拝見したはずですが、その鼻の高さとは対照的に東洋人らしい一重の瞳がアンバランスな癖に、妙に納得できてしまう、変な気持ちです。
「わかった?」
一重の瞼の中に収まった真黒な瞳がそう聞いてきました。
「はい、あ、はい。」
何故二回も言うのでしょうか、馬鹿なのでしょうか。多分そうです。
すると、ショットグラスに注がれたテキーラのように、周りを一切憚かることを知らないずるずると音を立てながら味噌汁を飲み込む義道叔父さんは、ことりと、妙に丁寧に空になった茶碗を盆に乗せ、口を開きました。
「で、だ。平坂さんとやら。あなたは笹塚光一氏を知っているんだな。」
テーブルの上に件の『哲学探究』を置いて、そのページをペラペラと捲る義道叔父さんはどこか退屈そうに見えます。
「平坂で結構です。そして、はい。笹塚さんのことは知っています。彼に会うために私はあのフェリーに乗りました。」
僕は面倒臭そうな表情の義道叔父さんを視界の端に保持しながら、平坂さんの言う通り、頭から尻尾へとゆっくりと肉を取り除くと存外に上手くいくことに感心していました。
「それで、出身は?」
肘をついた義道叔父さんの視線は本と僕の間を漂います。
「東京です。でも、三歳からずっと福岡に住んでいます。」
ぱたんと本の背表紙を閉じる叔父さんはいつも以上に気怠そうな雰囲気を醸し出します。
「…面接みたいですね。」
妙な間に、一応コメントを加えてみます。
「馬っ鹿。お前には聞いてねえ。」と即答。超が付くほど機嫌が悪いです。そして数え上げることを既に放棄した特大のため息をつき、再びそのヤニ臭い口を開きます。
「どこで笹塚と知り合ったか、そこを教えてくれないかな?」
義道叔父さんはばたんと『哲学探究』の表紙を閉じ、ボックスパッケージのラッキーストライクの口を開きます。ソフトパッケージとは違い、するりと抜け落ちる煙草を人差し指と中指で捉えると、喫煙を再開します。
「はい。笹塚さんを名乗る方からご連絡を頂いたのはおおよそ二週間程前になります。」
僕の右手がサバの半身を骨へと変えていく中、平坂さんは尋問を受ける協力的な証人のようにすらすらと言葉を放ちます。
「連絡はどうやって?」
「職場の方で、少し…トラブルがありまして。丁度その時に笹塚と名乗る男性から携帯電話の方に連絡を頂きました。随分と怪しいのではないかとも思ったのですが…少々、私の方でも事情がありまして」
僕の口の中では冷たい大根おろしがサバの脂と絡み合って甘くなっているのに、平坂さんの口調はどんどん甘さとは対極の方面へと進んでいくように聞こえました。先程まではその姿勢同様に凛々しい口調であったのに、彼女の中の何かがその姿勢を崩したように思えました。
「まあ、事情はどうあれだ……で、じゃあ平坂さん、あなたは自分の意思であのフェリーに搭乗したんですね?」
「はい。」と、何の迷いも無く答える平坂さん。
紫煙をくぐらせる煙草を指に挟んだまま義道叔父さんは平坂さんを指差しながら問いかけます。
「ここ、神戸に来ることも同意の上だったと?」
「はい。」
「その、笹塚氏、またはその関係者を名乗る人物から十分な説明は受けたと?」
「はい。」
「ここまでの間で危害を加えられた事実は無いんですね?」
「はい。」
そして、最後のサバの一切れを残りの大根おろしと一緒に口の中で咀嚼する僕。
伸び放題のボサボサの髪の毛を左手でがしがしと搔きむしり、「え」と「あ」かよく分からない音を出して天井に向かって吠える義道叔父さん。
義道叔父さんと自分の分のサバ定食が載っていた食器を取りにきた中年の女性店員に小さく、「ありがとう」と会釈する平坂さん。
そして、ごくりと。
「どうしたんですか、叔父さん。」と、ようやく会話に参加します。
その答えとして、義道叔父さんは「分かるだろう、馬っ鹿。察しろ」と言いたげな細い目つきを僕に浴びせます。普通に考えて、分かるわけあるわけありません。分かったら凄いです。
「残念なことに、この平坂さんを誘拐の被害者として警察に連れていくことは出来ない。」
義道叔父さんは固い、木製の椅子に踏ん反り返って、胸一杯に吸い込んだ煙草を加湿器のように口から吐き出します。僕が「え」と一言、意思表示を行うための言語音を発する間も無く、
「つまりだ、彼女は自分の意思によってこの場にいるのであって、それは俺達にはどうすることも出来ない。ゴネれば未遂ってことで希望はあることにはあるが…勿論、仮に知らぬ間に手錠をかけた笹塚に一杯食わせてやりたいって気持ちがあるなら警察に駆け込んであとは向こうさんに任せることも出来るんだが…」
「いえ、笹塚さんに含むところはありません。」とはっきりと断定する平坂さん。
呑気に食後のお茶をすする僕の意識は真隣の女性の横顔に吸収されます。その平坂さんは煙草の匂いにまみれた店内の空気を肺に取り込んで、言いました。
「ですが、お聞きしたい事が幾つか存在することも確かです。」
それを聞いた義道叔父さんは僕らから顔を背け、天井に向けます。天井に向いたまま、右手だけは未練がましくラッキーストライクを保持しており、それを口元へと運びます。こうして上を向いたまま煙草を吸うのは義道叔父さんが考え事をする際の癖なのです。
これは、昼休みにオセロをやるときはいつもこの姿勢をとることからも伺えます。何と言ってもゲームと名のつくモノの全てにおいて驚くほど絶望的な弱さを誇る義道叔父さんのことです。僕がボード上で叔父さんを相手取る際にはお馴染みの光景です。
………
上体を通常の姿勢に戻し、言語音としても機能しない、無音によって何らかのシグナルを僕に送る義道叔父さん。しかし、残念なことにテレパシーの素養はありません。
「…あと一時間もしない内にホームセンターも開く。とりあえずは外に出ようか。」
義道叔父さんがヒビだらけの皮のコートを手に掛け、僕は右手でお茶の入ったカップを一気に傾けました。そして、席を立つと小さな金属が擦れる音がします。
「あの」
丁度椅子を挟んで立つ平坂さんは小さく手錠が繋がった右手を力なく上げて淡白な二文字を発話します。
「すみません」
申し訳なく思い、僕は手錠が繋がったままの手を机越しに上げます。
社交ダンスを始めたばかりのペアのように両手を上げて席を立つ僕らは随分な注目を受けるようで、近隣の作業着を着た叔父様方が一斉に僕らの両手を凝視します。これ程までの注目を得たのは高校二年生の夏、文化祭のクラス発表の受付として教室前に置いた机にて入場受付を担当した時以来です。ちなみに、同じクラスの河上さんが担当を代わりに来てくれるはずが、彼女は二日間の文化祭を通してその姿を見せることはなく、クラス発表の受付担当を代わってくれる者もなく、ただひたすらに入場者名簿を記入並びに整理をしていたことを思い出します。
おい、とコートを肩にかけた義道叔父さんが出口からこちらを睨みながら呼びかけます。
はいはい、と思いつつ、作業着姿の運転手さん方の視線に全力で気づかぬ振りをして焦る僕とは対照的に平坂さんはその淡白な表情を一切崩すこともなく、僕のペースに合わせ歩いてくれます。
かちかちと鎖が擦れる音だけが、僕の耳に届きます。
その音はあまりに大きく、ドアの向こうに見える義道叔父さんの背中を遠くします。
そして、思います。
平坂さん、あなたは一体誰なんですか。
普通に考えてありえません。
(業務上仕方なく)ある人物を尾行し、そこで行きついた先のフェリーにて夜を明かすと左手に繋がれた陳腐な手錠。その先にあるのは普段の僕が合い間見れることはないような女性。その名を平坂直子、ベージュのコートを纏い、その豊満であろう身体を黒のシャツと青いジーンズに包みこんでいます。彼女の右手に繋がるは鈍く光る手枷、その先につながる太い腕は残念なことに僕のモノであります。身長は五尺六分に届くか怪しいところ、体重は小学生の時に好きだった女の子から「でぶ」呼ばわりされて以来、体重計とは疎遠な関係にある為記載しかねます。
意味がわかりません。
もしも意味を分かれと言うような人があればその方の精神構造は現代の社会に毒されていると判断しざるを得ません。
足を運ぶ度に緩やかに揺れる彼女のポニーテールも、教科書的な〈普通の〉格好だって、嫌らしい目で見てくるトラックの運転手だって、義道叔父さんが待つ外に広がる冷たく乾いた冬の香りも、喉の奥にべっとりとくっついた缶コーヒーの甘みの名残だって、全部全部意味が分かりません。
「じゃあ、ちょっとここで待ってろ。車、取ってくる。」
ピンク色のカラビナに繋いだ鍵の纏まりを人差し指でじゃらじゃらと回しながら義道叔父さんは振り向きざまに言います。
すると、僕の口の代わりに平坂さんが首を縦に振ったことを手首の金属音が知らせます。
何だか含みがありそうで、その大抵は無意味な叔父さんの薄目が僕の額を貫くと、標的に変化が見られないことに失望したかの様に毎日の出典不明の口笛を吹いて歩きだしました。
「なんか、ごめんね」
湿っぽさが感じられない飾り気のない音が僕の言語中枢を捉えました。
「どうして平坂さんが謝るのですか?」
「だって、これ。」と通常の自由が効かない片手を上げて平坂さんが言います。
確かに、不便です。実際、この片手のお陰で昨晩からずっと着たままのダウンジャケットを一度脱ぐことすら叶いません。それに御手洗いに行くことも叶いません。仮にここで繋がった相手が義道叔父さんであれば二つ以上の穴を掘ることも全くもって吝かではありませんが、不思議と、今すぐこの手枷を取外したい気持ちと、もう少しだけこのまま平坂さんの横で立っていたいような、妙に人の視線にもいつもよりは耐えられそうな気持ちが混ざり合って形容し難い心情に至っております。
平坂さんは小さな吐息と共に頭を下げます。こんな時殿方はどの様な言葉を掛ければ良いのでしょうか。今期のアニメのストーリー展開に関する考察サイトを眺める時間をそのまま恋愛指南書を読む時間に変換することができたらと今更になって思います。確か女性は褒め殺せという言葉はどなたかが言っていたような気もしないことがないのですが、何を言うべきなのでしょうか。
「サバ、僕も好きになりそうです。」
公園の池に巣食う意地汚い鯉の如く、無駄に口をだらしなく開閉する僕を見て、平坂さんは何を思うのでしょう。やはり、気の利いた言葉の一つや二つや三つや四つや五つの程掛けられない情けない男として映るのでしょうか。僕の普段の視線よりも少し上に位置する平坂さんの目が少しだけ動きます。
「うん、美味しいよね。」
肩をほんの少しだけ下げて、僕の額の辺りを捉える黒い瞳は澄んでいます。
冷たい朝の風が定食屋さんの入り口の目の前に立つ僕と平坂さんの前を素通りする。僕らが立つ歩道には、地面を向いたまま歩くスーツ姿のサラリーマン、スマートフォンの画面に指を走らながらサラリーマンとすれ違う制服姿の男子生徒、その彼等の尻尾をぬるぬると揺らして歩く野良猫、そして小さな段差の向こうに見える車の影が跋扈します。
「あの」と、僕が口を開いたのが先だったでしょうか。それとも、
「おーい。」と、助手席の窓を開けて呼びかける叔父さんの声が僕と平坂さんの鼓膜を揺らしたのが先だったでしょうか。
判断は難しいです。平坂さんと僕の意識は目の前に停まったつや消し黒に塗られたクラウンワゴンに向けられます。「俺の青春を共にしたから」というよくわからない理由で乗り換えを頑なに拒むクラウンの運転席には垂れ目のサングラスをかけた叔父さんがこちらに顔を向けています。
そんな、古臭さが鼻につく雰囲気に引き込まれ、僕と平坂さんは後部座席へと吸い込まれいきます。
「とりあえずはホームセンターで工具を買って、お前らを引き剥がす。そこからは平坂さん。少しは事情を聞かせてもらいますよ。」
こちらを見ることなく手垢が付き放題のシフトをがこんとPからDへと移行させる義道叔父さんが言います。僕がいつも座る助手席には何らかの書類が無造作に投げ出されており、僕と平坂さんが今座る後部座席に置いてあったものをとりあえず移動させたものであるということが伺えます。
義道叔父さんは無理に沈黙を埋めようともせず、増設したCDプレーヤーの音量調整の為のダイアルをくるくると回し音量を上げます。耳に入ってくるのは、もう聞くのが幾度目かも分からない Def Leppard のベスト盤の、しかも義道叔父さんの一番のお気に入りのトラックナンバー二番の Photograph です。
鼻歌で歌詞を追う叔父さんの肩の辺りまで伸びた長髪は僕らの存在など意にも介さないように小さく揺れます。僕の左側に行儀良く座る平坂さんはその左手を膝の上に乗せ、小学校の卒業式で『こうやって座れ』と指示されたあの姿勢を彷彿とさせます。真っ白なキャンバスに垂らされた数滴の絵の具のように、平坂さんの外を眺めるその姿だけが前景化され、流れる景色に注意を払うのが難しいほどだった。
そして、そんな平坂さんの表情に三輪車と補助輪付きの自転車程度の違いが表れたかと思うと、後部座席の窓を開けました。
「暑かったですか…?」と、僕が聞くと平坂さんは淡白に、一言。
「煙草の匂いは少し苦手で…」と遠慮がちに言う平坂さん。
そしてぎくりという効果音が聞こえてきそうな動きをする目前の長髪。彼は弁明の意を言葉に出すこともなく、口に挟んだ煙草は加えたまま、左手に持ったライターを緑のシャツの胸ポケットに放り込むと運転席側の窓を開けます。昭和臭い車内に流れこむ平成の音がJoe Elliot の声を無感動にかき消します。
いつもは何とも思わない煙草の匂いが外へ消えていくのが何とも愉快で、僕もすぐ隣の窓を戯れに開けると、外界の風がばたばたと僕の前髪を上げてその下に着た汗が染み込んだシャツの隙間にずるずると入り込みます。それは冬の風で、乾いた風で、とどのつまりは。
「…寒いですね。」
ぼそりと、本音が出ます。
だから言っているじゃありませんか、フィクションと現実の間には超えられない溝があって、その溝がフィクション的な場面の再現を決定的に防ぐのですから。
前からは鼻を一息鳴らす音、僕の左側からは小さく漏れた笑い。平坂さんは自由な左手の拳を口の前に当てて唇の両端を遠慮がちに上げております。
「ごめんね、閉めよっか。」
ほんの少し首を横に傾げて、僕の顔を真っ直ぐ見る平坂さんの真黒な瞳の奥では後ろに纏まった髪の束が風に吹かれてぱたぱたと揺れております。でも、黒色のサンプルカラーのような色をした彼女の髪は、マネキン人形のように整った高い鼻だって、乗り慣れたこの昭和臭い後部座席だって、全部が全部、フィクションと現実の深い溝を華麗に跳躍しているように思えました。流れていく神戸の街並みがいつも以上に新鮮に感じるのはきっと、年数という要因以外の何かが働いているのでしょう。
◯
かくして僕は、再びフィクション的な世界から現実世界へと引き戻されるのです。
以前インターネットに掲載されていた情報によれば、手錠が一朝一夕で破壊できるものでは無いという某動画配信サイトより得られた経験的事実をお伝えすると、義道叔父さんはワイヤーカッターの購入を断念したのです。すると、この我が叔父はどうでしょう。グラインダーを用いることで半ば強制的に手錠の破壊を試みることを提唱したのです。
とんでもありません。
私の腕がトカゲの尾のごとく容易に再生産が可能ならまだしも、私の身体はそれ程までの能力を得るまでには残念ながら至っておりません。その非合理性を叔父さんの娘…すなわち僕の従兄弟に当たりますが…名を晶ちゃんと、この唐変木の遺伝子を受け継いでいるとは夢にも思えない程の素直さの持ち主が煙草臭くて嫌であると言ったところで喧嘩になりました。
やれ、無茶苦茶なところは母親譲りだ。
やれ、無茶苦茶なのはあんただけだ。
やれ、僕の体脂肪率が一向に下がらんのはケシからんと。
やれ、世界が平和にならないのはあんたのような人種がいるからだと。
叔父さんの言動が政治的に正しい(ポリティカルコレクト)ものではないのは現代社会に適応していない証拠であり、潜在的な差別意識を根絶するには我々の小さな努力が不可欠であることを僕が論理的に説明しようとした辺りでした。
平坂さんが鍵屋さんの位置を店内地図上に見出したのは。
そこからの展開はすらすらと進みましたとも。
頭頂が見る影も無いほどの荒れ地の髭坊主がなんとも嫌らしい目で僕と平坂さんを舐めるように見ていたことが不愉快でしたが作業は呆気も無いものでした。壁にかかった鍵の山から取り立て小さな玩具のような鍵を平坂さんの左腕に繋がれた金属に差し込み
「…で、何なのこの手間は。」
エンジンが止まった不気味なまでに静かなクラウンの中で義道叔父さんは綺麗に人差し指を突き立てて、先ほどまで僕と平坂さんの腕を繋げていた手錠をくるくると回します。
「それにねえ、これ。ダブルロックって言ってな、普通の玩具とは違って双方向に鍵がかかるのよ。わかるか?」と金属が擦れる音を聴かせるように後部座席に座る僕と平坂さんに見えるように前を向いたまま突き出す義道叔父さん。
「要は本物ってことだ。それこそ警察署やら自衛隊なんかに置いてあってもおかしくないようなな。それに割に汎用性の高い鍵を使用している辺りが、それはもう、すっごい胡散臭いんだけどな。」
顔だけを僕の方へと向けその人相の悪い目つきを突き刺します。
「胡散臭いって話は、とりあえずは置いておこう…そろそろお話聞かせてもらってもいいかな、お姉さん。」
運転席の真後ろに座った平坂さんをバックミラーで捉える胡散臭い義道叔父さん。
その言葉に何かが詰まったような顔を見せた平坂さんは少し頭を下げ、膝の上に行儀良く載せた両手を重く握りしめると糸が切れた凧のように開かれた口から言葉を放ちました。
「弟がね、いたの。」
そう言う彼女の瞳は少し淀んでいて、放つ言葉は綺麗に聞こえる癖に途切れがちでした。
つい先刻までの制約があっさりと解除された僕の右手は以前よりも軽くなったようでした。
平坂さんも懸命に右腕の辺りを何かを取り繕うようにさすっておりました。
「弟がね、いたの。
五つくらい離れてた、馬鹿だけど素直な弟だった。整備士の専門学校出てね、地元の車屋さんで働いていたの。名前をね、正直って書いて『まさただ』っていうの。
私覚えているの。
あの子が中学に入った日、上履きを忘れて家を出て私が自転車で追いかけて届けてあげたの。
中学を出た時、一丁前に好きな子に告白して、振られて家でずっと泣いてたの。
高校に入って、何でかよく分かんないだけどね、陸上部に入ったの。それまではずっと野球部だったんだよ?なのに、陸上部に入って、凄い頑張ってた。でも、高校二年生の夏に怪我をして…それからは競技から離れていって、でも友達は多かったみたいなの。楽しそうだった。
高校の卒業式、お父さんとお母さんと皆で一緒に見に行ったの。それで気付いたら何処か行っててね、見つけたら女の子から告白されてたの、一丁前に。陸上部で頑張ってた姿を見て憧れてたんだって。でも、それでも落ち込んだところを見せないところが好きになったんだって。
本当は家じゃよく泣いてたんだよ?でも、友達にだけは心配掛けられないって、外じゃ絶対弱気なところ見せなかったみたい。馬鹿だよね、見栄っ張りで。
一度だけ会ったことあるんだ、その子。元気でいい子だったよ。
結局その子の告白に応えてね、正直
まさただ
は。高校を出てからは大阪の方の専門学校行く為に一人暮らし始めてね。ちゃんとあの子なりに進みだしたの。
でもね、おかしいの」
膝の間で静かに震える平坂さんの拳と、義道叔父さんの人差し指の周りをぐるぐる回る手錠の音が窓一枚を隔てた外界の喧騒をかき消します。何かを確かめるように、右腕に回した左指を強める平坂さんの指先は真っ白な色に変わっていました。
「…まさただはね、もういないんだって。」
声帯を目一杯に絞ってようやく捻り出した嗚咽のような声を上げる平坂さん
「誰に聞いても、おかしいの。何かがおかしいの。この間まで岡山で元気で働いていたの。でも、いないの。そこの人たちに聞いても『平坂正直なんて人は知らない』って。私が短大出てから福岡の会社に勤めているのは変わらないのに、人が違って、言ってることも、私のしていることも、明らかにおかしいの。私には弟がいるのに、その弟は事故で死んでいて、お墓もあって、お爺ちゃんのお墓に入っていて、嶋田さんだって私知らないのに裕二君もみんな」
頭を抱え震える平坂さんは一度だけ深く息を吸い込みます。
「私、おかしくなんかありません。」
頭を上げたその綺麗な頬を伝う水滴を見た僕はただ、この人を助けてあげよう、そう思いました。
「つまり、それが先程言っていた職場での…何だ、トラブルってやつですか?」
助手席に放り投げていた書類の何枚かを膝の上でペラペラと捲る義道叔父さんが尋ねます。
ずるりと鼻を吸い、声を挙げずに頷く平坂さん。
「私が営業のところの事務で、仕事だとか…そういう大きなところに変わりは無いんです。でも、気付くと職場に知らない人がいたり、昔からの仲良しの山梨さんなんかと、話をしててもどんどん話がズレちゃって…ありがとう。」
後ろのトランクに手を伸ばし、ティッシュを箱ごと平坂さんに手渡します。
「で、件の笹塚氏を知ったのは?」
「…その直後です。」
「方法は?」
「携帯に留守電が入っていました。怖かったけれど…弟のことで話があると言われて」
「それで行ったんですか?」と思わず僕も口を挟みます。
義道叔父さんは釘を差すような目を僕の眉間に浴びせました。
「…うん。危ないとは思ったんだけどね、指定された駅に行ったらスーツを着た大きな身体の男の人がいてね。凄い優しくて、フェリーまで一緒に来てくれたの。」
そこで義道叔父さんはその後を付け加え、「じゃあ、笹塚と実際に会ったのは、」
「フェリーの個室です。そこまではその大きな身体の男の人が案内してくれました。」
少し、鼻声に近い声ではっきりと答える平坂さん。
「で、何を言われた?」と義道叔父さんは左指に掛けていた手錠を助手席に放り投げると、
「……無茶苦茶なことです」
少しだけの間を空けて膝の上に握りしめた拳を動かさずに言います。
「私の記憶には間違いが無いけれど、実際に起きたこととは違うとか…か、確率論がどうとか、決定していないとかしているとか本当に意味が分からないことを延々と…」
義道叔父さんの嫌そうな表情が何かに取り憑かれたように真剣なものに変貌しました。
「本当に、意味が分からなくて。だってどう考えたって矛盾しています…私は弟のことを聞きに行ったのに、正直はもういなくて…それが自分たちの所為だとか言うから、その…実のあることを一言も言っていないことに、我慢できなくて」
僕の頭に、タバコ臭くて狭苦しい個室が広がります。きっと、あの笹塚氏はそんな部屋の椅子に座り自身の弟の身を案じるこの女性に術学的な能書きを垂れ流したのでしょう。そんな氏の態度に業を煮やした彼女は遂に
「…私が覚えているのはここまでです。頭に血が上って、飛びかかったところからはどうも記憶があやふやになっています。気付くと変な歌が聞こえてきて、私の横には野矢君が寝ていました。」
「記憶の齟齬ねえ…お姉さんの思い違いってわけじゃないの?」左指に手錠の代わりに新しい煙草を挟んだ義道叔父さんが疑問を投げかけます。
「それが、思い違いの範疇を超えているようにしか見えなくて…どうしても納得が出来なくて」
そう自分の行いを弁明するかのように頭を下げる平坂さん、彼女は何一つとして悪いことはしていないはずなのに。
「まあ自分の身内に何かあったとなれば余程のことが無い限りは……ねぇ」
マニュアル通りの質問をするような市役所の職員のようにさして興味がなさそうに聞こえる義道叔父さんは助手席に散乱する写真の纏まりの一つを手に取り
「平坂さん、先程あんたが言っていた大男っていうのはこいつかい?」
運転席からこちらを見る義道叔父さんの指には火がついていない煙草と共に写真ぶら下がっています。
「そうです。この」
端から見ればボディビルダーのような身体を真っ黒なスーツを身につけた190cmは軽く超えているだろう長身が武蔵坊弁慶を彷彿とさせます。髪の毛は剃刀か何かで剃っているのか毛一本見当たりません。そして垂れ目のサングラスをかけたその風貌はどこか子供らしさを感じさせる妙な人物で
「笹塚さんの隣に立つ男の人がそうです。」
「この人物の名前は?」
「島津、島津孟と言っておりました。」
それを聞くと義道叔父さんは「う」にも「ん」とも聞こえる声で唸ります。すると、何かを決心したように一言、ちょっと待ってろと運転席から腰を上げます。
「ついでに何か飲み物買ってくるけど、コーヒーでいいか?」
何も言わずただ頷く平坂さん。
「ちょっと電話してくる」と一言言うと、そそくさと運転席のドアを開けると息の詰まるような生暖かい空気が外界へと漏れ出します。
…ああ、お世話様です。はい、塚本です。
閉じられるドアの音の後には静けさと蓄積されたラッキーストライクの香りだけが僕と平坂さんに残されます。一瞬開かれた隙間を通って入り込んだ冷気はいつのまにか車内に溶け込んでしまいます。義道叔父さんは話をやめることなく店舗入り口の自動販売機の方向へと足を進めます。
義道叔父さんのクラウンが停まる駐車場は丁度ホームセンターの店舗の真下に作られていて外の光が差し込むことはありません。平坂さんの規則正しい呼吸音が耳に入って、手の平にはじわじわと汗が広がります。吸い込む生暖かい息は喉を通り越すと冷たい何かに変わり、僕に何かをしろと急かします。
「取り乱してごめんなさい。」
「あ、いえ」
平坂さんはまっすぐ伸ばしたその指を膝に擦り付けます。
僕も僕です。
何かもう少しマトモなことを云うべきということくらいは誰にでもわかるはずです。
なのに、母音を三つとは。情けない。
「でもね、やっぱりこんな話…信じらないよね。」
再び膝の上で硬く閉じられる下を向いたままの平坂さんの掌に目が行きます。平坂さんが困惑を絵に描いたような笑みを浮かべます。国語読解の成績は常に墜落寸前の低空飛行を続けてきた僕ですが「どうしようもない」という声がその表情から読み取れました
鼻の奥からは鼻水が際限なく喉へと流れ込むくせに僕の喉からは水分が弾きとんでいるように思えます。
…せめて何か云うべきです。
そう思って、身体を向けた先の平坂さんの表情は両親に叱られた直後の子供のように項垂れています。こんな時に僕は「大丈夫ですよ」、「元気出してください」といったような軽口を叩いて良いものなのか判断ができません、平坂さんには彼女なりの事情が、経験が、感情があるのに、そういったものがいつの間にか消えてしまった人物にそんなことを言うのは無責任であるように思えます。
彼女のための言葉を僕は知りません。
その歯痒さが、鼻腔を伝って胸の奥に届いて、腹の底まで冷たい何かが到達します。せめて一言、普通の会話が出来ればと思った僕は口を開きました。
「弟さんとは喧嘩とか…しなかったんですか?」
落とされる餌を一片たりとも逃がそうとしない、意地汚い金魚のように口が開いたままになります。せめて一言、それはいいにしても何なんですか。冷たくなった喉の奥から熱い血流が顔に、頬に集中するのを感じます。
少しだけ、肩を揺らして小さく笑いを零した平坂さん。そしてもう一度、口で息を吐いてから控えめに鼻をすすると僕の阿保面を覗いてこう答えるのです。
「したよ、いっぱい。」
少しだけ何かが変わったような、僕の中で、氷が一塊溶け落ちたような、そんなむず痒さを喉の奥に感じました。少し、もう一度、いつもの甘い缶コーヒーが飲みたくなりました。
すると、詰まるような車内の空気がどろりと車の外へ漏れ、冷たい空気と煙草臭い長髪の中年が運転席に飛び乗ります。
その人相の悪い中年は <BLACK> と書かれた二本のコーヒー缶を後部座席に放り投げます。僕の手があまりの急な事態に対応出来ずに座席の下へと転がり落ちていく缶を追いかける様を見届けるまでもなく、叔父さんはシャツの胸ポケットからヤマハのキーホルダーが付いた鍵の束を取り出してクラウンワゴンのイグニッションをオンにします。ぎゅるぎゅると大袈裟な音を立てながらエンジンを始動させると、運転席と助手席の間から肩をはみ出しながら口を開きます。
「京都だ。」
その発話の真意を尋ねる間を与えられることもなく、平坂さんが反応します。
「あの」
「笹塚は京都に向かった。」と義道叔父さんが言います。
「今確認がとれた。奴さんは京都にいる。」
ホームセンターで買い物を終え、自分の車に戻ろうとする他人が別世界の作り物のように見えました。
「今なら奴さんの尻尾をつかめる。こっちも聞きたいことは山とある。」
もう我慢できません。
「あんたはさっきから何を」
「馬っ鹿、お前。我等が笹塚氏の動きに変化があった。」
「どういうことですか?」
平坂さんが助手席に左手をかけて問いかけます。
「あんたと同じ状況にある連中に笹塚は会っている。」
叔父さんは助手席に散らばった書類の中から写真を何枚か取り上げては傍に投げを繰り返しながら
「ここ数ヶ月間、笹塚は次々と一般人との接触を試みている。平坂さん、あんたはその内の二人目だ。そんで、先月は奴さん沖縄まで行ってたようでな、俺もちょいと沖縄まで出たりはしていたんだ。」
景気の悪い排気音に先程までのデフレパードのベスト盤の声が被さります。先月分の経費として、山のような沖縄でのレシートを渡された時は殺意が芽生えたものでしたがクーラーのような暖房を首に感じながらも、僕は叔父さんの話にある種の説得力を抱いていました。
「あの」
そう声を上げる平坂さんは
「四国に入るまではもう一人一緒にいてな、そいつと一緒に行動していたんだが、こいつが使えねえの何の…って、とにかくだ。こいつはさっきの写真の図体のでかい方に引っ付いててな、香川からは京都に向かったそうだ。」
義道叔父さんの無骨な拳がオーディオプレイヤーのスイッチを無造作に消します。
「その図体がでかい方が丁度笹塚と合流したそうだ。」
ふいに、僕は思います。僕はちゃんと理解出来ているのでしょうか。
「奴が撒かれるのも時間の問題だ。だから俺はこのまま京都に向かう。お前らはここで降りてもいいがどうする」
義道叔父さんはこちらを微塵とも気にする素振りは見せずに胸ポケットからラッキーストライクのパッケージを取り出します。
「私も連れて行って下さい。」
平坂さんは即答します。
「…笹塚さんには、まだ聞かなくてはならないことがあるのです。」
彼女には強い動機付けがあります。弟さんの消息の真相を知る必要があります。対して僕は起きたらたまたま平坂さんの腕に繋がれていただけの存在です。いてもいなくても一緒です。でも、
「荘ちゃん、どうする?」
安物のライターが義道叔父さんの口から突き出ているタバコに火をつけます。ふわりとした刺激臭が車内に広がり、平坂さんの眉間に小さな皺が寄ります。
でも、です。
「僕もいきます。」
動機付けが何ですか。
知ったことじゃありません。
平坂さんが行くと言うのです。
「あっそ」
そう、ぶっきらぼうに呟いた塚本荘蔵四十九歳独身バツイチは運転席と助手席の間から肩を踊り出しながら左手でシフトを勢い良くRの位置へと動かします。それ以上何も言うことはなく、単純明解な慣性の法則に従って僕たちの身体が無遠慮に前へと投げ出されます。
乱暴な運転に困惑する駐車場の一般人達に遠慮なくクラクションと「馬っ鹿、お前!」と暴言を存分に浴びせながら教習所の試験であれば即失格となるであろう一時停止を経て平日の昼間の、車の通りもまばらな大通りへと車を進めます。
平坂さんの顔を覗きます。
流れる景色の中で、彼女は何かを思うような、決心したような、静かな目をしていました。
車線変更をするたびに「馬っ鹿、お前!ウインカーくらい出せ!」と毒吐く義道叔父さんの声が遠くなります。僕は京都に行くのです。今朝知り合ったばかりの平坂さんという女性と、人相の悪い中年に連れられて、僕は自分の意思で平坂さんに付いて行こうとしています。
先刻の、手錠を解いてくれた禿頭の髭坊主の「こんなの、遊びでするもんじゃないよ。本当に。」という声が僕と平坂さんを見る呆れたような、厭らしい表情と共に脳裏に蘇ります。
いいじゃないですか、別に。
少しだけ開き直った気持ちになった時、運転席の窓を思い出したように少し開けて義道叔父さんは名神高速入り口にハンドルを切りました。