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その三 (#)

 酒というものが《百薬の長》との異名を持っていることを知らない者はいないと思う。

 酒を飲むことによって得られる高揚感は時に人間関係の構築を助長するともされ、その機能を半ば冗談のように形容したのが「飲みニケーション」という語であることは想像に難くない。

 だが、愚かな人類は時に自らの身体が分解できる量以上のアルコール飲料を摂取する時がある。これには幾つかの要因が考えられるが、その要因の記述、並びに考察は本稿の目的からは逸脱する為省かせて頂く。

 だがしかし、昨晩の不肖、谷口の過度のアルコール摂取を動機付けたのはかつての旧友と自身の記憶の齟齬であることは言うまでもないだろう。この手記を読む者が既に成人しており、且つ俗に言う「二日酔い」という状況がどれだけ悲惨なものであるかを実践知として有していることを願うばかりである。

 しかしだ。

 どうしてこうなった?

 昨晩の記憶は一貫したものではなく、思い出せる限り西園が我々に加わった辺りから随分と曖昧なものとなっている。大方混乱した僕は大学四回生の夏に当時交際していた辻さんに破局を言い渡されたあの日のようにひたすら杯を傾けたのであろう。

 何かあるといつもこうなるのは僕の悪い癖だ。

 仮に自動小銃を持った強盗が今の僕にその恐ろしげな銃口を向け、現在の姿勢を変えるよう指示したとしても僕は断固たる意思を表示することができるであろうと思わせる程の倦怠感と今にも嘔吐しそうになる不快感が同居している。外は明るく、壁に掛かった安っぽい時計は七時五分を指していた。これはとどのつまり、頭上の円盤に設置された短針が既に半周以上したことであり、更に言うならば昨晩の同窓会から夜が明けたことを意味する。

 この結果は今現在の僕が馴染みの薄い、快適な茶色のソファーに横たわっていることからも推論できる。

 これは次の帰結をも意味する。僕は昨晩の同窓会でありもしなかった記憶に翻弄されたことが引き金となって、自宅のアパートへ帰還することもままならぬ程泥酔したのであろう。阿呆みたいに。

 否、ここまでくれば阿呆「みたい」ではなく正真正銘、高純度の阿呆である。

 そして今の僕の嗅覚を刺激するのは香ばしい珈琲豆の香りで、聴覚を刺激するのは六十五年のヒット曲である Fontella Bass の Rescue Me であるということから察するに、馬や犬と言った種には備わっているとされる〈帰巣本能〉という能力すらも放棄した僕が運び込まれたのは西本宅であるということである。

 「キャンチューシィイイイザットアイアムロンリィイイ?」

 そして、パンツ一丁のまま安物のスキレットを片手に熱唱しているのが家主の西本氏である。彼は二十代半ばという若さを存分に利用したステップとその持ち前の腰使いで彼の名曲の価値を幾段も下げること間違いなしである。普段の発音はそんな良くないのに、何故か歌う時だけは無駄に発音が向上するのが意味不明である。だが、誰かが適切な評価を下さなければならぬ。

 「お前、本当にこの曲が好きなら歌うのは諦めろ…」

 言葉ではなく、胃の中身を吐き出しそうになるのを堪えながら僕は西本に助言した。西本の中途半端な高音は僕の二日酔いの聴覚を容赦なく蝕んだ。高名なウーピーゴールドバーグの魂が彼に憑依したとでも言うのか、出典不明の謎のステップを踏みながら西本は振り向く。

 「おう、谷口か。前言ってた『腹式呼吸』とやらは大分モノになってきたぞ!」

 そう、スキレットを持ったままボディービルダーのような姿勢を見せてくるが、そこには贅肉が重なった栄光の三段腹しか見えない。僕の前世は相当な極悪人だったのかもしれない。これはその罰なのだ。そうに決まっている。

 「珈琲は今淹れてるところだからもう少し待ってくれ。朝飯もすぐできるし、食ってくだろう?」

 眉を上げて西本が僕に聞いてくる。

 忌々しいことに、腹を刺激すれば一瞬で昨晩咀嚼したものを全て外界へと戻しそうな気分は未だに体内に残ったままである。上体を通常の座る姿勢へと強制的に移行させると、全身が元の姿勢へと戻ることを主張した。流石にこれ程まで飲んだのは久しぶりである。

 ほれ、と西本が妙な犬のキャラクターがプリントされたマグカップを持ってくる。目がやたらと大きく、何故か二足で立っている茶色の犬が「お前はアメリカ人か」と言いたくなるような笑みと親指を差し出しているイラストであった。犬本来の愛くるしさが微塵も感じられない酷い出来である。

 「何これ?」

 朝の光が眩しい。目を覆ったまま僕は聞いた。

 「これな、今流行ってるアニメのキャラクターだそうだ。なんか彼女に貰った。」

 聞き捨てならんな。彼女とはどういう意味だ?その「彼女」とやらは誰を指している?

 「バー【最高潮】で働くあの紗智子ちゃん以外に誰がいるよ。お前にはまだちゃんと言ってなかったな、そういえば。」

 西本は右手のお揃いのマグカップに息を吹きかけながらゆっくりと珈琲を口に流し込んだ。

 「お前にも彼女いたのかよ…しかも、紗智子ちゃんと。」

 頭がくらくらした。これは二日酔いだけではあるまい。

 悪いな、と西本は妙に機嫌良く弁解する。って、悪いと思っとらんだろう、お前。

 僕はもう一度深く息を吸い込んで、ゆっくりと珈琲を喉に流し込んだ。苦味と甘味が同棲した味が舌を伝って喉の更に奥へと落ちていく。僕はもう一度目を深く閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。不快感は少し引いて、少し目が冴えて部屋の情報が視神系を伝って適切な現状理解が出来るようになった気がした。

 「じゃあ、朝飯にしようか。」

 西本は細い笑みを浮かべ、珈琲カップをソファーの前のテーブルに置いてカウンター向こうへと消えた。僕が座るソファーの前には木製のダイニングデスク、そしてそのまま視線を上げると四十二型の薄型液晶テレビが鎮座している。そして視線を左の窓の外へずらせば昨晩の同窓会の舞台となった居酒屋【たんぽぽ】がある駅ビルが見える。西本はよっぽど件の Rescue Me が好きなのか、リピート再生にしているようで、先程二周目に突入した。ベーコンが熱せられたフライパンに投下されたのか、景気のいい肉の焼ける音が耳に届く。僕はもう一度視線を落とす。昨晩から着たままのYシャツは皺だらけで、これまた妙な皺ができたズボンからは完全なる脱出を果たしていた。首元にはだらしなくネクタイがぶら下がっていて、いっその事何故外さなかったのかと聞きたくなる状態にある。僕はネクタイの片割れを掴んで一気に引き抜くと枕代わりにしていたスーツのジャケットがその姿を現した。これも例外なく、皺だらけである。

 ため息がでた。

 「先週クリーニングしたばっかりなんだけどなぁ…」

 かたかたと食器を鳴らしながら西本が声を上げた。

 「別にスーツが皺だらけになろうが、死ぬわけじゃないだろう。昨日なんか散々好き勝手やってたんだ。それくらいいいじゃねえか、別に。」

 西本の目は彼の右手と同調しながらフライパンとプレートを行き来した。

 「良くはねえよ。俺も二十五だぞ。学生のバイトじゃねえんだ。そんな格好で授業ができるかよ。」

 僕は丸まったままのジャケットを救出して、バタバタと軽く叩いて形を整えてやった。もう一度クリーニングに出したほうが良いかもしれないと思うとまた気持ちが沈んだ。

 「でも、意外と西園も可愛いとこあんだな。俺知らなかったよ。」

 こいつもか。

 「また、西園の話かよ…」

 首を回すと凄い音がした。ついでに肩を回してから手を組んで腕を伸ばすと、上半身の筋肉がブチブチとその封を切って活動を再開していくような気がした。

 「お前が起きる三十分くらい前まではいたんだけどな。昼過ぎからはまた仕事らしくてさっさと帰っちまったよ。」

 わざとらしく肩をすくめた西本は両手に焼きたてのベーコンを添えたオムレツが乗った二枚のプレートを目の前のテーブルに運ぶ。西本の歌は下手だが、料理はうまい。目の前に出されたプレートも魅力的だが、今現在、この野郎はどうにも妙なことを口走っているような気がしてならない。

 「それどういう意味だ?」

 僕は西本をその場から見上げる。

 「どういう意味って、お前。あんなに潰れるまで飲んだお前さんが心配だからって、あいつも俺ん家に泊まってったのよ。お前の足元に転がってるクッションと毛布、それ西園が使ってたやつだぞ。」

 足元には西本の寝室で見かけた青色のカバーがついた枕、その下には綺麗に畳まれた掛け布団が鎮座していた。

 いよいよ意味が分からない。

 まずは認めよう。

 僕は中学生の時、とんでもない青二才で、ガキだった。

 大学まで行かせてもらって、社会人になっても、多分まだまだ青二才だ。東京の大学からこっちに帰ってきて、就職して。必死に少しでもマシな講師になろうと努力して、時々西本やらと酒を飲みに行って。それに、自慢にもならないが、飲みすぎて記憶がぶっ飛ぶっていうことは何回かは経験がある。だが、ここまで酷いのはさすがに経験がない。だからこそ、聞かなくてはなるまい。

 「昨日、西園が来てからどうなった?」

 「酷い!私、初めてだったのに!」

 オーブンから出したばかりのトーストを二枚づつプラスチックの器に乗せた食器を両手に、パンツ一丁の西本が胸の辺りを覆って上体を捻らせる。これ程までに苛立たしい光景に僕は巡り合ったことがあったろうか。愚問である。何故なら答えは否であることは自明であろう。

 「真面目に答えてくれるか…」

 トーストをオムレツの隣に置きながら西本はそうだなと、何かを思い出すように目線を上に移した。

 「まあ、俺も結構飲んでたから曖昧な部分も多いけどなぁ…お前はほとんど西園と清水とかと話してたような気がするぞ。席も遠かったから何の話だったのかなんてのはわかんねえけどよ。ただ、「違う!」みたいなことは阿呆みたいに喚いていたような気はするな、それこそ阿呆みたいに。」

 西本は二人分の箸を持ってきてようやくその場に腰を下ろした。

 「まあ、思い出したくないことは俺も無いわけじゃない。昔付き合った子ともなれば色々事情はあるんだろうよ。でもなぁ…」

 西本は口を紡ぎ、自分のトーストに切り分けたオムレツの一部をのせ、それをトーストの上で潰した。形の良いオムレツが熱の残るトーストの上で無残な形へと変化し、ゆらゆらと煙を上げているその光景は如何にも食欲を促進するものだ。

 「やっぱいいや。こんなのは当人同士の問題だしな。俺が一々口を挟むことじゃないだろう。」

 そして、西本の口はトーストの上で潰されたオムレツを捕捉した。

 「ただ、せめて礼だけは言っておけよ。酔い潰れたお前の世話したのはあいつの方なんだから。」

 正論である。

 ぐうの音も出ないとはこのことを言うのだ、ため息が出た。

 「せめて番号だけでも聞いておくんだったなぁ…」

 僕の頭が後悔の念で満たされる。

 「俺、知ってんぞ。」

 一枚目のトーストの半分を消費した西本が再度珈琲を口に流し込んだ。

 「でも、とりあえずその箸拾って今は飯食おうぜ」

 この際の僕の心境がどのようなものであったかを推し量るのは困難を極めるものの、僕の運動神経が一時的な通信断絶を経験していたことは確かであったようだ。僕は西本の提案する短期的目標を許諾、追って我が右手も再び制御下に与した箸を駆使することで西本の行為に倣い、オムレツの切り離し作業に移行した。

 西本の作った特製オムレツとやらはとても美味かった。味付けに梅を使っていたようで、上品な酸味が珈琲の香ばしさと共に帰宅時まで腔内に残った。

 せめてもの礼として朝食の後片付けを行い、皺だらけのジャケットを羽織り、西本から西園女史の電話番号が書かれたメモ帳を受領した僕は厳しい寒さが残る午前十時の外界へと躍り出た。嗅覚を刺激する爽やかな冷気がとても心地良かった。


 ◯


 そして、僕は窮地に立っている。

 九時前には西本宅を後にし、タクシーを捕まえ、三十分もしない内に自宅のアパートへと帰還した。タクシー内の三十分は流石の小心者の僕であっても西園への電話という英断を下す為の準備期間として十二分に機能した。

 そうである。

 こう、自然な感じで「ああもしもし、西園?俺だよ俺。そうなんだよ、ちょっと今事故っちゃって、困っているところなんだ。それで、悪いんだけど指定する口座に治療費を振り込んで欲しいんだ。」なんていう微塵も面白くない冗談まで飛ばそうかと悩んだが、結局は普通に昨晩のことを素直に、愚直に、真摯に謝ることにした。

 それがだ。

 現在勤めている塾での初めての講義を彷彿とさせるような緊張感を脳内で用意した幾パターンもの台詞集を復唱しながら呼び鈴を聞いていると、西園の代わりに馴染み深いあの女性の声が僕の耳に入った。

 『ただいま電話に出ることができません。ピーという音の後にお名前とご用件をお話しください。』

 自宅のアパートの入り口の目の前で、僕は彼女の機械的な声を聞きながら、準備万端の状態で臨んだあの初めての塾での授業を思い出していた。生徒の知的好奇心を余すことなく伸ばすことができればと中学生向け受験英語の授業で大学のゼミで習った〈言語獲得におけるプラトンの問題〉を話したあの時、理解できた生徒は見事に一人もおらず、数週間後、生徒の一人が親に「谷口先生の授業は難し過ぎる」とこぼしたことが原因となって上司の吉野氏に以降数回分の授業計画書の提示を求められた。

 「おはよう、谷口です。西本から電話番号を聞きました。昨日は随分と迷惑をかけたようで申し訳無いです。何かお礼をしたいので良ければまた連絡を下さい。」

 僕はスマートフォン上の通話を切るマークをタップして留守番電話の録音を切り上げた。手が少し震えているのは外気の冷たさと二日酔いの余韻だけが原因ではあるまい。此れ迄の僕の経験則として、準備が万端であればある程結果が空回りする。何の因果だろうか。

 そう思いながら僕は自室の扉を開けた。

 薄暗い部屋には午前中の光が差し込んでいた。ベッドの上には同窓会に来ていく予定だった私服が一年ほど履いているジーンズ、新品の無地の白いTシャツ、先月購入した灰色のパーカーといった順番で丁寧に並んでいる。本来は昨晩こちらを着る予定だったのだと、昨晩の痕跡が声高に責め立てられる気分になった。

 僕はデスクトップパソコンを置いている木製の机にスマートフォンを放り、昨晩の汗を流そうと一枚一枚と肌にかかった布を取り払い、同志西本同様に栄光のパンツ一丁という、この〈ラフさ〉の体現とも言える格好への変身を遂げたところで、不肖谷口の高性能携帯端末が振動を始めたのであった。

 その振動の原因となったのは言うまでもなかろう、僕の気の抜けた留守番電話を聞いた西園女史であった。逸る心臓を深呼吸の連続によって騙し騙し押さえ込み、いざ戦場へ向かわんと肌着一枚で僕は「もしもし」と一声を切り出した。

 電話の西園は昨晩よりも淡白としており、淡々と主張を展開していった。

 そうして僕は知った。

 彼女は東京の専門学校を卒業した後に故郷に戻りホテルスタッフとしての職を得たと。

 そして、昨晩は十九時には仕事を終えるはずが、横暴な壮年の男性客の要望により、やれレストランの予約だ、帰りの新幹線の乗車チケットの予約だと残業を強いられた結果の参加であったと。

 そして、そのような激務の後に楽しく旧知の者達と美味い酒を交わせると思いきや、一々難癖を付けてくる僕のような阿呆に絡まれて散々であったと。

 そして、残酷なことにも本日の彼女は十四時出勤のシフトであり、本日の昼食を僕が負担するのであれば寛大な彼女は昨晩の事態を水に流すに吝かでは無いと。

 と、いうわけで窮地である。

 年甲斐もなく、「はい」という二文字を阿呆みたいに連発し、胸の奥辺りが熱くなるのを感じながら僕は心当たりのない以前の交際相手と一時間後に駅前の喫茶店にて食事をとる運びとなった。僕は自室の時計を覗きこみ、集合時間の十一時四十五分まで一時間近くの猶予しか残されていないことを知ることとなった。

 僕は其の内の約七百二十秒前後を水浴びに費やし、買ったはいいものの結局面倒になって日常的な使用を中断した香水なんぞも己の身体に振りかけて、約二百五十秒前後で髪を乾かしつつどの服を着ていくかを思索するものの、結局面倒になって前日に用意していたベッドに放り出したままの服をそのまま着ていくことにした。

 そして、再三に渡る身だしなみチェックの末、集合時間の三十分前になりようやく自身の車の鍵に手が伸びた。以前より憧れの対象であったスポーツカーを購入したかったのも山々であったが、初めての自分の車ということで、生来の謙虚さを存分に駆使して中古のスズキの軽自動車を購入した。また、当該車両を密かにサンダースチール (thunder steel) 号と命名したことは僕しか知らない。

 背の低いアルトワークスに身を屈めながら乗車し、キーを回すと聞き慣れた音が耳に入ってくる。そして僕は慣れた手つきでサイドブレーキを解除し、ギアを一速へ入れて再び駅前へと向かった。ラジオからは景気のいい口調のDJが最近流行りの曲を垂れ流している。普段は何とも思わないそんな音も今日ばかりは喧い。

 こうして僕はラジオの電源を切った。その代わりに窓を開けるとサイドウィンドウから流れ込む外界の新しい匂いが鼻の奥で踊り続けた。

 二日酔いによる倦怠感は消えていた。


 ◯

 

 西園が指定した喫茶店は、駅前の交差点に位置しており、僕が勤める塾がある通りに面していた。幾度となくその前を通っていながら店内に入る決心をするまでに至らなかったのは真っ白なインテリアが小綺麗な雰囲気を醸し出していただけではなく、その客層の大部分が女性であったことに起因する。気づけば女性専用車両に迷い込んでしまった会社員の心境を身を以て体験することに大きな抵抗を感じていたのである。

 しかし、今回は事情が違う。入り口のドアを開ける。白い家具で統一された店内は涼しげな空気が流れており、着席した客がよく見渡せた。落ち着いた雰囲気の中で流れるイージーリスニングは容易に僕の聴覚に留まることはせずにただその場で流れ続けた。

 あのぉ、と恐る恐る僕の顔を覗きこむ不安げなバイトらしき若い女性店員の声を右手で制しながら店内の探索を継続すると、昨晩と同じ灰色のスーツに身を包んだ細身の女性がスマートフォンの画面を覗きながら珈琲を啜っている姿が僕の目をとらえた。

 西園は電話で指定した集合時間よりも早く到着していた。

 少し不安になって僕も時間を確認したが間違いはなさそうであった。

 僕は親の姿を見失った子供のように不安げな顔をした店員に待ち合わせであることを伝え、西園の方へと足を進めた。西園は僕の姿を目に捉えると、その視線を再び携帯電話に戻しすらすらとその細い指を走らせる。メールか何かを打っているのだろうか。

 「おはよう。」

 とりあえずは初めに挨拶をと思ったが、何だか妙に決まりが悪く西園の向かいの椅子にそそくさと腰を下ろした。

 「おはよう。気分はどう?」

 珈琲カップをもう一度傾けながら、西園の声は真っ直ぐに僕の両耳を突き抜けた。

 「七時過ぎに目を覚ました時は一瞬、今日で世界が終わったのかと思ったけど、西本が朝飯作ってくれたんだ。それ食ったら大分良くなった。うん。」

 少し笑ってみる。不自然だろうか…

 「で、言うことはそれだけ?」

 西園は珈琲カップをコースターに置かず、両手でその暖かさを確かめるように大事に抱えている。白い椅子に深く腰を据えた彼女の顔は笑っているとも怒っているとも言い難く、悪戯に指を閉じ開けしているように見えた。だが、現在の僕に言えることは多くないことは阿呆の僕でも理解できた。

 「昨晩は多大なご迷惑を関係各処、つきましては西園奏様におかけしたことを深くお詫び致します…」

 僕はその場で頭を下げた。しかも何が恐ろしいって、昨晩の様子は西園が来てからはほとんど記憶が曖昧なままで起床時に残っていたのは多量のアルコールを摂取した名残だけだったのだ。

 旧友の皆との記憶の齟齬は間違いなく一大事である。これは何としても対処しなくてはならない。だが、そんな大きな目標を達成するには目前の小さな目標を達成しなければならない。本番の入試は三月中旬、それまでに学校で指定されるテストや宿題だけでなく、学校外でどれだけ模擬試験や演習問題をこなせるのかが合格のカギとなる。入試問題なんてのはどちらかと言えば「慣れ」の側面の方が大きいんだ。だからだね、って違う。全然違う。何で僕はこんなことを考えているんだ。仕事熱心にも程があろう。

 どれほど待ったのだろうか。

 西園は随分と立腹しているに違いない。当たり前だ。僕なんかの所為で折角の同窓会が無茶苦茶になったんだ。そら、誰でも怒る。僕でも怒るさ、多分。 

 僕の記憶している西園は意見があっても自分から声を上げることが恥ずかしくて出来ないようなシャイな女の子であった。きっと僕にバレンタインチョコをくれたのも途轍も無い決心だったに違い無いのだ。それを僕は察することも出来ずに逃げ出した。当時は別の女の子が好きだった。それは仕方が無い。でも、そんな覚悟を僕は。

 すると、どうか。

 腹から出た声とはこのようなもののことを指すのである。歌唱力の向上を目論む西本にも是非とも聞かせてやりたい、聞かねばならぬであろう。非常に耳通りの良い快活な笑い声が目一杯に開かれた口から放たれていた。

 「善久さあ、やっぱり飲み過ぎて昨日のこと全然覚えてないんじゃないの?日が変わる前には座敷の端っこで一ノ瀬君と一緒に潰れてたよ。」

 西園の目は表情豊かなものになっていた。

 「ああ、あの朗々たるバリトンボイスの一ノ瀬も潰れたんだ。」

 西園は口に含んだ珈琲を吹き出しかけたものの、最後のところで引き止めることに成功する。

 「笑わせないでよ。あの人、私よりも身長低かったのにね。声だけは全然変わってなかったね。」

 西園はテーブル横のナプキンを一枚取って口の周りに当てる。

 「あいつ黙って座ってたら絶対あの一ノ瀬だって気付かない自信あるもん。」

 あの一ノ瀬同様に、十年前の西園はもうここにはいない。あのシャイな女の子は十年の時を経て一人の大人の女性として僕の前に座っている。そして昨晩の西園も何処かへ行ってしまったのかもしれない。久しぶりと言って同窓会に顔を出した彼女は何処か不機嫌そうだったように記憶している。

 「確かに。私も声聞くまで全然気づかなかったもん。でも、声聞いたら『あれ?』みたいな。笑っちゃったもんあの時…」

 西園の細い指は空の珈琲カップのふちをなぞっている。

 どうしてか、柔らかな懐かしさが胸に浮かんだ。こんな風に西園と席を一緒にするのは初めてのはずだったのに。

 「お昼、食べよ。ここのランチ美味しんだよ。このお店、知り合いが経営しているんだけど、私は好きなんだ。」

 言われるがままに僕はテーブルに立てかけてあったメニューを開く。メニューには塾講師として生計を立てる僕にもその意を把握しかねるお洒落な横文字ばかりが並んでいた。西園が控えめに〈ランチメニュー〉と書かれた欄を「そこ」と指差してくれなかったら注文をするのにももっと時間が掛かっていたと思う。

 「私はもう決めてる。そのホットサンドのAセットが好きなの。」

 今度は僕が彼女の目を真っ直ぐ見据えて答えた。

 「じゃあ、俺もそれにするよ。」

 わかった、そう言った西園の小さな耳は来店時よりも少し紅潮したように見えた。

 そうして僕は思い出す。

 昨晩同様に灰色のスーツに身を包んだ彼女こそが僕の知っている西園 奏なのだ。例え十年という時が流れようと、きっと何らかの手がかりは残される。時間が経過することで失われる資質は多い。だが、小さな手がかりがきっと面影と呼ばれる形質として彼女を彼女として認識させる要因として機能しているのであろう。

 「ご注文お伺いします。」

 僕を迎えてくれた女の子とは違う、茶髪の女性が笑顔で席にやって来た。

 西園がAセット二つと右手でVサインを作りながら注文をする。じゃあお待ちください、そう愛想良くその店員はメニューを手にカウンターへと向かった。

 「でも、本当に昨日は飲み過ぎたと思う。ご迷惑をおかけしまして申し訳ない。」

 茶髪の店員が早速冷たい水を持って来る。

 「いや、本当に。私たちも二十五だよ。そこ等辺の大学生とは違うんだから…」

 水滴だらけのグラスを撫でながら西園が小さく笑う。

 「自分はそんな弱くはないって思ってたんだけどなぁ…ちょっとショックだよ。やっぱり空きっ腹にアルコールはダメだね。」

 僕は水滴だらけのコップの片割れを自身の方へと寄せた。

 「いや、本当に。」

 僕には分かっている。「西園、僕は君と交際した記憶がございません」と決死の告白を試みるのは決して得策と呼ぶ事は出来ないと。しかし、僕は彼女がいた、中学生の時の修学旅行を思い出していた。

 メインイベントである自由行動の日は、生憎の雨で、僕、一ノ瀬、滝野、西園、小林、南川という班だった。班長は一番真面目だった西園が引き受けてくれた。でも、西園は絶望的な方向音痴で京都タワーから平安神宮に行くまでに何故か一時間近くを要したのだ、電車で。最終的に〈出町柳〉とかいう駅からタクシーで行ったことを今でもよく覚えている。そして、

 「おーい。」

 西園の手が僕の視界の端から端へと行き来していた。

 「何ボーッとしてんの?」

 肘をついた西園は顔を傾げて僕へと声を投げる。

 「いや、懐かしいなって思って。」

 何が、と聞く西園に僕は一つ息を吸いて答えを吐く。修学旅行、と。

 「確かにねえ…確か善久は修学旅行の前に一回京都は行った事があったんだよね?」

 うん、八歳だか七歳だかの時に家族で一回行った。

 「私、あの時が初めての京都だったから本当、感動したなぁ…綺麗だったし。それに楽しかったなぁ…また行きたいなぁ。だって、あの時以来行ってないしね…でも、あの修学旅行の時は君が先導していればあんなに迷うことは無かったんじゃないの?」

 いや、お前。俺なんか家族に連れられてたんだし、土地勘なんかあるわけ無いだろ。無茶振りにも程があるぞ…

 西園は歯を見せると僕の記憶と変わらないあの表情になる。

 「この会話、前にもしたよね。修学旅行から帰ってきた後だっけ?」

 悪いけど、流石にそこまで自分の記憶力に自信は無いんだ。でも、こんな会話をしたことだけは今でも覚えてるよ。

 僕は安堵した。何とか、ここまでの僕の記憶は一貫性を持っているようだった。

 「家族ではどこに行ったって言ったっけ?」と西園は聞く。

 京都に行ったの西暦2000年の八月で、暑かった。もう十六年も経つけれど、その時のことはよく覚えてはいる。覚えてはいるけれど、

 「うーん、金閣寺は行ったような気がするけど、やっぱり曖昧なものだよ。」

 僕は西園に尋ねた。

 「俺たちはどこ行ったかとか、まだ覚えてる?」

 西園は細い指でカリカリと頬を掻きながらその視線を僕の右肩の上辺りに泳がせた。

 「確か…そう、清水寺に行って、いや、違うか。それは最終日だ。確か、そうだよ。京都駅から先ずは京都タワーに登って、そこだと確か他の班の人も一緒で…そう、お昼は一緒に食べたよね、近藤君達の班と!そこから、」

 そこからは知っている。

 「そこから班長様の指示に従って京都駅から一時間ほどの散策を楽しんだことはよく覚えてるけどね」

 西園が笑ったまま右手を振りかざし、机にのった左手を軽く叩く。

 「うるさいな、それはもういいでしょ。」

 もはや完全に熱を失ったカップをコースターの上でくるくると回しながら西園は笑う。

 「お待たせしました。」

 茶色のエプロンを着用した若い女性の店員が愛想よく笑いながらプレートを二枚持ってきた。白いプレートの上には簡単なサラダとキツネ色に焼けたトーストが二組湯気を立てながら鎮座している。正三角形型に二断されたその隙間からはベーコンと溶けたチーズが嗅覚を刺激した。

 食欲をそそるその光景に感嘆する僕を前に店員は「ごゆっくりどうぞ」という言葉と伝票を置いて去る。

 「美味しそうだな。普通に。」

 プレートを引き寄せ、そこからゆらゆらと漂う香りを堪能しながら西園は眉を上げる。

 「美味しいよ。普通に。」

 ふふん、と小さく鼻を鳴らしながらナイフとフォークを手に取る彼女には少女らしさが見えた。

 「でも知らなかったな。」

 西園は湯気が立つ正三角形からより小さな正三角形を作りながら言う。

 僕はそれに「何を」とプレート端に置い寄せられたサラダにフォークを切り込んだ。

 「いや、こっちに来てるっていうのと、塾で先生やっているって。」

 サラダは新鮮で、やたらと酢の匂いが鼻につく和風ドレッシングがかかっている。でも、その酢臭さとは対照的に、その味はあっさりとしていることに驚く。

 「まあ、一応大学で教職は取ったんだけどさ、就職先探してたら公立高校の非常勤と、今勤めてる塾の常勤講師の二つがあって、色々悩んだ末にその塾の方にしたってだけよ。待遇もそっちのが良かったしさ。」

 申し訳程度に添えられたサラダから遂に僕のフォークは本命であるホットサンド氏に標的を変更する。

 「そうなんだ……なんかさ…善久って授業、わかりにくそう。」

 所々に咀嚼する間をおきながら西園は会話を続けた。

 「わかりにくそうってお姉さん…そんなの面と向かって言われたのは初めてですよ。」

 いびつな正三角形を作りながら僕は笑う。それに応えるように西園もフォークを指に挟んだままの手を口に被せて軽く上を向いて小さく笑った。

 「だって、昨日もずっと難しい話してたもん。やれ存在論がどうだとか認識論がどうとかって。」

 そうだったろうか、記憶に無い。

 「まあ、でも何とかやっているよ。お陰様で。」

 そうですか、と二枚目のホットサンドに西園のナイフとフォークは標的を変えた。

 「でもさ、どうなの?男の人って若い子が好きっていうけどさ、塾の子と仲良くなったりするの?」

 ざくざくと耳障りの良い音を立てながらナイフがキツネ色のトーストにその刃を立てていく。

 「何を仰いますか…普通に犯罪ですよ。」

 心外である。

 「でもね、昨日なんか善久が潰れてから清水君が色々言ってたよ。「超羨ましい!」とか、「絶対エロいことしてる!」とか顔真っ赤にして寝てる善久のこと指差しながら。アホみたいに。」

 流石の僕の両手のナイフとフォークも三角形の作成作業を一旦中止した。

 「あのね、清水君の意見を我々男性陣を代表しているとは思わないでほしんだけど…」

 対する西園はホットサンドの咀嚼を中断することなく僕の目をじっと見た。

 ごくり、と彼女がホットサンドを消化に適切な形状へと変化させたモノを胃袋へと搬送する音が耳に届く。

 「まあ…清水君は仕方ないよね。」

 西園は肩を軽くすくめて冗談であることを表明した。

 「ご理解頂けたようで何よりです。」

 僕の両手は先ほど中断した作業を再開した。

 「で、さ。善久はさ、今付き合ってる人はいないの?」

 何故かカタカタと音を鳴らしながら何かを繕うように同じところを何度もナイフで切り取ろうとする西園は随分と子供らしい。その特質は大人らしいスーツに身をまとったその外見と好対照をなしていた。

 「うん。いないよ。」

 学生時代のような、中学生の、何も知らなかったあの頃を思い出す。

 「そうなんだ。私も、いないの。うん。」

 僕の答えを聞いた西園の手は再び作業を再開した。その両手には敏腕の現場監督が就任されたようで、随分な手際で先程までの二つの正三角形を更に小さな正三角形へと加工する作業にあたっている。

 それに、僕もそんな鈍感ではないし、そのような質問をする意図が分からないわけでは無いし、平静を装うのが難しいわけでは無いし、僕の両手も機械的に現在三個目の正三角形もどきの施工に取り掛かっていないわけではないし、

 「変なの。」

 西園の右手がナイフを持ったまま口元の辺りで浮つきながら彼女の白い歯がちらりと見えた。

 僕の中学の時の記憶が違うことは確かに大問題だ。

 どうにかしなくてはならないとは思う。

 思うけれど、こうして以前知っていた女性とこうして知り合うことが出来たのは素直に嬉しいと思う。そして、何よりもこうして思う気持ちが一方通行的なものではないことはとても嬉しい。

 「西園はさ、休みの日とかは何しているの?」

 思い切って僕は聞いてみた。すると彼女は小さな声で唸ると、

 「大抵映画とか見てるなぁ…あんまり外出しないんだ。旅行とかもしたいことはしたいんだけど。やっぱり周りの友達とかとも予定が合わなくてさ。」

 西園は左手のフォークで新たな三角形に歯を立て「善久は?」と聞いた。

 「俺も五十歩百歩だと思うよ…時々飲みに行ったりするのも結局西本くらいだし。お酒飲んでるだけでさ、実際は中学の時とそんな大して変わっていないような気もする。」

 僕も、西園に倣って遠慮なくフォークをホットサンドへと突き立てていく。

 「昔から仲良いよね。二人とも。」

 西園は最後の一つの大サイズの三角形大には手をつけず、店員の女性を呼びコーヒーを注文した。僕もそれに倣って食後のための一杯を注文した。

 「善久は結構休みはあるの?」

 最後の三角形に手を下した西園が聞いてきた。

 「そうだね、何だかんだで土曜は出勤することもあるけどさ、基本的にはカレンダー通りの休みだからね。」

 僕はグラスに手をかけて冷水を喉に流し込む。冷たい水が喉の通りをよくする感覚はいつも以上に気持ちがいい。

 「いいなぁ…私は結構不定期だからさぁ。でも、そろそろ有給取れって言われてるんだ。だからどうしようかなって。だから旅行とか行きたいなって。それこそ京都とか、ね。」

 西園がナイフとフォークを平行に白いプレートにカタリと置き、腕を伸ばす。

 「でもね、」

 僕が加工済みの小サイズの正三角形を口内へと搬送しようとしていた時、西園が声を上げた。

 「やっぱり善久、老けたよ。オジさんっぽくなってる、すっごく。」

 またか。

 「うるさいなぁ…仕方ないだろ、俺にどうにかできることじゃないんだから。」

 チーズがはみでたホットサンドの一部をフォークでぐさりと刺して僕はそれをせっせと口へと運ぶ。

 「でも、やっぱり宮岡さんとか、たっちゃん…あ、須藤さんね。あの子らが言ってたんだよ。」

 「何を」と、僕の口内では溶けたチーズが舌の上で未だに熱の残るハムと絡まりトーストが唾液で溶かされていく。

 「善久はオジさんになった方が格好良いって。」

 「趣味が宜しいことで。」意外と奴らもいい奴だったのかもしれない。

 「…お待たせしました。」

 湯気が立つ小さなコーヒーカップを二つ、先程の女性店員が持ってくる。西園が小さく会釈をすると、小さく「失礼します」と断った上で西園のプレートを持っていった。

 「でも、中学の時コソコソ生徒手帳に色々書いてたのは正直気持ち悪かったよ。他の女子の皆もちょっと怖がってたんだよ。アレ何一生懸命書いてたの?」

 つけてみると初めて分かる、額に当たる机の冷たさ。

 「アレは…忘れて。否、忘れて下さい…お願いします…」

 眼前の机へと急降下を決行した僕の頭の中には〈授業中にテロリストが襲ってきた際の脱出マニュアル〉〈高校に入ったら歌おうと思った世紀末風ポエム〉〈客観的に考えて、偶然とは思えない程の頻度で目があう女子の名前のイニシャルのリスト〉といった己の墓場まで持っていくと心に決めたあの生徒手帳に書かれた項目がフルマラソンを開始しており、その行進が引き起こす遠心力により頭を上げることも間々ならない。ちなみにその手帳は忘れもしない、高校一年生の夏に中学の学ランを貸してくれと自室に無遠慮に入って来た姉に捕捉されかけたことを機に、焼却処分した。

 「やっぱり、ロクなこと書いてなかったんだ!善久可笑しい!」

 茹で蛸顔負け同然の赤さを帯びた僕を西園はケタケタと指を指して大笑いする。

 「でもお前だってバレンタインの直前に図書館でレシピ探してたりしてたんだろ。」

 と、ジロリ。

 先程までの世界征服を目論む悪役のような笑いは何処へと。

 世の全てを見据えかねない程開かれた眼は随分と狭いものとなっており、餌を眼前にした蛇の如く雰囲気を帯びている。

 「…誰に聞いたの」

 社会人としての心得その一、力を持った者の指示は絶対であり、疑問の対象としては機能しない。

 「かの南川彩子でございます。」

 立場のシーソーが再び平行に近くなる。

 「アヤちゃんかぁ…あの子昔から口軽いもんね…」

 言い訳がましく窓の外を眺めながら後頭部を掻く西園は次の言葉を慎重に探しているように見えた。

 「懐かしいけど、やっぱり恥ずかしいね。」

 自分の紅潮が彼女の頬に伝播した様を見ることは決して悪いことじゃない、そう思った。

 「あのさ、」

 ここまでくれば彼女に全て言わせるわけにもいかない。

 「やり直さないか、俺たち。奏さえ良ければ。」

 沈黙。

 口が半開きのまま、手元の鞄に片手を突っ込んだ状態で固まった西園。

 「いや、私はとりあえずまた一緒にこうして会えないかって言おうとしたんだけど。」

 タイミングを完全に間違えたようだ。

 「これね、ウチのホテルに泊まったお客さんに貰ったんだ。例の、横暴なオジさんね。」

 その手には何かのチケット、映画か何かのチケットだろうか。 

 「なんか、好きなだけこき使ったの気掛かりだったみたいで、最後にこの京都の四条にあるホテルの宿泊券くれたの。」

 彼女の人指し指と中指の間に挟まった券は二枚。そして傾く左手のコーヒーカップ。

 「ただね、期間が今年の三月までなの。」

 つまり、有効期限の残りは一ヶ月程である。

 「そして、この券は幸いなことにシングルの部屋が二部屋です。」

 上品に置かれるコーヒーカップ。

 「どうする?」と、扇子のようにその二枚の券を口元に当てた西園の目が再び細くなる。答えは自明だろう。

 「もう一度、京都。ご一緒させて頂ければ僕は嬉しいです。」

 ここまでくればただのサービス問題だ。シングルという点がちょっとアレだけれど、いや、妥当だけれど、ここから西園と再び関係を構築し直せるなら文句は無い。否、これ程嬉しいことは無い。それに、きっと彼女が僕の記憶の齟齬を理解する手助けに…なるとは限らないけれど、いい。

 だって。

 「じゃあ、また計画立てなきゃね。」

 綺麗なままの券を手提げ鞄にしまいながら歯を見せる彼女はとても魅力的な女性に見える。

 「再来週の二月の最終週だけどさ、二連休あるし、善久の予定が合うならそこが良いな。」

 僕が勤める塾の生徒の大半は中学生、実際の受験は二月中旬の前期選抜と三月中旬の後期選抜に集中するが、二月、三月はとてつもなく忙しくなる時期でもある。俗に言う繁忙期というものであり、休みは難しいところだが、結局のところ

 「何とかするよ。」

 否、ここで引けば漢が廃る。

 適当な理由をでっち上げてでも休みを取る。

 これまでの約三年間一度として自主的に休みを取ることがなかった不肖谷口、我が上司に対して強硬手段を施工するのも吝かでは無い。だって、

 「そっか。じゃあ、大分急になっちゃったけど、それまでに打ち合わせも兼ねて最低でも一回はお茶しようね。」

 西園は何の歌か判別もできない鼻歌を歌いながら携帯の画面に指を走らせる。

 「私の番号、分かるよね?さっき電話したし…ほら、善久のは今登録した。名前の漢字、これであってるよね?」

 機嫌の良い笑みをその顔から消すことなく、西園は僕の方に彼女のスマートフォンの電話帳の画面を机越しに向ける。

 「あってるよ。」

 ちなみに、僕は西本に教えてもらった瞬間に登録した。

 「じゃあ、京都。楽しみにしてるね。」

 スマートフォンをロックするパチンという効果音を残して西園は僕の目を見た。

 「俺も、楽しみにしてる。」

 「じゃあ、私はそろそろ行かなきゃ。尊い賃労働のお時間です。」

 西園はポケットから小さな懐中時計を取り出してそう言う。

 「あれ、まだ腕時計つけてないんだ。」

 確か、修学旅行の時も班長の西園だけが何故か腕時計の着用を拒み、懐中時計を携帯していたことを覚えている。

 「うん。まだ苦手でさ。」

 言い訳の代わりに小さな笑い声をあげ、すたりと音もなく席から立ち上がった西園は右肩に鞄、左手に

 「ちょっと。今日はいいって。」

 僕は伝票を持った西園を止める。今日ばかりは、昨日の僕を看病してくれたお礼という意味もあったというのに、ここで昼食の一つも奢らなければ何をしに来たのか分からない。

 「ここでは私がもつので、京都で出してください。」

 そう笑った西園の顔は僕が知らないものだった。

 控えめに「じゃあ」と言った西園はするりと僕の視界を抜け、レジへと向かう。出口から歩き去っていく際にも、彼女はガラス越しに薄く優しい表情を浮かべたまま、消えていった。

 情けない程のあっけなさで、僕の経済力を示す機会は失われ、ただ西園の言動に惚けるだけの結果に終わった。情けない、実に情けない。鼻の下は全米が驚愕する程の伸縮性を見せており、そして何故か頭の中には中学の一年の時の担任であった佐々木先生が登山合宿前に熱弁していた「山では人が死ぬぞ!」という言葉が旋回していた。

 そして、僕の目前のコーヒーにはまだ熱が残っている。

 あの時出来なかったことをもう一度、やり直そうと思った。

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