その二 ($)
だいたいね、ガラじゃないんですよ、こんな仕事。
でもね、四年程かけて定時高校を卒業して、いつまでも布団に包まったまま自宅を警備し続けているわけにもいかなくなって、バイトをいくつか転々として、最終的には親戚の経営する私立探偵なんてもんの手伝いなんかさせられているわけなんですよ。
それに僕は元々事務の仕事で外に出ることは無いって、簡単なパソコン上の表計算だけだって言われたから某古本屋チェーンの仕事を断ってまで親戚の叔父さんが営む【塚本探偵事務所】に就職したんですよ。
それがどうです、今どこにいると思いますか?
高松のフェリー乗り場ですよ?
勘弁してほしいです、本当に。この寒い中、日にちが変わってからもわざわざ何が悲しくてこんなところにいるんでしょうかね、本当に。いや、本当に!
しかも、よりによって今日は明朝零時をもって我等がファン待望の神ゲーム『ラストニンジャV』が配信される記念すべき日であるのに!ちなみに『ラスト』って題名がついてる癖にシリーズとしては終わる気配が無いことは突っ込んじゃいけません、ええ、気にしたら負けなのですよ。
僕なんかほとんどの時間は事務所にいるんですけどね、今日の夕方あたりですかねぇ、叔父さんから電話があったんですよ。何せ久しぶりの浮気調査以外の仕事だぜって最近はもっぱら機嫌が良い塚本義道四十七歳独身バツイチがね、息荒げながら言ったんですよ、アホみたいに。
「笹塚を尾けろ」
って。
知るか、ってその時は言ってやりましたよ。そもそも契約書に記載されていない業務の依頼は、と論理的に話を進めようとしたところ怒鳴られそうになったので諦めました。ですが、これ以上うだうだ抜かすと次回の家族の集まりで不肖、野矢荘蔵の決して真面目とは言えない勤労態度をパワーポイントを用いて発表するとまで言われた日には僕はもう一人の人間ではありません、心無き上司からの指示をただただ執行するだけの哀しき機械と化すのですよ、そうですとも!社会は厳しいです。
そもそも、この笹塚さんっていうのがどなたかという点ですよね。
この方は我等が塚本義道四十七歳独身バツイチ氏作成の資料によれば「公安」とかいう機関の方だそうですよ。だって写真のところに矢印で公安って書いてあったんですもの。でも、それは資料と呼ぶよりメモ帳と呼んだ方が適切では無いかと思われるもので、文という文が見られず、「茂木?」や「太秦組」等の語が散乱していた妙な資料でした。ですが、誰かの尾行など一時的な業務にすぎません。笹塚氏の素性などとるに足らない詳細なのですよ。
そんな人が高松駅にいるからと、そう指示を受けた僕は…午後五時くらいでしょうか、高松駅近くのうどん屋さんで彼の姿を捕捉し、小休止も挟みつつ尾行を続けてきたのですよ。
ふう。
疲れました、こんな時はいつもの甘い缶コーヒーに限りますが、手中の缶には数十分前までは存在していた中身の液体と共にその温かさも何処かへ行ってしまったようです。
でも、件の笹塚氏は目立って怪しいところは無いように見えたのですよ。
だって、十七時五十分にうどん屋さんでご飯を食べてる時から一人でしたし、おでんの卵を二つも食べていたことくらいでしょうか。ちなみに時間差で入店した僕は冷やうどんの大とおでんの卵を三つに大根とちくわを一つづつ食べました。
その次には古本屋に行きました。古本屋と言っても僕に馴染みのある、漫画、CD、DVDや、大人のビデオなんかが置いてあるような古本屋じゃないです。何だか古めかしい活字本ばかりの古本屋さんですよ。もはや空間のある限り本を詰めすぎて外からでは店内の様子が伺えないような、凄いところです。笹塚氏は何やら本を一冊購入していたようでした。でも、僕だって結構本は読む方です。なんてたってレーベルに関係無くライトノベルだけは全巻制覇した作品は数知れず、我が部屋の本棚にて蒼然とその背表紙を存分に輝かせておりますとも。あと数十年もすればそんなライトノベル達も文学としての地位を欲しいがままにすることは自明の理と言えるのですよ。
すると次は、喫茶店です。まずは外から氏の動きを観察するのです。笹塚氏はメニューを指差しながら店員のお姉さんに注文をします。小さな間を空け、妙に愛想良く店員のお姉さんから商品を受け取ると、氏は窓際の席に腰を下ろし大凡、僕のような人間には理解しがたい行動にでたのですよ。
夕方の喫茶店、彼は先程の古本屋にて入手したと思われる活字本に手をかけ、剰え読書を始めやがったのですよ。
その時、僕は戦慄を覚えました。
喫茶店等という想像を絶する超絶お洒落な空間において、一人で書物にあたる者などという存在は僕に言わせるのであれば「一角獣」や「輝しき高校時代」といったような事実無根の完全に創作物の域に属する事象であったのですよ。こうして改めて見ると件の笹塚氏は随分なお洒落さんに見えてきました。だって、スーツっぽい背広みたいな上着まで着ている始末ですよ。どこの世紀の大怪盗の三世ですか、あの人は。只者ではありません。
ですが、ここで引いては漢が廃ります。男には戦いを挑まねばならぬ時が来ると死んだ父方のじいちゃんが言っていたような気がしないこともないのですよ。
僕は果敢にも戦場へと足を運びます。
自動で開く自動ドアが僕に語りかけます、男になれと。
「いらっしゃいませ!ご注文お伺い致します。」
綺麗なお姉さんが話しかけてきます。どうして喫茶店だとか、服屋さんだとか、美容院だとかのお姉さんは皆こう綺麗なのでしょうか。今日の僕は一味違います、深く息を吸い、口を開いた僕は、
「エ、エスッ、エスップレッソ…ホ…ホットで、」
やってやりましたよ…どうです、この手慣れた感じ。これなら店員のこのお姉さんも僕のことをお洒落民族の伝統を遵守する将来有望な戦士として見てくれるに違いません、ええ、そうですとも!お姉さんの優しい視線を感じながら僕は笹塚氏が観察できるよう壁際の席に座りました。そして僕は戦利品のコーヒーを試しに一口、
…超苦い。
誰だよ、ネットでエスプレッソは美味しいって書いたの。ガセじゃねえか、超苦いよ。いつもの缶コーヒーは甘くて美味しいのに…しかも、これで五百円以上ってどういうことなんですか。これを読んでいる諸氏は私の失敗から学ぶように。
泣きたくなってると、笹塚氏は本を閉じて腕時計と睨め合い、少し悩んだ風に携帯を取り出し画面を数秒程見つめると、足を組んで茶を呷ります。
何なんでしょうか、思春期でしょうか。
ですが件の笹塚氏は青い春をもう既に過ぎ、落ち着いた雰囲気が漂う御人であります。
あの苦さを再び味わいたくないという思いが僕の唇をこじんまりとしたマグカップから一定距離を取っていると、笹塚氏は何かを決心したように電話を掛けました。彼はきっとまた戻って来るつもりなのでしょう、本と緑茶のカップを机に置いたまま喫茶店の外の入口で通話をしていたのです。追いかけないのかって?それはあなた、いくら何でもプライバシーの観点からも出来るわけありません。氏が「ヘイ、ハニー。今日は帰り次第風呂やご飯よりも君が一番欲しいんだ、ベイビー」なんて会話を他人に聞いて欲しいとは思いません。僕なら絶対嫌ですよ。
いいタイミングです、今のうちにお手洗いを使わせてもらいましょう。
…しかし、この時の僕は知らなかったのですよ、己の甘さというものを。
机上には笹塚氏の残留品の本と緑茶のカップが主人の帰りを渋谷駅前のハチ公の如く待ち続けておりましたが、かの主人は暗い入口からその姿を完全に消しておりました。
店内を見渡しても氏の姿は見えません、完全に逃げ切られたようです。まさかとは思いますがバレたのでしょうか…
とりあえず僕は冷えた件のエス何とかを一気に飲み干すことによって自身の男らしさを十二分に発揮します。だって、やっぱり頼んだからには飲まないとあの綺麗なお姉さん方に申し訳ないじゃありませんか。 でも、不味い。超苦い。
目線を席に向けると本だけがぽつんと残されています。
数秒程悩んだ末、僕は氏が残した書籍を手に取り店を後にします。きっと叔父さんならそうします。
外の暗く、冷たい外気が首を刺激し、店内の暖房で汗ばんだTシャツを刺激します。外界は店内とはおおよそ別世界のようにも思えました。
もう一度、辺りを見渡します。
現在は二十一時四分、高松の夜はとても静かで、件の笹塚氏もその姿を僕に見せてはくれません。
一度深く息を吸うと肺いっぱいに冷たい空気が入り込み、上がった心拍数を抑えてくれます。氏の行方に検討はついておらず、僕に出来ることと言えばとても限られたものになるように思えます。僕の指はスマートフォン上の電話帳から、上司であり実母の弟でもある塚本義道氏のプロフィールを呼び出し、携帯へとダイアルするボタンを押しました。
きっと怒鳴られるのでしょう、そう覚悟しているとワンコールもせずに、
「どうした?」
平坦な声が聞こえます。
「あのぉ、実は、……すみません。」
とにかく先手必勝謝るのです。
「何が?」
察しろよ、馬鹿。
「笹塚氏を見失いました」
これで、次回の家族会からはいい笑い者です。義道叔父さんの促音が入った「ばっか」という語を待っていると、
「ん、何だ。そんなことか、大丈夫。想定の範囲内だ。十八時前からよく三時間近くももったもんだ。尾行のイロハも知らねえニート上がりのデブにしちゃあ上出来だろうよ。」
意外です。怒られませんでした。でも最後のは余計です、即時撤回を求め
「で、どう動いた?」
僕はうどん屋さん、古本屋、喫茶店という流れを説明しました。っていうかさっきのデブっていうのは明らかに誹謗中傷であって業務に一切の関係が見られないと思うのですが。苛立ちが蓄積します。それにこれは筋肉も付いてるのであって短絡的に贅肉が、
「うん…思うにその古本屋ってのが気になるが…その本って何か分かるか?」
左手の表紙に視線が移動します。
「ん…なんか表紙には『哲学探究』って書いてあります。」
僕にはさっぱりです。何せ専門外ですので、詳しい人がいれば解説をお願いしたい。
「ウィトゲンシュタインだな、後期の。…っていうか今手元にあんのか?変わったところとかあるか?」
いやぁ、僕には普通の本に見えますけど…
「まあ、いいや。本は手放すなよ、後で確認すっから。んで悪いんだが、ちょっと俺も今は手離せない。今から指定する場所に向かってくれ。遅かれ早かれ笹塚もそこに行く。場所は」
高松湾、フェリー乗り場。
神戸と香川県を結ぶフェリーが通っている。その利用客は観光客に限られず、運送会社に勤める大型トラックの運転手などの利用客も多いだ。でもねぇ、妙な時間にしか通ってないから不便なんだよ、安いのはいいんだけどねぇ。あ、ウチの息子も大阪から友達連れて来た時もフェリーで来たって言ってたなぁ、そういえば。
…だそうです。
そうタクシーの運転手のおじさんが教えてくれました。
人の良いおじさんの権化のような方でした。
そして現在時は十二時三十二分、例の『ラストニンジャV』のオンライン配信が開始して既に半刻、某匿名掲示板の実況中継にはもう間に合いません。でも良いのです。先ほどの電話にて義道叔父さんは今日の残業手当てはいつもより多めに出してくれると約束してくれました。
夜の高松湾は雰囲気がありました。
冷たい空気に長距離トラック運転手達の緊張した仕事振り、そして数人の学生。
どうも、少々全時代的な内装と煙草臭さが相補的な効果を発しているのかもしれません。僕は煙草を吸いませんが、匂いは嫌いではありません。義道叔父さんのヘビースモーカー振りにもそれ程嫌な思いをしたことは無いのです。
時刻表によればフェリーの出発は午前一時、つまり二十五時。残り三十分程でこの仕事も終わります。
気晴らしに待合室のスロットに百円をいれてみます。某アニメの動画が妙に煩い音楽と共に目の前で動きます。とてもつまらないです。何よりルールがよく分かりません。
出航三十分前にも関わらず、僕は件の笹塚氏の姿を見ていません。
義道叔父さんの話によれば、笹塚氏はここで何らかの荷物を届ける予定があるそうで、それを見届けて欲しいとのことでした。ですが、叔父さんも酷です。何せそれがどんな荷物で、どんな風に渡されるのか分からないってんだから…
僕は生温い待合室を出て、寒い外に出ます。高校生の時からの付き合いの藍色のダウンジャケットに片手を突っ込んだまま、本日五本目の缶コーヒーを購入します。僕のお気に入りは「大将」というレーベルのカフェオレですが、大抵の缶コーヒーは問題なく飲めます。 あんな苦いものをわざわざ高いお金を払って喫茶店で飲むようなお洒落民族の考えは僕にはよく理解できません。
小銭を、五十円硬貨を二つ、十円硬貨を三つ投入し「微糖」と書かれたパッケージ下のボタンを押すとトラックがやってきました。しかも荷台付きの格好いいやつではなくて、運転席だけの格好悪いやつです。
その格好悪いトラックの出来損ないは車両搬入口前に丁寧に止まると、助手席だけを開き、件の笹塚氏を吐き出します。トラックは何か急ぎの用でもあるのか、笹塚氏の降車を確認するとそそくさとその場を去ってしまいました。
当の笹塚氏は搬入口に佇む作業着の叔父さんに二、三何かを言うと叔父さんは手をフェリーに向けて笹塚氏を中へと誘導しました。変わったこととしては皮製の手提げのバッグを持っていたように見えました。
…今日もお疲れ様です!暖かいコーヒーは如何ですか?
自販機の懸命の宣伝が妙に聴き心地が良かったのが印象的でした。
兎にも角にも僕の今日の仕事は終わりです。十二時四十三分、お疲れ様でした。業務の終了を報告しようと書かれた携帯を取り出し、義道叔父さんに電話をかけます。
「おう。」
掛けたと思ったら出ていました。
「笹塚氏の行動、見届けましたよ。」
煙草をくわえたのか、んー、と叔父さん。
「なんか、フェリーに乗る直前には何か手提げのバッグ持ってて」
火がつかないのか、百円ライターをカチカチと鳴らす音が耳に入ります。
「それでそのまんまフェリーの中に入って行って、出てきません。多分このまま神戸にでも行くんじゃ無いんでしょうか?」
手の中の缶コーヒーが手の平を汗ばませる。
「待て。」
と塚本義道四十七歳独身バツイチ、
「笹塚は直接フェリーに乗ったのか?自分で荷物持ったまま?」
背後で紙の束をばさばさと弄る音、
「ええ、だからさっきからそう…」
言っているじゃ無いですか。
今度は深呼吸、義道叔父さんは考え事をする時は深呼吸をする。
「野矢荘蔵くん、」
今度はフルネーム、義道叔父さんはそう僕を呼ぶ時は業務命令を下す。
「引き続き、笹塚光一氏の尾行を続行せよ。」
嫌ですよ。
考えるより先に本音が出ました、そりゃもう。
今日だって九時出勤で、今一体何時だと思っているんですか。
「十二時四十五…六分?」
そういうことじゃなくてですね、
「荘ちゃん、お願い!」
こういう時だけ甥扱いですか、叔父さん。
「今回の時給、二十四時間換算にするから…」
当たり前です。
「残業代、ちょっと色付けるし、」
明日は僕、お休みを頂いていたように記憶しています、社長。
「休日手当て、時給二四時間換算、残業代付き…」
上司としては今まで聞いたことのない声をしておりました。
これ程までの好条件で働いたことはありませんが、これはチャンスです。来月には僕の一推しアニメである『九畳神話体系』のDVDボックスが発売され、その為の軍資金を稼げると言うのであれば、ここでラストニンジャVの実況中継を逃すという犠牲には目をつむりましょう。ええ、コラテラルダメージという類のものに該当するのですよ。
ですが、そうとなれば僕もいつまでもこんな所で遊んでいるわけにもいきません。残り十分も経たぬ内に笹塚氏を乗せたこのフェリーは出航してしまうのです。ギリギリにも程があるとは思いますが、僕は一言断ります。
「それでは叔父さん、出航が近いので一旦失礼します。また、乗り次第電話致します。」
僕は叔父さんの嗚咽のような返答を待たずしてディスプレイ上の赤い通話終了のマークのボタンを押します。現時刻は十二時四十八分三十二秒、急がなくてはなりません。僕は待合室へと走り出し、チケット売り場のオバさんにお前は居酒屋の客かと突っ込まれそうな頼み方をします。
…フェリー、神戸まで!
店員さん、生一つとでも言った方が様になるのかもしれないな、と思いつつ財布をジーンズのポケットから剥ぎ取り、千円札を三枚、カウンターに投げつけます。
「お兄さんねぇ、スロットやる暇があんなら、さっさとチケットくらい買っときな。」
ため息を吐きながらもその叔母さんは慣れた手つきで書類を引っ張り出しては判子を押すなどとても手際が良いです。片目に捉えた僕の千円札達を認めると音も無く手元へやり、左手で電卓を打ち、
「はい、神戸行き。お釣り、四百十円ね。」
無駄に良い手際に僕は感銘を受けました。もしかすると「四十秒で支度しな」のあの叔母さんよりも格好いいかもしれません。僕はありがとうと簡単に礼を言うとお釣りをポケットに放り込み、チケットを握りしめ搭乗ゲートへと走り出しました。
十二時五十二分二秒。
いくら何でもギリギリすぎますよ。
「ほら、お兄さん。もう少し」
フラップの階段の踊り場で一休みした僕を叱咤する従業員のお爺さん。事務業務従事者の体力を舐めるなよ…最後に全速力で走ったのはそれは数年前に卒業した高校で僕が三年生だった時のことです、前日に録画した深夜放映の某アニメの最終回が神回過ぎて、昼過ぎから一話から通して見直したあの時、十八時の始業時間に間に合うよう全速力で自宅から疾走したあの日、いや本当に死ぬかと
「ほら、フェリー行っちゃうよ!」
ダミ声のお爺さんが急かします。そんなこと言っても…
「お兄さん、チケット!」
お兄さんはチケットではないし、日頃の運動不足が功をなしたのか、「事務職を舐めるなあああ」と叫びたくなる程に心拍数が上がっていて、でも実際そんな余裕はどこを探しても無くて死にそうです。大体フラップ乗り場にはエスカレーターなりエレベーターなりを用意するのが筋ではないのですか…
「はい、じゃあ客室は上ね。」
肩を揺らしながら半券を受け取るとお爺さんは妙に生暖かい視線を送っていました。
額に流れる汗を拭いながら僕は尋ねる。
「何か?」
「ああ、うん…お兄さん、もうちょっと体力つけなきゃ。若いんだから。」
深夜とは思えない遠慮のなさで豪快にお爺さんは笑います。ですが、その豪快さは何かわざとらしさが漂う妙なものです。「運動くらいしろ、デブ」とか思われているのかもしれません。痩せよう。うん、僕、明日から頑張るもん。
僕はお爺さんに促されるがままにフェリーの階段を登ります。処女航海にて巨大な氷山に追突した結果多大な犠牲者を生んだ某豪華客船を題材にした例の映画で見たような豪華さを真似しましたと言いたげな安っぽいインテリアが僕を迎え入れます。視線の上には「3階和室」の案内板があり、僕は「2階前方洋室」の看板を無視します。日本男児たるものやはり和室でないと…
「和室って聞いたんでよく分からないけど畳を敷きました!」という職人さん達の報告が聞こえてきそうな、だだっ広い「和室」モドキの入り口から周りを見渡すと笹塚氏らしき人物は見当たりません。視界に入ってくるのはトラックの運転手らしきオジさんや、人生の夏休みの真っ最中であろう学生の姿のみです。流石にこんなど平日にフェリーに乗ろうとする人はある程度限られてきます。一安心です。僕はダウンジャケットを壁際に放り投げて深呼吸します。アナウンスが出港を告げ、背中が控えめに壁に押しつけられます。エンジンが低くタービンの回転を推進力に変換する音が耳に遠慮なしに入ってきます。
愛しの我が家が遠ざかる音です。
一度、胸を膨らませて深呼吸をします。
お馴染のスマートフォンをズボンのポケットから抜き出して着信履歴から叔父さんの名前をタップします。すると、ワンコールの音もしない内に、
「おう、乗ったか?和室か、洋室か?」
いつもの仏頂面が浮かんできそうな口調です。
「乗りました。和室です。っていうか洋室ってあるですか、このフェリー?」
んー、とやる気のなさそうな返事が返ってきます。僕の質問に答える気はなさそうです。
「でも、笹塚氏の姿が見えません。」
この世には〈報連相〉というものが存在すると聞いたことがありますが、僕は思うのです、この連絡は報告なのでしょうか、それとも相談になるのでしょうか。
「まあ、奴さんもそう馬鹿じゃない。そもそもお前が尾けているのもバレてるだろうな。」
「バレてるって叔父さん…」
どういうつもりですか。
「笹塚は多分神戸からまた移動する。それにお前も逆に監視されているんじゃねえのかな…お前に直接的な危害を加えることはないだろうけど」
耳の奥で心臓の音が鳴ったと同時に毛穴から汗が吹き出ます。
「なんでそんな事が言えるんですか?」
「…笹塚は俺にマークされていることを知っている。奴さんは俺の依頼主に興味がある。だから見逃されているっていう言い方の方が的確なんだろうな…でも、逆に「見逃されている」と俺達に思わせてわざと尾行を振り切らないっていう状況なのかもしれん。」
溜息、そして考えます。
これは本日何回目の溜息なんでしょうか。
「とにかくだ、心配なのは分かるが今はそのまま大人しく神戸まで行ってくれ。笹塚はそこらのチンピラとは違うし、お前のような一般人を見つけても手は出したりしない。奴さんは少なくとも馬鹿じゃない。船上で見かけることはないだろうが…一応探してみてくれ。ただまあ、気をつけてな。」
深呼吸、そして考えます。
これは本日何回目の深呼吸なんでしょうか。
「分かりました。」
本当は分かっていません。
でも、ここまで来れば叔父さんを信じる他にどうしろと言うのですか。
「何かあれば連絡してくれ。俺も神戸に向かうからな、朝に落ち合おう。着いたら一回電話くれ。」
これが、最後の通信になるのでしょうか。
これから約五時間、無事に過ごせるかどうかがポイントです。
深呼吸、そして溜息。
「叔父さんも無茶な人だ…」
でも、こんな経験誰もができるわけではありません。
引きこもりがちな僕には良い刺激になるでしょう。それに、義道叔父さんは根はとても真面目なのです。口も悪いし、ヘビースモーカーで年中タバコ臭いし(いや、本当に僕は構わないんですけどね)、酒飲みだしでパッと見は少々悪いかもしれません。でも、お金や安全といった基本的な要項に関してはふざけたりはしない人だと僕は知っているのです。
それにフェリーなんかに乗る機会もなかなか無いのです。それに僕は思うのです、これはアニメなんかでよくある「物憂げにフェリーの柵にもたれ掛かるハードボイルドな主人公」の図を楽しむ絶好のチャンスではありませんか。
そう思い、僕は長年連れ添った紺のダウンジャケットに再び腕を通しました。一体これまで何人の手垢が擦りつけられたのかを考察したくなるような銀色のドアノブに僕は手を伸ばします。風圧のせいで少し開けづらくなっているドアを開けると、そこには百万ドルの夜景という異名を持つ高松港の景色が見えるわけもありません。
残念なことに夜景としてはそんな大したものは見れません。精々見えるのは高松港に停車している大型トラックが仕事を遂行する影や型落ちのスロットと古臭い自販機しか置いてない待合室の光だけです。
ただ夜の海というものがどれだけ光を吸収し、その潮の匂いと音だけを残して沖の光を遠ざけるかなどということは、それまでの僕は知ることはありませんでした。
確かにアニメではこういう場面では良い感じに風が吹いて、主人公は物憂げな視線を水面に投げかけるのが定石でしょう。でもね、現実はそんなに甘くない。風は超強くて、僕の前髪はこれまでに無いほどの角度で逆立っており、物憂げな視線を投げようにも物憂げる要素は僕の人生にはまだ存在していません。
「うまくいかないよなぁ…」
少しだけ、笑えてきました。
そして僕は考えます。
件の笹塚氏とは一体何者なのでしょうか。
結局聞く事ができませんでした。
一応ながら彼を尾行して、わかったことと言えば彼の読書の趣味が難解な学術書であること。
そんなものです。
義道叔父さんはあの本に意味があると言いました。
ですが、僕にどうやってそれを判断しろというのでしょうか。
僕の母は「前を見ながら点を結ぶことは出来ない。それをするには後ろを向くしかない。」と如何にも意識が高い格言を一度僕にドヤ顔で言ったことがあります。意識高い系人類御用達の某コンピュータ会社の亡き社長が言った言葉らしいのですが。正直あの時はちょっと引きました。
ただ僕は思います。
僕の今日の行為はどんな線を描くのでしょうか。
今の時点では何も分かりません。
きっと叔父さんが神戸で教えてくれると信じる他ありません。
僕はもう一度冷ややかな外気を鼻から肺へと流し込みました。
そして、それを身体の温度に変換して口からゆっくりと吐き出します。
このフェリーに乗って僕は神戸に行きます。
神戸に着けば僕の業務は晴れて終了となり、休日へと突入します。
首を捻るとバキバキと物凄い音で鳴ります。ダウンジャケットの下に着たシャツには汗が染み込んでいて、今すぐ着替えたい欲求に駆られます。これもあと少しの辛抱です。
僕は自分の客室のドアに手をかけました。
和室の角に良い感じの空きのスペースがあります。コンセントも近いし、既に空腹を訴えて久しい僕のスマートフォンにも、寄りかかれるという点も好印象です。僕は乾いた生温い客室に再び舞い戻り、靴を下駄箱に突っ込み目標のスポットへと邁進します。
何となしにもう一度周りを見渡してみます。
トラックの運転手らしき禿頭のオジさんや、人生の夏休みの真っ最中であろう大学生の姿。先ほどと何も変わりません。幸か不幸か笹塚氏の姿は見えません。良い機会です。僕も疲れました。少し壁に寄りかかって休ませて頂きます。ジップ式のポケットからスマートフォン用の充電器を取り出しながら僕は重力に逆らうことなく腰を下ろしました。今日は特に重力が強いようです。上半身の筋肉が挙って地球の中心を目掛けて運動しているようにも感じます。
興奮からか、随分と僕も疲れていたようでした。
気付きませんでした。
充電器を差し込んだ携帯が一振るいします。
僕も一休みしなくてはなりません。
ちょっとだけです、数十分だけ休んだら笹塚氏を探しに行くのです。
本当です。
◯
せめて、言い訳だけでもさせて下さいね。
フラグびんびんに立てていたとかも言わないで下さいね。
分かってますよ。
でも、本当になるはずだったんです。
いやいや、本当ですよ。
はっきりしない意識の中でも理解できることが幾つかあります。
まず、外が明るいこと、身体が直角に曲がったまま右に倒れていて右頬に畳を感じること、シャツと靴下は昨晩よりも汗が染み込んで不快度が増していてとてつもなく風呂に入りたい気分にさせていること、それにどうしようも無く趣味の悪いBGMがスピーカーから大音量で流れていること。
大体ね、目を覚ましたら朝っていうのがベタ過ぎます。近年の視聴者は目が肥えてますからね、こんなベタな展開じゃ付いて来ないですよ。敢えてベタな展開を狙うっていうのもシナリオ的にはアリなのかもしれませんね、ほら敢えて狙うみたいな。パロディーという名のパクリ、パクリと書いてリスペクトとインスパイアドと読みます。
もう一度だけ深呼吸します。
少しだけ休もうと思って、携帯を充電器に繋いで目を閉じました。
そして、目を開けると外界は朝でした。
ここまでは良いんですよ。寝てたことは言わずに義道叔父さんには「笹塚氏は見つけられなかった」と伝えればいいだけです。そして僕は帰りのフェリーへと乗り込むのです。パーフェクトなプランですよ。
ただね。
ただね、僕の左腕には手錠が嵌っていて、その片割れには妙齢の女性の右腕が結束されている今の状況はどのように理解したら良いのでしょうか。
その女性はポニーテールというのでしょうか、長い髪の大部分を後頭部の辺りで一括りにしています。細やかな眉の下に佇む目は鋭く、僕と同様の東洋人とは思い難いほど鼻が高いのが印象的です。少し色素の薄い唇はかの「へのへのもへ」氏のそれの如く、それはそれは固く閉ざされております。
最悪なウェイクアップBGMに不満気な禿頭のトラックの運転手の顔を彼女は無表情に見据えて、ベージュのコートの下に見える黒色のシャツ越しの豊満な胸をゆっくりと上下させながら事務的に呼吸運動を続けます。下に履いているジーンズも普通の、どこにでもあるようなものです。「怪しくない格好」というものを人にさせればこうなるといった教科書的な胡散臭さまで感じてきます。
さて、はて、僕の頭の中には中学の英語の授業で疑問文を書く際は決して忘れるなと釘を刺され続けた彼の記号が果てしない自己増殖を施行中です。「お酒の飲み過ぎで朝目覚めるとベッドの隣に裸の知らない女性が!」的なベタなアレを彷彿とさせますが生憎、昨晩お酒は一滴も飲んでいないし、僕はベッドよりも庶民的な煎餅布団の方が好きであることはもはや野矢家の常識であるとも言えるのですが、
「………」
三点リーダー三つ分くらいの無表情さで件のポニーテール(以下ポニーさん)の目が僕を捉えます。
せめてもの礼儀として上半身を起こし、壁際に寄り掛かったままポニーさんと座ります。座りますが、まだ意識が冴えません。これは寝起きだからというわけではないと思います。きっとそうです。
いや、何でしょうか、これは。
本当に、何でしょうか、これは。
「おはよう。」
静かで耳通りの良い声が無駄に大音量で不快な船内BGMをかき消します。
「…おはようございます。」
噛まずに言えました。
母以外の女性と挨拶をするのは何時振りでしょうか。
「…着いたみたいだけど。」
ポニーさんが言います。
意味が分かりません。
口を幾ら動かしても自分の声は耳に入りません。
「…とりあえず降りなきゃ船の人に怒られるよ。」
ポニーさんはベージュのコートの前のボタンを二つ掛けて手提げの皮のバッグを膝の上に移動させます。そして、僕に淡白な目を投げたまま動きを求めます。年上なのでしょうか、タメ口でも生意気さを感じさせません。小学校の時の、図書館の今井先生を思い出します。
「そ、そうですよね…」
僕は初めに、携帯を充電器ごとコンセントから引き抜きます。いつもは何とも思わない充電ケーブルを取るのが煩わしくて、妙な焦りで頭の毛が一本づつ逆立っていくのを感じます。また、汗もでてきます。これは暑さなんかじゃない、別の何かです。
「じゃ、じゃあ行きましょう。」
片手で充電ケーブルがついたままの携帯をダウンジャケットの右ポケットに突っ込みます。左のポケットからは件の『哲学探究』が突き出ています、右手でズボンのポケットを叩いて確認します。いつも通り右ポケットには中学の時から使っている死んだお爺ちゃんに修学旅行へ行く直前に譲り受けた皮の財布、左ポケットには我が家の鍵と共にリサイクルショップ《ウエダ》にて破格の九千八百円(税込)で購入した、サンダーストラック (thunderstruck) 号(命名は僕)の鍵がカラビナに小学生の時帰り道で拾ったイルカの金属のキーホルダーと共に在中しております。間違いありません。ポケットの中身は僕が目を閉じる前の時と同じです。確かに、これらはいつも僕が愛用している物で、それに関わる記憶も確かに思い出せます。普通はそうですよ。だってこの靴だって、高松駅の近くのお洒落なお店の前に特価ワゴンに入ってたのを買ったもの。
「…私の靴あっち。」
僕がスニーカーを片腕だけで履くのを認めたポニーさんは細い指を反対岸の下駄箱に向かって差します。確かに、該当の下駄箱には真っ黒な小振りなブーツが礼儀正しく鎮座しております。
「あ…す、すみません。とりあえずそっち行きましょう…」
実はまだ踵がちゃんと入っていません。でも、何だか気恥ずかしくて言い辛いです。
うん、と言ったのでしょうか…随分と静かな方のようです。僕なんかと違って落ち着いていて、滑らかに歩いていきます。足音すら聞こえません。
「モデルさんですか…?」
聞いてみます。
「…違うけど。」
…違うそうです。誰ですか、モデルとか言ったの。どんな褒め言葉ですか。いや、こういうのを口説くっていうんでしょうか、女の人とお付き合いしたことなんか一度も無いから分かりません。でも、いや、僕はこの人のこと何も知らないし。
ポニーさんは靴べらを手に取ると器用に左手を使って足を踝の辺りまで皮のブーツを滑らせます。随分と年季が入った靴で、実家の下駄箱に突っ込んである僕の革靴とは大違いでとっても柔らかくて履き心地が良さそうです。
「やっぱり片手だと難しいね…」
ポニーさんが呟きます。
「あの、必要なら両手使ってもらっても…」
僕が提案します。
「ありがとう。」
僕は彼女の両手が使えるように、畳の上に座ります。するとポニーさんは静かに礼のつもりか、小さくうなずきます。優しい香りが漂っているような気がします。失礼のないように握りっぱなしの左手が当たる彼女の腕は僕には何か作り物のようにも思えます。
「君は…いいの?」
座ったままポニーさんは軽く踵で床を蹴って足を完全に入れます。確かに、右の靴の入りが中途半端といえばそうなのだけど。
「大丈夫です。」
そう、と反応する彼女の目は澄んでいるというには純真さが見えなくて、単に綺麗だと呼ぶにはあまりに込み入った複雑な何かを内包しているように見えました。
じゃあ、と言って彼女は立ち上がろうとする。それに倣って僕も立ち上がる。清掃のおばちゃんが迷惑そうな顔をして雑巾を手に握りしめたまま、こちらを薄目で睨みつけていました。そして、目的地到着を知らせるあの悪趣味なBGMも性懲りも無く流れ続けていたことに初めて気付きました。
ポニーさんは何も言わずに僕についてきます。
僕はそれが気掛かりで、先に行っては申し訳無いと振り向く度に不思議な顔をしました。和室を抜けた階段では掃除の為乗り込んだと思われる作業服姿の叔父さんは妙な笑みを投げかけます。僕は今まで注目されることが無い人生を送ってきました。映画とかなら多分、すぐに敵の圧倒的な戦力に倒れる犠牲者の有象無象の一人です。そんな大層な人間じゃ無いです。中学を出た時も、時間が欲しいとか何とか理由をこじつけて、大した努力もすること無しに他の学校を選ぶことなく定時制の高校を選びました。本当は違うんです。
人と向き合うのが怖いんです。
僕があの時、別の高校を受けようと真面目に受験しようとすれば、それの準備の為に様々な人と向き合うことになります。きっとそんな人達は優しげに、僕を手助けしてくれるのでしょう。でも、本当は彼らはどう思っているかなんて分かりません。迷惑に違い無いんですよ。だって、現に、ポニーさんだって、
「…だいじょうぶ?」
どうなんでしょう、僕は大丈夫なのでしょうか。
フラップの途中でもう一度ポニーさんの顔を覗くと、彼女は静かに僕の汗だらけの顔を見ています。こんな至近距離で女の人を見るなんて初めてのことです。彼女の髪は艶があって、とても柔らかそうで、僕が仮に同じ長さまで髪を伸ばしても同じ状態になるとは思えません。
結論を言います。
僕は絶対に、全然、大丈夫じゃないです。
僕の左手の甲は先ほどからポニーさんの右手の甲と当たっていて、当たる度に握った手のひらから汗がいちいち吹き出ます。しっかりと長年連れ添ったダウンジャケットを着ているのに胸のあたりの風通しがやたらと良いです。
だって、いや、考えるべきではありません。今はこんなフラップじゃなくて、地上に降り立つことが最優先事項として挙げられます。
「ごめん、」
振り返る僕、迎え撃つ「しーん」という効果音が聞こえてきそうなポニーさん。
「お腹空いた…」
ポニーさんは恥ずかしいのか、目を逸らしてフラップカーの外、不愛想な神戸湾の駐車場へと視線を投げます。そして、僕は思い出します。ネットで読みました。女の人とうまく話すには否定せず、常に肯定せよと。時は満ちました。
「僕も、お腹空きました。」
ポニーさんは少しだけ首を傾げ、目を凝らさねば見えない程ですが、確かに唇の両端を上昇させたように見えます。彼女の鼻から聞こえた気流音は笑ったという意思表示のものなのでしょう。
でも、どうしましょう。こんな時は僕は彼女をどこへ連れて行けば良いのでしょうか。イタリアンでしょうか、フレンチでしょうか、中華でしょうか、いや、というかそんなものを食べられるだけの余裕が僕の財布にあるのでしょうか、いやでも、やはりここは彼女の希望を聞いた上でですね、ああ、でもネットだとこういう時は男の人がリードしてあげなくちゃならないと読んだ気がします。
ちなみにこの間、数秒も経っておりません。
僕の脳が今までに無い程の速度で計算を行っていることが容易に分かります。何といっても不肖、野矢の人生の一大事であります。これほどまでの効率を義務教育時代に発揮できていたらと浮上してくる後悔を胸の奥底へとフルスイングで蹴り返します。
そして口を開けると、
声が出ません。
僕の声帯の代わりにダウンジャケットの右ポケットが振動しています。この音は高性能の携帯電子端末とその充電用ケーブル同士が擦れ合うことで発生します。通常この高性能携帯電子端末はスマートフォンと呼ばれ、フォン (phone) とその名が自らを語るように、ある一つの機能を持ったものなのです。
その機能とは、
「もしもし」
言うまでもないのでしょう、通話機能です。
「荘ちゃん、もうフェリーが神戸湾に着いて半刻は過ぎようとしているのだけれど。」
半分ほど忘れかけていた声です。
きっと、すでにこの半刻の内で数本の煙草を消費したのでしょう、面倒臭いと言わんばかりのタレ目とヤニ臭い吐息が聞こえてきます。
「まさかとは思うけど、実はフェリーに乗ってなくて今は高松の自室で寝てるとか言わないよねぇ…」
本気で疑っているようです。
でも、僕は聞かなくてはなりません。
「義道叔父さん。」
目を腕へと落とします。
「何か、手錠を外せる工具とか、物って車につんでますか?」
○
僕の姿を認めた叔父さんは笑顔のまま、何も言わず、男として一回りも二回りも成長した僕に最大の敬意を払うよう大きく振りかぶった鉄拳を頭へと浴びせました。
ここまでで説明の機会は一切与えられていません。こんな世の中間違っている。
義道叔父さんはお気に入りの汚いドブネズミのような灰色のコートを着ていて、髪の毛はいつものようにぼさぼさな癖に髭だけは綺麗に剃ってあるのが妙でした。そして、叔父さんはまたコートの下のよれよれの緑色のシャツの胸ポケットから開けたばかりのラッキーストライクのボックスを取り出します。
?
おかしいです。
いつもはソフトパッケージの方が旨いんだとか訳の分からないことを言ってボックスパッケージを毛嫌いしている義道叔父さんのシャツからボックスパッケージのラッキーストライクが出てくるなんて、妙なことは続くものなのでしょうか。
「ソフトが売り切れだったの。」
唇に煙草を咥えたまま、右手で安っぽい百円ライターをくるくると弄びながら薄目で僕に言い訳がましく弁明します。
叔父さんは慣れた手つきで、いつものように煙草に火をつけ、紫煙をゆるりと漂わせます。そして、もう一口をゆっくりと吸い込み、口を閉じて鼻から紫煙をくぐらせます。そして左手でうなじの辺りをがしがしと掻いて言うのです。
「色々聞きたいことはあるけれど…」
叔父さんの目は僕の左肩の少し後ろの方へと移り、
「お姉さん、あんた、誰…?」
そうですよ、僕も知りたい。
ポニーさん、僕はあなたを何と呼べばいいんですか?
「平坂…平坂 直子。」
ポニーさん、改め平坂さんは小さな深呼吸のあとに、世界一有名なあのイギリスの諜報部員のような口調で、一気にその名を僕に語りました。ならば、僕も、
「野矢…野矢 荘蔵、です。」
平坂さんの目に不安のようなものは見えません。でも、ここからは僕の仕事でしょう。
「何が食べたいですか…?」
現時刻は朝の五時五十二分三十三秒、場所は神戸湾、フェリー乗り場の駐車場。