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その一 (#)

 一コマだけだから。

 本当に申し訳ない、終わったらすぐ帰っていいから。


 電話越しに腰の低い上司の吉野の声を聞いたのが大体数時間程前に溯る。

 今の僕は黒板横の壁に持たれながら授業を受ける生徒を見渡していた。

 授業の相手は僕よりも十歳近く年下の中学生二年生で、そんな中僕は十八番の英語の講義を行っている。この土曜日は休日のはずなのに。

 だが、仕方ない。

 文句も言わない。

 僕はもう二十五になる。いい大人だ。いい大人は文句を言わない。

 大人なんてロクなもんじゃないけれどな、そう空席が目立つ教室をゆっくりと歩く。

 生徒が必死になって問題を解く姿は微笑ましい。

 幸いにも、今僕が代理として進めているこの授業は比較的レベルが低いクラスで、問題児も少ない。

 本来の担当講師はバイトの坂下君だが、突如のインフルエンザウイルスによる奇襲に、なす術もなく倒れたそうだ。真面目な彼のことだから嘘ではないのだと思う。その証拠にその授業の準備は前回の段階で完璧に整っており、代理の僕としても、その準備された教材を追いかけるだけのとても楽なものだった。


 だがしかし、偶然というものは本当に存在するのだと実感する。

 端を発する連絡は皆様お馴染みのSNS上のメッセンジャーで、中学の時からの友人で、今でも時折一緒に飲みに行く、西本からだった。

 久しぶりに中学の時の面子で同窓会をするから、お前も来い。

 そこで指定されたのが今日の十九時に駅前のコンビニ。

 現時刻は十九時四分二十四秒、場所は駅前の大手予備校の教室。


 僕が何故、集合場所とは異なる空間において、坂下君の授業を代理で進めているのは次のような事情による。

 バイト(1)の坂下君は前述のように悪のインフルエンザウイルスの魔手にかかり欠席。

 バイト(2)の宮島夫人はご子息が坂下君同様に件のウイルスの奇襲の餌食となったそうで、その看病により欠席。

 バイト(3)の内藤氏は去年定年退職された頑強な肉体を持つ元高校教諭で、経験だけでなく生徒からの人気も言うことはないが、非常に残念なことに外来語だけは苦手なのだ。

 バイト(4)以降は欠番。新たな志願者を求む。連絡先は …って、いや、今はこんな話はいい。

 とにかくだ、こんな緊急事態においては僕の上司の吉野氏がバイト(1)の代理を務めるべきだが、何を隠そう、彼も数日前から喉の調子がおもしろくない。個別授業ならともかく、元から声が小さい彼の喉が不調とあれば集団授業開始の挨拶を一体何人の生徒が聞き取れるというのだろうか。そこで最後の手段、正社員と書いてリーサルウエポンと読む、私、谷口善久の登場である。

 そんなに格好の良いものではない… だが、曲がりなりにも普段から世話になっている会社だ。こんな緊急事態を僕のような人物が支えずに誰が支えるというのか。

 同窓会に定刻から参加できないのは残念だが、事情が事情だ。

 僕が昔通っていた市立中学校に在籍する浅羽君が頭をがしがしと掻きながら現在形三人称単数と不規則変化動詞の過去形と格闘する。十年前であれば僕が彼の席に座り、同様の反応をしていたことであろう。

 どこにでもある、平凡な市立中学校だった。

 残念なことに、大した思い出はない。

 超自然的な力を持った生徒も、異常に厳しい先生も、そんなものは存在すらしなかった。

 初めて彼女ができたのも高校生の時で、そう浮ついた話も無かった。バレンタインデーに同じクラスの子からチョコレートを貰ったが、それもビビってちゃんとした返事をすることが出来なかった。何て名前だったけ、あの子。

 ひたむきなまでに未熟だったことだけは覚えている。

 精神的にも、肉体的にも。

 今となって振り返れば耳を塞ぎたくなるようなことばかりしていた気がする。

 当時はそんな未熟さが当然で、子供らしさが敵視され、何に興味を持つかが自分の教室内の地位を確立した。「大人らしさ」だけが絶対的な評価基準だったように記憶している。

 持参のストップウォッチが制限時間の十分が経過したことを主張する。

 教室の奥から教壇へと舞い戻った僕は黒板に問題番号を書いていった。

 …よし、それでは何人かに前に出てやってもらおうと思う。浅羽君は二番、岡本さんは三番、柿崎さんは四番をお願いします。分からなかったら僕に聞いてください。

 英語が苦手なのは分かるが、悪く思わないでくれ浅羽君。そう思いつつ彼に一瞥をくれると、岡本さんが不安そうな顔で自分の回答を見せてきた。しっかり正解を答えているが不安な顔は隠すことができないようだ。合っているよ、と言うと大した感動も見せずそそくさと黒板へ向かう。

 不安さを隠すこともなく、手元のノートを何回も凝視しながら一文字一文字を各々が辿々しく英字を黒板に書いていった。その不慣れな筆跡は英字を書きなれた僕には少々煩わしく感じてしまう。

 大学を出て、早くも三年が経っている。大学では教職過程を取ったものの、良い就職口が見つからず、右往左往した後に、こうして故郷の予備校に講師としての職を得た。それに、時代が時代だ。そんな身辺情報はSNSを媒介として一瞬にして電脳世界に発信される。だが、そんな文明の利器のお陰で今夜の同窓会の機会があたえられた。感謝するべきなのかもしれない。

 解答をした生徒が自分の席に戻っていく。黒板に間違いは見えない。これに簡単な解説を加えて授業は終わる。時刻は十九時十八分三十二秒、あと十分もしない内にこの仕事から解放され、僕は十年来の級友と再び邂逅する。

 …皆さん、ありがとうございます。皆、よくできていますよ。特に、ここの動詞の study が主語に合わせてきちんと studies という形になっているのがいいですね。

 何だか緊張してきた。喉が乾く。鼓動が早くなり、早口になる。頭に浮かぶ言葉を口だけが焦って紡ぎだしているような気がする。噛みそう。

 「それでは、皆さん。何か質問はありますか?」

 そう、教壇から生徒に尋ねる。皆、自分は一仕事終えたんだという表情を見せる。まあ、こんなものだろう。

 「特に質問がなければこれで授業は終わりにします。宿題としては、今日進めた単元十二のB問題と、次の単元十三のA問題をやってきてください。それでは、次の内藤先生の数学の授業も頑張ってください。お疲れ様でした。」

 …ありがとうございましたぁ。

 そう、気怠げな礼をすると数人の生徒はすぐに廊下に出て行く。やることはやったんだ、文句を言うこともないさ。僕は坂下君の指定した問題集と一緒に、日誌を纏め、もう一度教室を見渡す。

 大丈夫。質問がありそうな生徒はいない。

 十九時二十五分、授業の終わりを告げる鐘がなった。

 また一段と教室内の空気が弛緩する。もう、教師の入る余地はない。

 僕は静かに教室の扉を開け、階段へと向かう。四階から三階の講師控え室までの階段に人の気配はない。先ほどまでの静かな喧騒が嘘のように感じられた。だが、当たり前だ。この集団授業は次の内藤氏による数学とセットで、どちらかの教科だけを受けるという生徒はいない。

 薄暗い階段から明るい三階の広間にでる。三回はさながらケチな食堂のようなカウンターがあり、ちょうどキッチンにあたる場所に幾つかの机が置いてある。

 「谷口先生、お疲れ様です。」

 内藤氏だ。

 「内藤先生、お疲れ様です。次の授業、よろしくお願いします。」

 内藤氏は「任せてください」と愛想の良い返事をして、教材を手にまとめ、僕とは正反対に薄暗い階段へと向かって行った。僕はカウンターから控え室の中へと足を進め、日誌に手をつけた。

 進めた内容、授業の様子、理解度、宿題といった項目をそそくさと埋めていく。今日進めた範囲のコピーと、坂下君へのメモとして指定した宿題の範囲と、欠席した生徒の名前を書き残す。

 十九時三十分、タイミング良く授業開始の鐘が鳴った。

 丁度良い。上々なタイミングじゃないか。

 僕はハンガーにかけてあった黒のコートと共に日誌を手に、控え室を後にした。講師が一人もいない控え室はいつも妙な静けさを漂わせる。

 階段で事務所がある一階までいくのは気分がのらず、エレベーターの矢印を押した。滑らかな機械音が耳に届き、気分を少し浮つかせた。

 何せ、同窓会だ。

 もちろん、楽しみだ。

 だが、同時に妙に怖い気持ちも同居しており、このまま病床の坂下君の為に次回の授業の準備もしてやりたい気持ちにもなる。しないけど。

 時代を感じさせる電子音と共に重厚な扉が開く。

 空のエレベーターに入り、一階のマークを押し、胸ポケットに入れっぱなしのスマートフォンを起動させた。お馴染みの果物のマークが画面に出現したのと同時にメッセージを受信する。

 …飲み屋【たんぽぽ】、座敷席。送信時刻 19:13

 西本からだった。相も変わらずメールは不愛想だ。口調もあるのかもしれないが、女の子とメールする時もこんな状態なのだろうかと思う。

 お馴染みの音と共に一階へと到着する。

 ロビーから見える外は土曜の夜であり、仕事帰りの社会人で溢れていた。

 厚いガラスで仕切られた事務所に足を踏み入れる。ほとんどの人は帰ったのだろう。難しい顔をした経理の中村さんと上司の吉野氏だけがその場にいた。吉野氏は僕の姿を認めると、

 「…にぐち先生。」

 普段から声が小さい吉野氏が痛む喉を庇って話をするものだから第一声はより一層聞き取り難いものになる。あまりの使い込み具合に新しいものを買い与えたくなる程に踵の底のクッションが潰れたスリッパをパタパタさせながらマスク越しに、

 「本当に今日は申し訳なかった。休日手当つけておくので、本当にごめん。」

 おそらく元から気弱な性格なのだ、僕は吉野氏が声を上げるところを見たことがない。

 「いえ、今日ばかりは仕方ないですよ。事情が事情ですし。日誌、書いておいたので確認お願いします。坂下君にもお大事にと伝えてください。」

 僕に怒鳴られるとでも思ったのか、吉野氏は妙に安心したように見えた。

 「すみません、僕、この後用事があるので、失礼します。」

 部下に怒鳴られるのかと不安になる上司は上司で妙なものとは思う。吉野氏はいつもの人懐っこい笑みを目に浮かべながら僕に礼をし、送り出してくれた。

 さてと。

 予備校の外に出ると二月の冷たい風が顔をつんと突いた。コートのポケットに両手を突っ込んで僕は駅へと下り坂を歩く。西本が指定した飲み屋の【たんぽぽ】はそう大きくもない駅ビルの一階にある飲み屋で、僕が大学を出た年のゴールデンウィークに一度西本と飲みに行ったことがある。座敷とカウンター席がある、よくある飲み屋という感じだが、小綺麗な雰囲気で酒のメニューも多かったことが好印象だった。

 さてと、

 こういう場合はどういう顔をして入っていったら良いのだろうか。

 ヘラヘラしたような笑顔?

 クール(笑)な無表情?

 そもそも、西本と近藤以外のほとんどの連中は高校に出てから大して会ってもいない。高校の三年もあれば顔なんて随分と変わるものだから他の連中を見て認識できるのか自信がない。

 …寒いねえ。

 十字路の信号の横で高校生のカップルが互いの身体を寄せ合いながらそう話している。お前等なあ、それで寒いわけねえだろ。お前等、そうやって今が全てみたいな顔してキャーキャー言ってるけどよ、そんな関係上手くいくわけねえんだよ、考えてみろ、俺だってお前等みたいな青二、あ、信号変わった。

 凄く人相の悪い顔をしていたような気がする。まあ、誰にでもそういうことはあるはず。多分。

 だが思う、最近はこんな田舎町にも随分と人が増えた。一度映画の舞台として脚光を浴びてからだろうか。十年前の土曜日とは随分と勝手が変わっているように思える。飲み屋も増えたし、大きなショッピングモールもできた。高校生のカップル(爆発しろ)以外にもスーツ姿の社会人の姿や妙に洒落込んだ若い女性の姿なんかもちらほらと見える。

 随分と変わった。

 僕も、この町も。

 目当ての駅ビルのエレベーターに着く。

 一度深く息を吸って冷たい外気で肺を満たした。

 ゆっくりと上の矢印のボタンを、

 「あれ? お前、谷口?」

 火の付いていないタバコを咥えた短髪のパーマの若い男がそこにいる。青いダウンジャケットの下には明るいチェックのシャツと暗い灰色のカーディガンを羽織っていた。僕は言葉に詰まる。

 「あれ、わっかんないかな。俺だよ、俺。」

 何だそれは、詐欺か?

 「違うって、滝野だよ。ほら、修学旅行の自由行動で一緒の班だったの覚えてないか?」

 記憶を辿る。

 修学旅行、僕の班の構成員は僕自身を含めて六人だった。班長は西園で、方向音痴で、自由行動の際に目的地に着くまでにやたらと遠回りをした記憶がある。そうだ、そうだよ。確かその直前のバレンタインデーにチョコレートをくれたのはその子だった。男子の内、一人はチビで、声がやたらと高かった一ノ瀬、それと天然パーマが悩みだと言っていた一重の地味な、

 「思い出してくれたっぽいな。」

 ヘラヘラとした笑みを顔に浮かべながら僕の顔を覗きこむ。

 「変わり過ぎだろお前、髪の毛パーマだし。何があった。」

 「まあ、いろいろあってな。」

 滝野はそう答えながら僕が押しそびれたエレベーターのボタンを押した。

 信じられない。

 あの、天然パーマがコンプレックスであると天気の悪い日にはいつも言っていた滝野が、何処ぞの東京物の安い雑誌の切り抜きのような格好で目の前に立っている。

 「でも、谷口。お前も変わったな。背伸びたな。180 くらいか? 眼鏡もしてなかったしな。あとオッサンっぽくなってる。」

 高校に入ってから一気に伸びてな。あと最後のは余計だ。

 僕は完全に自信を喪失した。

 あの滝野がこの調子なら僕は他の連中を見抜くことはきっと無理だ。

 「お前、仕事は今何してんの?」

 そう、僕は尋ねた。

 「仕事は、建築関係。長野の駅前の事務所で設計とかしてる。お前は?」

 「塾講師。英語とか教えてる。」

 今度は滝野が丸い目をする。

 「お前、そんな頭良かったっけ…?」

 意外にも、こんな奴でも会えてよかったと思うものだ。

 「まあ、いろいろあってな。」

 正直他の連中がどうなっているのかは想像も付かない。恐ろしいくらいだ。だが、こうして旧知の者と再会するのは悪いことじゃないとも思った。

 静かにエレベーターの扉が開き、僕は五階のボタンを押した。

 ゆっくりと扉が閉まると、滝野の身体からはタバコの匂いが鼻についた。滝野は右手で綺麗で開けたばかり煙草の箱をくるくると回しながらエレベーター内の禁煙のシールを恨めしそうに睨みつける。

 「長いのか、吸い出して。」

 僕が尋ねる。記憶している限り滝野は煙草を吸うようなタイプではないように思っていたのだが。

 「ああ。高校の終わりくらいからかなあ。ちょっと友達の影響でな。それ以来ずっと。んで煙草買うの忘れたから外出たらお前とバッタリって感じよ。」

 まあ、実際いろいろとあったのだろうな。

 「結構人いるの?」

 「うーん…どうだろ。昨日文集みたらクラスが全部で三十八人で、今来てんのは二十人くらい? 今回は西本が幹事やってくれたけど、音信不通で何してんのか分からん奴も多いんだってさ。んで、遅れるって言ったのが、お前と、」

 滝野は急に何かを思い出したように、

 「俺と…?」

 また妙な笑いを顔に浮かべて、

 「まあ、もうすぐ来るだろうよ。」

 温い空気がエレベーターに流れ込むのと、飲み屋独特のあの喧騒がなだれ込むの、どちらが先だったろうか。元気の良い声が聞こえる。

 …いらっしゃいませぇ!何名様でしょうか?

 滝野は座敷の方を指差し、自身が既に席を持っていることを伝えると後ろに立つ僕が追加の客であることを伝える。

 …はい!ありがとうございます!ごゆっくりどうぞ!

 ハキハキと答えるその細身の女性はとても魅力的だった。

 先ほどから妙な目配せをしてくる滝野は軽く首を座敷席の方へ傾げてさっさと行くぞと合図する。別に僕がどんな女性を見ようと勝手ではないか。大学をでてからはマトモに彼女もできなかったのだから。

 滝野は迷いもせず、若者の集団に近づく。その若者は僕が十年前に同じ教室で同じ空気を吸い、授業を受け、給食を受けた者達の集まりのはずで、

 「ほら、皆。覚えてる? コンビニまで煙草買いに行って帰ってきたら下で丁度会ってさ、こいつ、谷口。」

 滝野の言葉と共に彼らの視線が僕に向けられる。

 予想通りだった。

 多分、こいつらに街で会っても誰か分かんねえ。

 「おう、谷口。仕事お疲れ。休日なのに大変だったな。早く座れよ。」

 今メニュー誰が持ってる、そう西村が聞きながら僕を労ってくれた。

 「みんな、久しぶり。谷口です。」

 各々が口を開く。

 「うっそー!めっちゃ変わったね。すっごい背伸びた! 」

 学級委員だった小嶋が言う。随分と痩せて、髪の毛が茶色になっている。

 「うっわ、懐かしい。谷口じゃん。何かの帰りのバスで歌ったサザンが地味に上手かったよな。覚えてる?」

 中学三年間ずっとクラスが一緒だった池内が言った。

 「家近所でも実際会わないもんだよな、久しぶり!藤岡だけど。」

 忘れるものか、実家から歩いて三十秒の距離に住む級友だ。

 「いや、会わないのも仕方ないって。俺、去年実家出て今アパートで一人暮らししてるし。」

 そう僕は長机の空席に腰を下ろした。顔が少し赤くなった西本がメニューを左手で渡してくれた。

 「ここ、お前の好きなのあるぞ。」

 西本の右手は眼前の焼き鳥をつまむ。

 「じゃあ、それで。」

 取り敢えず僕もネギまを掴み口へと運んだ。

 「お前本当にアレしか飲まねえもんな。他なんか飲む人いる?」

 俺、生一つ、と念願の煙草に火をつけた滝野に続いて隣に座っていた斎藤が、

 「俺も!」

 それに便乗した佐伯が、

 「すみませーん!注文お願いします!」

 流石元学級委員、注文の流れを阻止して小嶋が声を挙げて店員を呼ぶ。

 「はーい、何にしましょう?」

 笑顔で元気な例の彼女が来た。

 すると妙な沈黙が一瞬、流れる。「お先どうぞ」が重なって誰も何も言えないやつだ。こういうのは何も考えずに誰かが一言云うべきだ。

 「あの、ジンジャーハイボール一つお願いします。」

 僕が先行をとった。

 「何それ?」

 向かいに座る清水がジョッキを持ったまま僕に目を向けた。

 「ああ、ウイスキーとジンジャーエールを割ったやつでさ、俺これ学生の時からずっと好きなんだ。」

 ふうん、と清水は音を立てると、じゃあそれ二つでと注文を追加する。意外と知られていないのか、じゃあ俺も、私もと、先ほどまで生がどうとか言っていた連中が便乗した。

 「それではご注文の方確認させて頂きます。ジンジャーハイボールが六つ、焼き鳥の盛り合わせが二つ、鶏皮ポン酢、キュウリの浅漬けを三つづつでよろしいでしょうか?」

 西本が笑顔でお願いします、と同意する。なんだその笑顔は。デレデレすんな、気持ち悪い。

 「それではお飲み物の方だけお先にお出しします。少々お待ちください。」

 手持ちのジョッキを飲みながら向かいの清水が声をかけてきた。

 「それにしても、久しぶりだね。俺、清水だけどさ、覚えてる? 確か車の話とかよくしたと思うけど。元気だった?」

 僕の記憶が正しければ車好きの清水はもう少し痩せていたような気がするが、この話し方、雰囲気、恐らくあの清水君であろう。

 「覚えてるよ。俺の方は…まあ、なんとかやってるって感じかなあ。清水って仕事は何してんの?」

 清水はコトリと音を立ててジョッキを下ろした。

 「あの国道沿いの億代書店ってわかる? あの、古本とかCDとかDVDとか売ってる…他にも服とか色々置いてるけど。俺は今、あそこで働いてる。谷口は?」

 「へぇ、そんなところで働いてんだ。清水らしくていいじゃんか。俺はこの近くの予備校で講師やってる。」

 「なんか、意外。谷口ってそんな頭良かったっけ?」

 そう清水の横の小林が口をはさむ。

 「それ、滝野にも同じこと言われたぞ。」

 聞くと吹奏楽部に所属していた小林は今は実家の飲食店を手伝っているそうだ。

 「でも、谷口が塾の先生とか。マジでウケる。」

 堅気の人間ではなさそうな雰囲気を持つ藤沢に言われても説得力に欠けるというものなのだが。

 「確かに。谷口ってどっか東京かどこかの会社でサラリーマンとかやってんのかと思ってた。」

 金髪で、何だかよく分からない香水とメンソールの煙草の匂いを一緒くたにした北野が言う。

 「いや、君達の方が随分と変わったように僕には見えるんだけどね…」

 そうかなぁ、そう両者は酔いが回った笑みを浮かべながら言った。

 「でも俺は高校辞めてからはずっとトビやってるし、北野は長野の方でホストやってるし。ばっちり堅気よ。」

 自分のことを堅気呼ばわりする時点で少しズレているような気もするけど…

 「お待たせしました!ご注文のお飲み物お持ちしましたっ。ジンジャーハイ六つになります!」

 それぞれの注文が各々の手へと回る。

 「それでは、皆さん。我らが谷口君も合流したということで、積もる話もございましょうが、先ずはもう一度乾杯といきましょう!」

 珍しく饒舌になるほど飲んでいる西本がグラスをまとめてくれている店員さんを横目に率先して周りを先導した。

  そして、その場の皆が一斉に続く、「乾杯」と。


 出勤後のアルコール飲料は美味い。


 僕はビールは飲めない。

 あの、味が、ゆっくり飲めば飲むほどしんどくなるあの感じが苦手なのだ。

 缶ビールなんかはその容量に関わらず、いつも飲み干すことができない。

 でも、お酒は好きな方なのだ。飲むのはウイスキーに限られるけれど。

 普段飲むのはウイスキーとジンジャーエールを割ったものだが、名称は店によってまちまちでよく分からない。まあ、別に、名前なんかは何でもいいんだが、僕はいつもこれを飲む。喉越しもスムーズで、これだけならいくらでも飲んでいられる。でも、

 「ねえ、これ蟻の味がする…」

 何をどう味わったら蟻の味になるのか。

 中学時代、私のクラスは最高ですと常々と声高々に宣言していた宮岡がこぼす。やっぱり私ウイスキーはだめぇ、と丸い声を出しながら周りの女性陣に主張した。

 だが、それ以外の者は存外にも気に入ったようで、特に文句も言わずに飲んでいたように見える。少なくとも蟻の味がすると主張した者は他にはいなかった。

 一つ、また一つと机上の料理が消えては増えていく。それに並行してグラスの方も消えてはまた増えていった。

 授業の時まで緊張していた僕は何だったのか。

 どんな顔をして入ればいいのか悩んだ時間が馬鹿らしく思えてくる。

 曲がりなりにも友人として接したことのある者達だ、しばらく会わない内に何があったか聞いていけば話題などいくらでも出てくる。ふとしたタイミングで誰かしらの嬉し恥ずかしい思い出話に花が咲く。

 久しぶりだ。

 こんなに楽しいのは。


 「そういや、覚えてる? あのミソジってアダ名付けたあの女の先生。あの人結婚してから九州の方に行ったんだって。」

 牛乳瓶の底のようなレンズとはこのようなモノのことを指すのであろうという眼鏡をかけていた片島はコンタクトレンズにしたようで、随分と印象が変わっていた。

 「ああ、あの人なあ。妙なアダ名つけちゃって悪い事したよなあ。」

 斎藤が小気味良い音を立てながらキュウリを咀嚼する。

 「ミソジとか、マジ懐かしい。ウケる。」

 藤沢が「ウケる」というと北野もそれに同調するように笑い出す。妙な協調関係が形成されていた。

 「でも、俺あの先生好きだったなぁ。ノリ良かったしさ。」

 確かに、と清水が滝野に同意する。

 「あの、何だっけ。三年の時の副担の…そう、山岸だっけ。お婆ちゃんで英語の担当のさあ、あの人の授業マジでつまんなかったなー。」

 ふと、僕は思い出す。

 アレも駄目、コレも駄目、と怒られてばかりの授業だったような気がする。勿論、酒の入った僕のこんな記憶はアテにしてはならないが、今でもとても面白い授業だったとは思えない。

 「うっわ、懐かしい!アタシもあの人の授業は苦手だったな…」

 蟻の味が乗ってくる。

 「ってか、谷口。山岸は副担じゃなかったろ。俺たちの副担は中学二年の時から三年までずっとミソジだったじゃねえか。無理な勉強のし過ぎで記憶おかしくなったか?」

 上機嫌な顔で西本が顔をのぞかせた。

 ははは、そうだっけ。

 笑い声が上がる。

 「懐かしいな!あと、修学旅行あったろ? アレでさあ、京都の、自由行動の時、二組の榎本がヤニ吸おうと思ってちょっと外れの寺まで行ったらさ、あの社会科の飯田見つけたって話。覚えてない?」

 北野がフィルターに入ったメンソールのカプセルを指で弄びながら言う。

 え、何々。

 一斉に注意がそちらに向く。

 「あのさ、榎本がヤニ吸いたくなって。陰に隠れて吸おうかなぁって思って京都の寺の外れまで行ったら社会科の飯田が隠れてエロ本鞄に詰めてたって話!」

 「しょうもねー!」

 僕を含む男性陣から野次が飛んだ。女性陣もいやだー、と各々に反応を見せる。

 「まあ、でも当時はこんなのが大ニュースだったんだよなぁ…」

 そう言って北野はメンソールの煙草を咥え自前のジッポで、

 「カッコ付けんな、馬鹿!ウケる!」

 藤沢の突込みが北野の後頭部に直撃した。

 いや本当、ウケる。

 喧騒がまた、大きくなった。

 そういえば、と誰かが声を挙げる。

 「二組の榎本って、確か五組の…なんていったっけ、渡邊とかいう子と付き合ってたの有名だったよね。」

 思い出す。

 当時、異性に興味があるのに、素っ気ない振りをしていたあの時期。彼女持ちといえばそれはそれで一種のステータスとなった。そんなエリートの中でも異彩を放っていたのが榎本、渡邊カップルだ。放課後となれば常に一緒であり、帰りもママチャリに二人乗りでの帰宅と、どこの漫画から切り抜いてきたと突っ込みたくなるようなそれはそれは微笑ましいカップルであった。

 「あの二人結婚して、今は子供が二人らしいよ!」

 当時、榎本と仲が良かった堀北が声を立てる。そんなことになっていたのか。凄いな、僕には到底出来なかったことだ。素直に敬服する。早急に爆発してくれるようお祈りしようではないか。

 先抜かれたかー、と宮岡が大して気にもしてなさそうに机を叩く。須藤、小林もそれに倣う。

 「いやー、でもやっぱりいいものよ。私は婚約したってだけだけど。」

 へへへ、とこれ見よがしに薬指につけた銀の質素な指輪を南川が水戸黄門の如く、一同に見せる。南川といえば、小学生から中学生の時までずっと同じクラスだったので覚えている。

 「ほら、谷口覚えてる? 小学校一緒で、中学からずっと違うクラスだった、久保田君って。」

 ああ、いたな。そんな奴。薄目で人相悪い猫好きのな。

 「久保田君、普段はケーちゃんって呼んでるんだけどね、大学のゼミで一緒になったの。」

 ははーん、偶然の再会ってやつですかい、お姉さん。

 「そうなのー!素敵でしょー?それで、付き合って婚約みたいな感じ、どう?羨ましいでしょー!」

 何を世迷言を。羨ましくなどない。他人の境遇を羨望する程僕の精神は荒れてなどいない。

 「顔に『僕は無理して嘘をついています』って書いてある。」

 おい、小林。余計な口を挟むな。かつての友、菅原君の想い人とは言え容赦はせんぞ。そういや、あいつ転校したんだった。

 「やっぱり谷口も結婚したいんだ。意外、ウケる。」

 藤沢よ、君は今日だけで何回「ウケる」を使用するつもりだ。

 「でも俺もこの間三年付き合って婚約した彼女に振られたばっかだしね、そう簡単にいくものでもないよ。」

 人懐っこい笑みを見せる藤沢の目が灰色に澱む。

 「ジンジャーハイボール、二つお願いしす!」

 いいんだ、藤沢。お前ヤンキーだって随分周りに怖がられてたけど実は超良い奴だって、俺は知ってっから。うん。彼女いない奴に悪い奴はおらんよ。うん。

 「ご注文の品お持ちしましたー」

 健気に件の彼女はトレイにジンジャーハイボールを二つすぐに持ってきてくれた。僕は丁寧な礼をしてから片割れを藤沢に手渡す。飲むんだ、友よ。

 「あと、生三つお願いします。」

 西本が注文を追加する。

 「てか、小嶋っていつ髪染めたの? 仕事それで大丈夫なん? 」

 それを金髪のお前が言うな、お前が。

 そう思ったのは僕だけだはなかろう。でも誰も言わなかった。何で?

 「ああー、これちょっと前にウチのお店の店長に染めてもらったやつでさ、綺麗にできてて良い感じでしょ?」

 端の席の小嶋が右手で髪を持てあそびながら北野に言う。まあ、美容院の店員さんといえば随分とお洒落するイメージがあるしな。というか、小嶋こそ美容師になるとは思わなかったけどな。

 「確か、中学の時から美容師になりたいって言ってたし、やっぱり今は楽しい?」

 小林がジョッキを持ったまま聞く。

 「うーん…まあ、ハサミでそのまんま刺し殺してやろうかと思う客もいないことは無いけど、他のことやってる自分も想像できないしね。」

 そうだったろうか、確か小嶋といえばピアノが上手くて小学校の教諭になりたいとか何とか言っていたような気がするが…まあ、記憶なんて曖昧なものか。

 「んでさあ、谷口はさぁ、結局、西園とはどれくらい付き合ったん?」

 今は父同様に警察官をやっているという堀川が聞いてきた。その隣で車好きの清水が薄ら笑いを浮かべながら顔を向けている。

 「確かに。二人とも凄いイイ感じだったよね。俺、本当は羨ましかったんだぜ。」

 修学旅行に行った中学三年生の時から声変わりをしていないのか、背が伸びてチビではなくなった一ノ瀬が僕の記憶通りの高い声で便乗した。

 「ん?」

 何の話だろうか。僕以外に谷口という名前の野郎はいない。

 だが、初めて彼女ができたのは忘れもしない、高校一年生の秋だぞ。相手は他校の一つ年上の山崎さんといって僕が初めて組んだバンドでやった初めてのライブで対バンをしていた…

 「いやあ、でも、アタシも陰ながら応援してたんよ?」

 小学生から中学生の時までずっと同じクラスだった南川が口を挟む。

 「カナちゃんさあ、谷口にバレンタインのチョコ作るって言って皆に隠れて図書館で一人で作り方調べてたんだよ!」

 「イヤだ、可愛いー!」

 南川を中心に小林と須藤が女子らしい雰囲気を醸し出す。

 西園、そんなことまでしてくれていたのか…ロクにマトモな返事もしないで、本当悪い事しちゃったな。

 「でも、そんな努力もちゃあんと実になって良かったよね!」

 うんうん、と小林、南川が須藤に同意する。三者三様に顔が赤い。お前等飲みすぎ。そもそも事実関係がおかしい。俺は西園と、

 「本当、谷口と西園はベストカップルだったよ。」

 だから、待て。

 明らかに事実関係が混乱している。

 確かに、僕はバレンタインデーに彼女からチョコレートをもらった。中学生らしい、ささやかな手作りのチョコレートだった。だが、当時は他校で好きな女子がいたことと、自身の度胸不足から返事をすることができなかった。

 つまり、僕は西園と付き合ったというような事実は存在しない。確かに、修学旅行の自由行動の班は一緒になった。方向音痴の彼女のお陰で京都中を右往左往させられた。今となっては笑い話だ、が、それだけだ。それだけのはずなのだ。

 「いや、待て。俺に初めて彼女ができたのは高校に入ってからだぞ。そもそも西園にチョコレート貰ったのだって誰にも…」

 恥ずかしがんなよ!

 席を乗り出して堀北が僕の肩を小突いた。

 ほとんど空になったグラスの中で氷だけが小気味良い音を鳴らす。

 「でもさ、近藤君が来れないのも残念だったね。」

 池内が焼き鳥の最後の一本に手を伸ばした。

 「確かになあ、あいつ変なやつだけど悪いやつではなかったもんなぁ…どこ行ったんだっけ? オーストリア?」

 滝野が遠い目でまた新しいタバコに手を伸ばす。

 「オーストラリアでしょ、バカじゃないの?」

 甲高い笑い声で須藤が訂正する。

 「何の話?」

 おかしい。

 違う。

 僕の知っている近藤は一生この島から離れるものかと常々主張していた。将来の夢は演歌歌手で、これからの若手は俺が引っ張っていくと僕に語ってくれた。中学の卒業式の日には僕は西本と近藤の三人でカラオケに、

 「ひっでーな、お前。忘れたの? 一人いたろ。中学二年の時に。夏休みが終わったくらいに転校した。」

 違う。

 おかしい。

 そんな事実は存在しない。だから、近藤は中学三年の卒業式のその日まで確かに俺たちと、

 「そういや、谷口さ。鈴本ってのと仲良かったけど。あいつって今何してんのか知ってる?」

 誰だ。

 そんな奴は知らない。

 「うっわ、懐かしい。超ウケる。二人とも変な音楽好きだったよな。何ていうの、アレ。ロック?」

 ロックは小学三年の時からの好物だ。だが、それよりも鈴本って奴俺は、

 「思い出した!確か、バスのカラオケに良い曲が無いって鈴本が拗ねて、そんなことないぞって谷口がサザン歌ったんだよ!」

 ああー、あった!あった!

 皆が声を合わせる。

 そもそも、誰だ、その鈴本とやらは。

 僕がサザンを歌ったのは違う。

 須藤が即興で作ったクジの抽選で僕の出席番号を引いたからだ。

 僕の前に歌った一ノ瀬は壊滅的な音痴で、聞く方も歌う方も罰ゲームだった。

 確かに、僕が今酒を交わしているのは中学の、クラス替えを経た二年と三年の二年を共にしたはずのクラスメイトのはずだ。そのはずが、何故、記憶にこう差異が生じている?

 …あの、

 僕は知らない。

 …もしもーし。

 僕は鈴本など知らないし、近藤も何があった。

 …おーい。

 そもそも、西園とも付き合った覚えは、

 「おい!」

 隣の清水が含みのあるニヤケ面で僕の肩を揺さぶった。

 …おっ。遂に最後の一人が来たな。

 その女性を、僕は知っているはずだ。

 …うっわー!超久しぶり!変わったねー、綺麗!

 記憶通りのショートで、背が伸びている。

 …まあ、いいから先ずは座れよ。あれ、メニューまたどっか行った。

 頬のそばかすが昔の彼女の唯一の手掛かりで、

 …西本、メニューお前の後ろ。

 ああ、そうか。この人が、

 「西園です。皆、久しぶり。」

 …すみませーん、注文お願いしまーす!

 西本が珍しく声を上げる程飲んでいる。

 滝野の、清水の、あの妙な表情の意味を理解した。

 右手に付けた時計を覗き込む。

 修学旅行で行った京都で、清水寺で拾った腕時計。割と良いものだったらしく、長持ちしている。いや、そんなことよりもだ。

 現時刻は二一時十三分五十一秒、場所は居酒屋【たんぽぽ】の座敷席。

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