現当主
――その少し前。
「当主、遅いお着きで」
嫌みったらしい口調に、龍ヶ峰響は苦笑した。
こいつも大変だったのだろう。宴会の計画から準備まで、一人で進めてきたのだから。本来それは彼が背負うべき役割であったのに。
「“姫”は?」
「宴会場です。沙紀が付いてます」
そう言われて彼女を思い浮かべる。幼少期に比べて、随分可愛げのなくなった――それは彼のせいでもあったのだが――幼馴染みが付いているという。
それなら安心だ、と車を降りて屋敷に入った。
「宴会場は“初秋の棟”です。行くのなら着替えを済ませてからがよろしいかと」
ふと、立ち止まって自分の服装を見下ろす。
一般的なスーツだ。宴会には相応しいとは言えないが、人前に出ても充分な格好だ。
「何か駄目か」
「…花嫁との対面でスーツですか?」
「初めてじゃないんだ。大丈夫だろう」
「対面は初めてでしょう」
そうか、と彼は頷く。泰澄はため息をかみ殺し、自室へ行こうとする主について行く。
「ところで、契約はうまくできましたか?」
「当然。ついでに菓子織りももらってきた。宴会に出しておけ」
「承知しました」
あの気難しい相手に菓子まで出させるとは、よほど脅したに違いない、と泰澄は勝手に考える。
いつもより大きな歩幅と早い歩調に、彼が急いでいることが知れた。
部屋に着くと、スーツを脱ぎ捨て、用意されていた服に袖を通す。泰澄の役目は、その散らかされた服を畳んで片づけることだった。
本来秘書がやるべき仕事内容ではないが、彼は進んでその役割を買って出ている。
着替えを済ませた彼は、泰澄を連れ立って渡り廊下を進んで“初秋の棟”に行き着いた。
しばらくも行かないうちに宴会場の近くに出たが、騒ぐ声は届いてこない。何があったんだ、と泰澄は身を固くする。もしや命様に何かあったのか。
ドアの前に立った。その時、
「…私は、当主様の妻ではありません」
ドアの向こうから漏れ聞こえてくる声。透き通るこの声は、間違いなく彼女のものだ。
泰澄が焦るのは、彼の前に立つ“当主様”が何の反応も示さないからだ。
「…当主?」
「今のは誰だ」
「………命様です」
ふぅん、と。低くよく通るこれは、機嫌の悪いときの声だ。これと破壊音がセットになると、もう泰澄では手が着けられない。
酌をしろ、と聞こえてきた。炎城の声だとすぐに察知し、彼のまとう空気が、一気に剣呑なものに変わる。
ああ、と泰澄は頭を抱えた。
向こう側のざわめきが消えかけた頃、彼はドアを開け放った。
「俺の花嫁に酌をさせるとは、腹が据わってるな。炎城の爺さん」
ふてぶてしく告げ、酷薄に微笑みを形作る。その姿さえも、気品を持っているのだから流石だ。
「父親に向かって何を言う。糞餓鬼」
緊迫感のある言い合いだ。
泰澄は、終わったな、と花婿と花嫁の初対面を終了させた。
彼女の固まって動けていない姿を眼裏に浮かべた。彼女の中での彼の評価はだだ下がりだろう。弁解の余地もない。
すっかり諦めた秘書は、後で主の軽率な行動を叱ることにして、そこを離れた。
怒ってる……んですね、たぶん。




