前当主
命は沙紀の手を握ったまま、心中穏やかではなかった。
力のこもらない脚は、不格好に揺れている。これが、怯えからくるものであったならよかったのに、と。
「命、一歩」
沙紀が呼びかけてくる。強張った笑みを浮かべたまま、彼女を見た。
口紅で赤い唇で、必至に言葉を紡いでいる。多くは励ます言葉だ。
覚悟は決まった。腹もくくっている。なのに何故。
震える脚で一歩踏み出す。
摺り足のようになってしまっているが、今は一歩踏み出せたことに、喜びを禁じ得ない。
しかしその舞い上がった喜びも、次の瞬間撃ち落とされる。
開けた視界に映るのは、人、人、人、人。
老若男女問わず、たくさんの人に溢れていた。皆一様に煌びやかな服を身にまとい、命を見ている。
会場は沙紀の言うとおり洋館のように整えられていて、立食パーティー形式になっている。
鼻腔をくすぐる香りがそこかしこに立ちこめているが、命にとってはそれどころではなかった。
誰もが彼女を見ている。先ほどまでの騒がしさが嘘のように消え失せ、沈黙の中、少女に視線を注いでいた。
何十人という人間に見つめられ、そんな経験がなかった命は、絶句して固まっていた。
「命…、命!」
小声で横から投げられた声に、はっと覚醒し、張り付いた笑みを浮かべる。口内が乾き、何も言えない。
命の様子に衝撃を受けた沙紀は、ぐっと顎を引き、仕方なく彼女から歩き始めた。
エスコートされている命は、沙紀の動きに合わせて歩くしかない。ようやく動き出した彼女に、会場も騒がしさを取り戻す。
二人が進みやすいように道が開け、舞台まで一直線に導かれる。脇には子どもたちが多くいて、不思議そうな面もちで、命を見送っていた。
歩く度ワンピースの裾が揺れ、彼女のガチガチな動きを見事に中和していた。
その影響か、引きつって張り付いたぎこちない笑みも、どうにか見れるようになっている。
沙紀はほっと息を吐き、その様子から読み取れない命の心中を探ろうとしたが、脇から投げられた声に反応して、それどころではなくなった。
「神楽 命さまよぉ! 当主はどうした! 夫だろお?」
沙紀は悟られないように、小さく舌打ちした。
酔っ払いのその一言を皮切りに、そのような類の野次が飛び交うのはいただけない。
あれは当主の父方の従兄だ。確かプールの管理人だと、その筋では有名だったはずだ。覚えておこう、と酔っ払いの赤ら顔を睨む。
酔っ払いがさらに二の句を告げようとした時、横にいた女性が豪快に彼の頭をぶったたいた。
「黙れ酔っ払い!」
「いてっ」
盛大な音に喚起され、再び笑いに包まれる。
安堵し、沙紀は命を見た。変わらない笑みを浮かべた表情のまま、黙って酔っ払いを見つめていた。
「命?」
「…行ってくる」
かみ合わない会話だった。だが、彼女が何をしようとしているのか察知した沙紀は、止めようと手を伸ばしたが間に合わなかった。
人並みが彼女に道をつくり、酔っ払いのもとへと導く。
硬さを捨てた、その優美な横顔は、見とれるほど綺麗だった。
女性と未だ言い争っていた酔っ払いが、目の前に立つ命に目を留めて、驚いたように動きを止めた。片手に持ったビール瓶の中身が揺れる。
「名前をお伺いしてもよろしいですか?」
透き通った、透明な声だった。それでいて、よく通る声。これまでとは明らかに違う、覚悟の籠もった瞳で彼を見つめる。
「龍ヶ峰…、健新」
「健新、さん。私は、当主様の妻ではありません」
その言葉に、この場にいた誰もが息を呑む。それは誰の例外もなく。
「結婚できないんです、私。十五歳なので」
苦笑と共に続けられた。沙紀はほっと息を吐き、そういうことかと納得した。
日本の法律では十六歳以上にならなければ結婚できない。
国民なら誰もが知っていることを、彼女はただ繰り返しただけだ。なのに何故か、それだけではない気がした。
その時、一拍遅れて笑い声が響いた。低く強く太い声――誰かはすぐにわかった。
目を向けた先には、白髪頭の爺がいた。
浅葱色の浴衣めいた着物をまとい、扇子で自分を扇ぐ男。
龍ヶ峰家の者ならば誰もが知っていて、誰も邪険にできない、圧倒的な人。
「え、炎城様…!!」
その人こそ、現当主の父親にして前当主。龍ヶ峰家の支柱である、龍ヶ峰炎城。
平伏さんばかりの勢いで一礼する人垣の間を、緩慢な動作で歩いていく。目的地は、もちろんあそこだ。
鍋の煮える音がやけにうるさい。心臓の音と合わさって不協和音を奏でている。
足音が途切れ、次いで命の声がした。
「か、神楽 命です。は…、はじめましてです」
「龍ヶ峰 炎城という。前当主である」
「お聞きしております」
そう、沙紀が命に叩き込んだ龍ヶ峰家の歴史の中には、しっかりと歴代当主の名も含まれている。
炎城はふむ、と閉じた扇子を顎におき、命を眺めた。
彼の目に彼女はどう映るのだろうか、それが本人以上に沙紀には気になった。
「酌をしろ」
「…?」
「知らんのか。酌だ。酒を持ってこい」
「………ああ! はい」
慌てて近くのテーブルから、使われていないグラスと、手付かずのビール瓶を持ってきて、グラスを炎城に渡し、中身を注いだ。なみなみ注がれたそれを、間髪入れず飲み下す。
唖然とする宴会場の人間を後目に、彼は酒を煽っていた。
戸惑っているのは命も同じで、助けを求めるように涙目で沙紀を凝視していた。
どうしたものかと逡巡していると、場内にまたざわめきが広がった。今度は何の騒ぎだ、と炎城がぼやくのが聞こえた。
「俺の花嫁に酌をさせるとは、腹が据わってるな。炎城の爺さん」
聞き覚えのある声だった。
昔から聞き馴染んだ、実に四日ぶりに耳にした声。
振り返ると、舞台に立ち、あらゆる視線を一身に受け止める秀麗な男がいた。
「父親に向かって何を言う。糞餓鬼」
龍ヶ峰響だ。
どこのキャバクラですか(゜゜;)\(--;)ビシッ




