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龍の花嫁  作者: おはなし
第一章 嫁入り
8/42

前当主

 命は沙紀の手を握ったまま、心中穏やかではなかった。

 力のこもらない脚は、不格好に揺れている。これが、怯えからくるものであったならよかったのに、と。


「命、一歩」


 沙紀が呼びかけてくる。強張った笑みを浮かべたまま、彼女を見た。

 口紅で赤い唇で、必至に言葉を紡いでいる。多くは励ます言葉だ。


 覚悟は決まった。腹もくくっている。なのに何故。


 震える脚で一歩踏み出す。

 摺り足のようになってしまっているが、今は一歩踏み出せたことに、喜びを禁じ得ない。

 しかしその舞い上がった喜びも、次の瞬間撃ち落とされる。


 開けた視界に映るのは、人、人、人、人。

 老若男女問わず、たくさんの人に溢れていた。皆一様に煌びやかな服を身にまとい、命を見ている。


 会場は沙紀の言うとおり洋館のように整えられていて、立食パーティー形式になっている。

 鼻腔をくすぐる香りがそこかしこに立ちこめているが、命にとってはそれどころではなかった。


 誰もが彼女を見ている。先ほどまでの騒がしさが嘘のように消え失せ、沈黙の中、少女に視線を注いでいた。

 何十人という人間に見つめられ、そんな経験がなかった命は、絶句して固まっていた。


「命…、命!」


 小声で横から投げられた声に、はっと覚醒し、張り付いた笑みを浮かべる。口内が乾き、何も言えない。


 命の様子に衝撃を受けた沙紀は、ぐっと顎を引き、仕方なく彼女から歩き始めた。

 エスコートされている命は、沙紀の動きに合わせて歩くしかない。ようやく動き出した彼女に、会場も騒がしさを取り戻す。


 二人が進みやすいように道が開け、舞台まで一直線に導かれる。脇には子どもたちが多くいて、不思議そうな面もちで、命を見送っていた。

 歩く度ワンピースの裾が揺れ、彼女のガチガチな動きを見事に中和していた。

 その影響か、引きつって張り付いたぎこちない笑みも、どうにか見れるようになっている。


 沙紀はほっと息を吐き、その様子から読み取れない命の心中を探ろうとしたが、脇から投げられた声に反応して、それどころではなくなった。


「神楽 命さまよぉ! 当主はどうした! 夫だろお?」


 沙紀は悟られないように、小さく舌打ちした。

 酔っ払いのその一言を皮切りに、そのような類の野次が飛び交うのはいただけない。


 あれは当主の父方の従兄だ。確かプールの管理人だと、その筋では有名だったはずだ。覚えておこう、と酔っ払いの赤ら顔を睨む。

 酔っ払いがさらに二の句を告げようとした時、横にいた女性が豪快に彼の頭をぶったたいた。


「黙れ酔っ払い!」

「いてっ」


 盛大な音に喚起され、再び笑いに包まれる。

 安堵し、沙紀は命を見た。変わらない笑みを浮かべた表情のまま、黙って酔っ払いを見つめていた。


「命?」

「…行ってくる」


 かみ合わない会話だった。だが、彼女が何をしようとしているのか察知した沙紀は、止めようと手を伸ばしたが間に合わなかった。


 人並みが彼女に道をつくり、酔っ払いのもとへと導く。

 硬さを捨てた、その優美な横顔は、見とれるほど綺麗だった。


 女性と未だ言い争っていた酔っ払いが、目の前に立つ命に目を留めて、驚いたように動きを止めた。片手に持ったビール瓶の中身が揺れる。


「名前をお伺いしてもよろしいですか?」


 透き通った、透明な声だった。それでいて、よく通る声。これまでとは明らかに違う、覚悟の籠もった瞳で彼を見つめる。


「龍ヶ峰…、健新」

「健新、さん。私は、当主様の妻ではありません」


 その言葉に、この場にいた誰もが息を呑む。それは誰の例外もなく。


「結婚できないんです、私。十五歳なので」


 苦笑と共に続けられた。沙紀はほっと息を吐き、そういうことかと納得した。

 日本の法律では十六歳以上にならなければ結婚できない。

 国民なら誰もが知っていることを、彼女はただ繰り返しただけだ。なのに何故か、それだけではない気がした。


 その時、一拍遅れて笑い声が響いた。低く強く太い声――誰かはすぐにわかった。

 目を向けた先には、白髪頭の爺がいた。

 浅葱色の浴衣めいた着物をまとい、扇子で自分を扇ぐ男。

 龍ヶ峰家の者ならば誰もが知っていて、誰も邪険にできない、圧倒的な人。


「え、炎城様…!!」


 その人こそ、現当主の父親にして前当主。龍ヶ峰家の支柱である、龍ヶりゅうがみね炎城えんじょう


 平伏さんばかりの勢いで一礼する人垣の間を、緩慢な動作で歩いていく。目的地は、もちろんあそこだ。


 鍋の煮える音がやけにうるさい。心臓の音と合わさって不協和音を奏でている。

 足音が途切れ、次いで命の声がした。


「か、神楽 命です。は…、はじめましてです」

「龍ヶ峰 炎城という。前当主である」

「お聞きしております」


 そう、沙紀が命に叩き込んだ龍ヶ峰家の歴史の中には、しっかりと歴代当主の名も含まれている。

 炎城はふむ、と閉じた扇子を顎におき、命を眺めた。

 彼の目に彼女はどう映るのだろうか、それが本人以上に沙紀には気になった。


「酌をしろ」

「…?」

「知らんのか。酌だ。酒を持ってこい」

「………ああ! はい」


 慌てて近くのテーブルから、使われていないグラスと、手付かずのビール瓶を持ってきて、グラスを炎城に渡し、中身を注いだ。なみなみ注がれたそれを、間髪入れず飲み下す。


 唖然とする宴会場の人間を後目に、彼は酒を煽っていた。

 戸惑っているのは命も同じで、助けを求めるように涙目で沙紀を凝視していた。


 どうしたものかと逡巡していると、場内にまたざわめきが広がった。今度は何の騒ぎだ、と炎城がぼやくのが聞こえた。


「俺の花嫁に酌をさせるとは、腹が据わってるな。炎城の爺さん」


 聞き覚えのある声だった。

 昔から聞き馴染んだ、実に四日ぶりに耳にした声。


 振り返ると、舞台に立ち、あらゆる視線を一身に受け止める秀麗な男がいた。


「父親に向かって何を言う。糞餓鬼」


龍ヶりゅうがみねひびきだ。


どこのキャバクラですか(゜゜;)\(--;)ビシッ

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