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龍の花嫁  作者: おはなし
第一章 嫁入り
35/42

咆哮

「朱里様!」


 沙紀が悲鳴のように名を呼ぶと、彼女の視線は命から逸れ、沙紀に向かった。

 いけない、と思わず口にする。けれど間に合わない。

 瞬間、猛然と襲いかかってきた鬼は、長く鋭く伸びた爪で、咄嗟に命を庇った沙紀を斬った。


 命の名前を呼ぶ声と、巫女たちの悲鳴が重なる。飛び散った血が草を濡らしている。倒れ込んだ先は彼女の腕の中で、震える小さな手が傷口を不慣れに圧迫した。


「い……っ、つぅ…」


 背中が焼けたように痛くて、目の前で驚愕に震える自分の主にも、役に立てなくてごめんと謝りたくなった。


「さ、きさ…さき、さん」

「ごめん、命。……上手に庇えなかったわね…」


 庇わなくていい。そんなことは望んでなかった。あまりの驚きに、涙も出ない。

 衝撃を受けながらも考えて、命は胸元の御印(みしるし)に手をかざした。


「あ、アスクレーピオス! 降りて来て…っ」


 限りなく簡略化された命の神呼では、供物も祝詞も必要ない。御印が光り輝き、天から神が降りてきた。

 ギリシア神話での医学の神、アスクレーピオス。彼は医学に精通し、死者をも蘇らせたという。蛇の絡まった杖を持ち、それは医学のシンボルとされている。


 天上界から降りて来た神は、命が沙紀に縋るように抱きついているのを見つめると、ゆっくりと手を差し出した。


「代償を差し出せ」と、言われた気がした。


 慌てて辺りを見回す。神とは気まぐれで残酷なもので、この前が無償で助けてくれたからといって、今回もそうであるとは限らない。儚い人間の命さえ対価に望む。


「み、こと…」

「ごめん、沙紀さん! わたし何も持ってなくて……!!」

「あたしは、いいから……朱里さま、を」


 神呼を行っている僅かな間に、鬼と同化してしまった鬼瓦朱里は、鋭く伸びた爪を振り回して生垣を無惨に狩っていた。

 三人の巫女が必死に文言を唱えて抑えているが、どこまで持つかわからない。他人を巻き込まないようにと人払いをしていたから、助けを呼べる人はいない。

 ……いや、ひとりいた。


「泰澄さんっ!」

「っはい」


 慌ててやってきた泰澄には、アスクレーピオスは見えていない。彼が来ると、すっと横に避けてくれた。

 見れば彼の顔色は青ざめていて、きっと名を呼ばれるまで放心していたのだろうとわかる。命は沙紀を固く抱き締めたまま、泰澄に言った。


「何か、美しいものはありますか。値段とかの価値ではなく、本当に美しいものです。なにか……」

「手元にはこれくらいしか……」


 そう言いながら彼が懐から出したのは、綺麗に丸く加工された水晶だ。手の平サイズのそれは、透明感のある清涼な空気を放っていて、そこだけ空気が澄んでいるようだった。

 これなら、と神を見る。すると、泰澄の手からそれが忽然と消えた。目を丸くする彼をよそに、命はアスクレーピオスを見上げた。


「神よ、どうか…」

『聞き届けた』


 神が頷くのと同時、背中の傷口が光に包まれながら塞がっていく。まさしく神の御業。空いた口が塞がらない泰澄に沙紀を預けて、安堵したように目を閉じる彼女に小さく謝罪した。


 あと数秒もすれば彼女の傷口は完全に塞がり、神も天上へと帰っていくだろう。命が今すべきこと、それは封鬼であるはずだ。


「命様! やはり私たちでは……」

「十分です、ありがとう!」


 むしろ、覚醒した鬼を相手にして数分間も持ち堪えてくれたことに感謝する。鬼が荒し回った庭の生垣は、元の面影が跡形もなく見るも無残な状況だった。


 命は魔封じの呪文を唱えた。

 破魔の呪文は、文字通り魔を破るためのものだから、周りへと与える影響も大きいが、魔封じはあくまで動きを封じるだけだから、あまり大きな効果は期待できない。

 しかし、今はそれで十分だった。


「うがぁ……が…っ」


 途端、上から巨大な物に押し潰されているかのような錯覚に陥る。四肢の動きを封じられ、地面に押さえつけられる。唯一自由になる顔を動かして、鬼は彼女を見上げた。


 ―――そうまるで、天上の使い。

 美しくも儚い美貌をたたえた少女が、こちらを見下ろしていた。白髪が歩く度に揺れて、白瞳(はくどう)が無感動に鬼を映していた。


「―――」


 鬼が何か言った。それは誰にもわからない言葉で、誰にも聞こえない声だった。

 ただわかるのは、鬼は暴れる意思を失ってはいないということだ。


「う、ぅぅうあああああああああああああああ」


 咆哮とともに、鬼は魔封じに抗い立ち上がった。食いしばる口元からは、たくさんの血が流れている。それを撒き散らしながら、鬼はただ命に向かって行った。


 神呼は、できなかった。こんなときに呼ぶ御名もわからなかったし、呼んだとして間に合うかもわからない。それに、なぜだか目の前の鬼が怖くなかった。


 降ってくるように襲いかかってきた鬼の懐に照準を定め、命は右手を突き出した。相手の鳩尾に突き立てられたその手から、光が漏れる。

 その手が身体に触れるか触れないか、その瞬間、天使が嗤った。


()っ」


 弾かれるように、鬼瓦朱里の肉体から鬼が剥がれた。文字通り弾き飛ばされた鬼は、実体を持たない霊体だった。只人には見えないものには、物理攻撃も効きづらい。しかし、彼女の身体に攻撃するわけにもいかなくて、命はこの方法を選んだ。


 鬼を追い出されて、もたれかかってきた鬼瓦朱里の顔色は悪く、血もたくさん流れていた。しかし確かに息はあって、命はほっと安心する。

 彼女を近くにいた葉月に預けて、鬼と正面から対峙した。


「鬼さんは、見たところ一角鬼(いっかくき)ですね。女性でしょうか」


 鬼は何も答えない。気にせず命は話を続けた。


「どのくらい、彼女に憑いていたのでしょう。いつから、彼女の生命を食おうとしていたのでしょうか。あなたは、堕とされた鬼―――下界の鬼、ですか」


 最後の問にだけ、鬼は応えた。身を引き絞るような咆哮で。命が痛ましげに顔を歪めるのを、こちらも同じような表情で見つめて。


「下界の鬼…?」

「死後の世界―――地獄の鬼のことです。地獄の民はそこを天上であると唱えていて、そこから地上へと堕ちることは、極刑にも等しい罰であるのです。鬼瓦家の鬼のことはわかりませんが、あの鬼は少なくとも、それを望んでいたわけではなかったのでしょう」


 泰澄の呟きに、柚月が答える。

 自ら望んで憑いたのか、囚われたのか。後者だったのなら、この鬼に罪はない。悪いのは意志を無視して朱里に鬼を憑かせた鬼瓦家のものだ。

 最早、鬼に自我はなく、ただ暴れることしかできないのだろう。例え自分が死に絶えることになろうとも。それなら―――。



「せめて、殺そうか」



 命は無意識に、そう口にしていた。

 それに驚いたのは巫女たちだ。生家に居たときの彼女ならば、決して言わなかったはずの言葉だ。"殺す"なんて。

 躊躇わなかったといえば嘘になるが、それが最善な気がした。


「そうだ。柚月さん、朱里様の傷口、縫っておいてくれませんか。道具は、そこにあるので」

「…っはい!」

「お願いします」


 封鬼は除霊と違って、引き剥がすだけでは事足りないようだ。恐らくこれから、今まで経験したことのないような戦闘になるのは目に見えている。


 しかし、それを許さない者がいた。


 身構えた二人の間に落ちたて来て、見事に地面に突き刺さったのは、刀身が長いだけの、ただの鋏だった。

 そして鬼が素早く後方に飛び退く。次いでそこに来たのは、真っ黒な服を来た、若い青年。


 彼は命をゆっくりと振り返り、仏頂面を少しだけ緩める。


「当主、さま…」

『ああああああぁぁぁぁ!! ああああああああああああああ!!!!』


 実体を持たなくなった鬼の咆哮は、只人には聞こえない。はず、だ。



「うるさいな」



 言葉とともに当主が放ったペンが、真っ直ぐ幽体であるはずの鬼の目に直撃した。鬼は、苦しみ呻く。


「どういう…」


 驚きで言葉も出ない命を振り返り、当主は静かに告げた。




 "青龍"を喚べ、と。









次回は、このとき当主はなにをしていたか、です!


医の神として登場したアスクレーピオスですが、彼にまつわる神話は残酷ですね。

シンボルの杖がかっこいいです!

持ちたいとは思わないけど!(噛まれたらどうするんだろう)

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