夜 -不穏-
「ふぅー…」
固まった筋肉をほぐそうと、湯の中で簡単なストレッチを行う。
沙紀は黒髪をまとめ、顎まで温泉に浸けた。海水をひいて造られたこの温泉は、舐めると少し塩辛い。
この旅館を建てたのは、龍ヶ峰家現当主である、龍ヶ峰響だ。その手腕には驚かされることもままあるが、沙紀は彼の人柄が好きではなかった。
家のため事業のため、と人を切り捨て身内を切り捨て。そして今度は、あの小さな少女を自分のために利用しようとしている。
嫌な思考を振り切るように湯船から立ち上がり、シャワーで体を流してお風呂を切り上げた。
時計を見ると一時間が過ぎていた。夕飯の予定時刻まであと三十分。
部屋に戻ろうと暖簾をくぐった瞬間、「沙紀様!」と自分を呼び止める声がして、沙紀は緩慢に振り返った。
呼んでいたのは、この旅館の従業員で、手に受話器を持っている。
「どうかしたの?」
「泰澄様からお電話です」
あいつか、と思わず舌打ちする。
苛立たしげに受話器を受け取り、人のいない空間にそれを耳に押し当てた。
「……もしもし」
『沙紀か。どうだ、順調か?』
「当たり前よ。それだけ?」
『いや、当主から伝言がある』
「なに? 連れ帰せって? わかったわ。明日には生家に帰して――」
『待て。皮肉を言うな』
冗談ではなかったのだが、遮られると本題を待つしかない。重々しく口を開く彼を想像しながら、彼女は眉間に深い皺を寄せる。
『絶対に無傷で連れて来い、と。どうやら"鬼"が気付いたらしい』
「……わかった。明後日には帰るから、ご馳走の用意しておきなさいよ」
心得た、と通話は切れた。受話器を従業員に返しながら、水晶を用意しておくよう伝える。
車の警戒を強めなければ、と彼女は唇を噛んだ。
「言われなくても、絶対守って見せるわよ」
*****
夕食は和食だった。野菜中心に手をつけていると、横から沙紀が肉を取り皿に入れてくるものだから、命は腹八分を破ってしまった。
九時まで、沙紀が着けた面白さもよくわからないテレビのバラエティー番組を見ながら過ごした二人は、並んで眠った。
夜中、命が寝苦しくて起きると、布団の中に沙紀が入り込んで彼女に巻き付いていたのだから仕方ない。
結局、動かすこともできずそのまま眠った。
力一杯抱き締められて痛む腕をさすりながら、朝食を口にする。これも和食で、命の好きな赤味噌の味噌汁があったものだから、それを大事に大事に飲んでいった。
「今日で大分進むわよ。昼ごはんと飲み物は頼んでおいたから、自由にしといてね」
がつがつと礼儀を無視した食べ方をする彼女の緊張感のなさにほっとし、命はお茶をすする。
彼女はきっとどこでも変わらない。頼りにするにはもってこいのタイプだ、と命は勝手に信頼する。
「よし、着替えようか」
手早く着替える沙紀につられて、もたもたと命も服に袖を通す。
簡素なワンピースを、沙紀はやたら褒めちぎっていた。
そして来たときと同じように、従業員全員に見送られ、二人は旅館を後にした。
――同時刻。
「まだか」
不機嫌にそうこぼしたのは、圧倒的な存在感を放つ秀麗な青年だった。
もう何度目かのその言葉を、彼は飽きることなく口にする。
「当主、明日には到着します。ご辛抱を」
「聞き飽きた。わかっている。愚痴ぐらい付き合え、泰澄」
「それは愚痴とは言いません。八つ当たりです」
真っ当なことを言われると、彼は笑った。
「仕方ない。仕事するか」
「お願いします」
彼はまたすぐに、八つ当たりする。
大分遅くなりましたが、晴れて更新再開です。
幸い書き溜めがあるので、更新停滞することはまだないと思います。
二日~三日ごとの更新を目指します!
ありがとうございました!!




