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龍の花嫁  作者: おはなし
第一章 嫁入り
29/42

当主さんがかっこよくない

 夜になった。

 沙紀はまだ帰ってこない。


 夕食もあまり喉を通らず、泰澄には心配され、当主には注意された。

 結局、昨日一昨日のように当主の部屋に行く気にもならず、一人自室でどんよりしていた。

 何度となく自分を救ってくれた沙紀が傍にいないのは、何よりも心細い。

 温もりを感じない存在が近くにいないことなんて日常茶飯事だったはずなのに、ここ一週間足らずで随分と変わったものだ。


 いっそのこと、神呼をして誰かに来てもらおうか。


 けれど、アフロディーテは先日呼んだばかりだし、アテナは最近新たに知識を植え付けるのに忙しいらしい。マリアナは基本的に面倒くさがりだから、こんな理由では来てくれない。


 そんなことを延々と考えていたら、いつの間にか時計の短針は頂点にあった。

 長い間引きこもっていたトイレを出て、寝室に入ってみると布団が敷かれている。一人分だけ。

 そのもの悲しさにまた泣きそうになってしまうのだが、いかんせん眠たい。微睡んでしまうのは生理的現象だ。

 熱に浮かされたようにのろのろと布団に歩み寄る。これを誰が用意してくれたのかなんて、考えもせずに。


「あれ? 命、どこにいたの?」


 布団に潜り込んでしばらくして、誰か女性の声が聞こえてきた。

 暗い部屋の襖を開けたから、線のように光が入ってきた。命は眠りの淵に立っているようで、開けようとしても瞼が持ち上がらない。


「寝てて。起こしてごめんね。ってか熱! 熱あるじゃないの」


 額に触れた冷たい手をもっと感じていたかったが、次は熱く上気した頬に両手が当てられ挟まれる。


「もう、なんでこうあたしがいない間に……。やっぱり、命からは目が離せないわね」


 どことなく嬉しそうにそう呟いた彼女が、はっきりと視認できない。瞼が重くて、体が熱い。いろいろ考えすぎたせいだ。


「さきさ…、おかえり」


 眠気と戦いながらそう口にした命に、沙紀は相好を崩した。「おかえり」と迎えてくれた。その事実が、求婚プロポーズされたときよりずっとずっと嬉しくて。

 気づけば沙紀は、今日あった辛い現実を一瞬だけ忘れて、命に笑顔を見せていた。


「ただいま、命…」


 すると、彼女はむふっと満足げに息を吐いて、静かに眠りの中へと落ちて行った。


 あと、二日。


 *****


 沙紀さんが帰って来た、と朝になって目覚めた頭で再確認すると、命は泣きながら沙紀に抱き付いた。

 高い熱と感動からそういう行動に出てしまった命は、またしばらくして眠りについた。深く眠り込んでいながらも、逃がさないようにと沙紀の服の裾を掴む彼女に苦笑しつつ、悟られないよう静かに桜の間を出た。


 当主に話さなければならないことがある。正直伝えたくはなかったが、半ば強引に出かけてしまった詫びとして話さなければならないだろう。

 いきなりドアを開け放ち、どかっとソファに座る彼女を止めるものは居なかった。


 いっそふてぶてしいくらい堂々と当主の執務室に入り込んできた沙紀を、ため息を吐きながら迎えたのは当主だ。むしろ勝手にしろ状態に近い。

 沙紀は、長居はしないとばかりに、いきなり本題を投げつけた。本来ならば、もっと弁えるべきなのだが。


「除霊については聞けたわ。やはり『青龍を目覚めさせる』には、神呼が一番ね。除霊では引き剥がしてしまうから」

「なるほどな。わかった」

「用意してほしいものがあるわ。銀の鋏と、翡翠の針、絹の糸。儀式でつかうものよ。あと、当日には神楽家から数人、祈祷師が来るわ」

「何時頃から始められる」

「神楽家の神力が一番高まる時間は、月が昇り始める頃だそうよ」


 当主は頷き、了承の意を伝えた。

 意外とすんなり話が進んだことも珍しく、彼が考えの甘さを指摘しないのも珍しかった。

 沙紀は、書類に判を捺そうとする当主の手元を見てため息を吐く。


「印が逆さよ」


 一瞬動きが停止して、一度それを手元から離した。落ち着こうと息を吐く。


「そんなに気になるなら行けばいいじゃない。歓迎はしないけど、仕事に支障が出るよりは余程ましよ」


 激励のような、嫌味のような。

 当主は不機嫌に頷き、椅子から立ち上がった。沙紀の横を通って部屋を出ていこうとした。

 その背中に言葉を投げる。


「触るんじゃないわよ」


 ある種の忠告を孕んだその台詞を当主は無視した。


命に、という意味です。

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