味方
ちょっと長めです。
「…それで? 主は拗ねてるのか?」
からかうような響きで、雷城伊吹は問いかけた。昨日出会ったばかりの、何年も前から待ち焦がれた主に。
まさか昨日の今日で、この牢部屋の並ぶ地下室に彼女がやってくるとは思ってもいなかった。一人きりでやってくるとも。
よく見なくてもわかっていた。命にとって、沙紀はここへ来たときから、命綱だったのだろう。ずっと、一緒にいたいと思っていたことも知っている。実の姉よりも、命のことを理解しようとしてくれていた。
それが突然、いなくなった。あまりにもいきなりで、信じたくなくて、慣れない屋敷の中を歩き回った。
かすれた声で彼女を呼び、転びながら彼女の足音を探す。まるで親を見失った迷子の子どものようだということも理解していた。
けれど。
「拗ねてる、の、かな…」
「うーん、拗ねてるっていうか、絶望してるっていうか」
「絶望…」
そうかもしれない。わたしは、絶望しているのかもしれない。
信じていた。片時も離れない人だと。自分が当主に捨てられても、神楽家まで「せいせいしたでしょー」とでも明るい笑顔で言いながら、見送ってくれる人だと。
そう言うと、伊吹は苦笑して、ずいぶん具体的だなあ、とからからと笑った。
「でもなあ、主は沙紀に捨てられたわけじゃないだろー? 一日くらいで、なんでそんなに怖がるんだ?」
だって、と抱えた自分の両膝に顔をうずめて、くぐもって涙ぐんでいるようにも聞こえるような声で、自分の不安も打ち明ける。
「―――だって、沙紀さんがいてくれて、わたしはとても、救われて。敵ばかりじゃないよ、って教えてくれて、わたしのために当主様とだって言い争ってくれて…。そんな人、見たことなくて初めてで。神様だって、終わった後に慰めてくれるだけだったのに、あんな偉い人に真正面から…」
一番に頼りにしていた人が、いなくなったことで生じてしまった、恐怖、寂しさ、絶望、切望。
「だから、味方でいてくれるって言ってくれた人だから、例えたった一日でも、離れていたくなかったの」
つまり、命は一日でも離れていたら、心変わりして味方だと言ってくれなくなることを恐れているのだ。
それを世間一般には“独占欲”というのだが、もちろん命が知るわけもない。ただ、恋より強く焦がれるだけだ。ずっと傍にいてほしいと。
そんな命の心情を的確に摘み取った伊吹は、彼女の不器用な直向きさに声を上げて笑った。
ああ、可愛い。どうしてこんなに悩むのだろう。二人のあの様子を見れば一目瞭然だった。命は、近い将来夫になる当主より、刷り込みのように沙紀を味方に欲している。それに離れるのはたった一日だというのに、一生の別れみたいに。
ああ、駄目だ。可笑しい。可笑しくて可愛い。まるで兎だ。寂しがり屋な兎。
「主、不安になる前に、一度部屋に戻ってみるといいよ。それで眠るといい。今までが夢だったみたいに思えるさ」
「……うん」
少しでも慰めてあげたくて、柵の間から手を伸ばして頭を撫でる。全ての不安を取り除くには足りないけど、少しでも、彼女の不安が和らぐように。
「ありがとう、伊吹さん…」
*****
部屋に戻ってみると、案外落ち着いたもので。そういえば今日は一度もここへ戻ってきていなかったと考える。
思えば大胆なことをしたものだ。人目もはばからず歩き回って、彼女を探すなんて。
そして結局見つからず、明日には戻ってくるという言葉も信じられないまま、桜の間に戻ってきてしまった。
堪えきれずにため息をこぼしながら、板張りのリビングに行き、することも見つからないので、とりあえず久しぶりに新聞でも読んでみようかと手を伸ばす。
そして気づく。明らかに新聞でも、手紙でもないものに。メモ帳に、走り書きで書かれていたのは、命に対する言葉だ。
ガッと机ごと引っ掻くような勢いでそれを手に取り、目を見開いて読み込む。サッと一度目を通し、何度も読み返した。穴が空くほど見つめて、手を握り締めていたせいでくしゃくしゃになってしまっていたところを手で延ばす。
その手に、透明な雫が1粒落ちた。ぼたぼたと零れる大粒の涙がメモの上に落ちると、滲んで字が見えにくくなる。涙で目元が潤み、視界がぼやけているせいでもあるけれど。
「……沙紀さん、どこ…」
会いたいよ。足りない。文字じゃ全部伝わらない。やっぱり、言葉が欲しい。嘘偽りのない、強い言葉をぶつけて欲しい。
ああとても、欲張りになってしまったなあ。
もう少しだけ、この日々を。
「まだ…まだ、終わらないで」
願おう、強く。
『あたしは命の世話係だから、傍にはなくても近くにいるよ。だから、少しだけ待っていて』
*****
―――高良家。
彼女の目の前には、一人の女性が気だるげにソファにしなだれかかっていた。
手入れの行き届いた黒髪に、象牙色の肌。どこか影を感じさせる美貌の女性だ。そしてどこか、命に似ていた。
「高良天様。教えていただきたいことがあり、参りました」
彼女は反応せず、疲れたように虚空を見ていた。その瞳には何も写していないように見える。
「天様」
動かない。名前を呼ぶ者も見ようとはしない。
「……天様」
遂に呆れ混じりに諦めた彼女は、あの子の名前を出せば反応もするだろうと、最終手段に出た。
「命さ…っ!!」
言い終わらないうちに、頬を何かが掠めた。たらりと赤い液体が滴り落ちる。
ちらりと背後を盗み見れば、そこの畳に花をあしらった簪が突き刺さっていた。
薄ら寒いものを覚え、その簪を投げつけた張本人を見やる。先ほどの虚ろさが嘘のようにこちらを睨み、苛立ちを顕にする彼女。
ようやく話ができる、と片頬を吊り上げた。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
「……龍ヶ峰の人間に、話すことなどないわ」
ありありとした拒絶を受け入れ、それでも引き下がるわけにはいかないと歯を食いしばった。
負けたら、顔向けができない。負けるわけにはいかないのだ。
「神呼の儀式について、教えてもらいたいの」
人にものを投げちゃダメなんですよ?




