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夜伽の国の月光姫  作者: 青野海鳥
【第三部】セレネ、帰郷する
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第60話:母親

 月光姫セレネが死の呪いを跳ねのけ生還し、ヘリファルテをはじめとする国民達に大きな感動と勇気をもたらした。セレネは最早、幼いながらも聡明な美姫というレベルではなく、再生の象徴といえる聖女のような存在になっていた。


 そのセレネはというと……


「ねえさま、おっぱい……」

「あらあら、セレネは甘えん坊さんね」


 姉であるアルエに身を預け、頭をおっぱいに押し付けていた。

 つまり、まるで成長していなかった。


 セレネはヘリファルテにおける最重要人物である。だから、ふかふかのベッドやソファ、玉座に座った事だってある。だが、所詮やつらはただのふかふかに過ぎない。


 アルエの肉体は、ふかふかな上にもちもちで、しかもぷるんぷるんしよるのだ。

 おまけに温かくていい匂いがするし、これに比べたら王室の調度品などただの加工品だ。

 セレネにとって最高の玉座は、アルエの胸の中なのである。


 今、セレネはアルエの在籍している国立大学の一角にあるカフェテラスの、木陰の所でアルエに抱きかかえられるような形でくつろいでいた。日差しに弱いセレネのため、アルエは風通しがよく、それでいて日を避けられる場所を選び、愛らしい妹を受け止めている最中だった。


 その横では、セレネの忠実なる鼠の執事バトラーが、のんびりと丸くなってくつろいでいた。

 といっても、セレネに何か危機が起こった時にはすぐ飛びだせるよう、常に警戒態勢ではいるが。


 金の髪を持つ美しいアルエと、白磁(はくじ)のような髪と深紅の瞳を持つセレネの姉妹が、仲むつまじく戯れている様子を、他の学生たちもバトラーと共に微笑ましげに見守っている。


 まるで絵画のような美しい光景であった。少なくとも外見上は。


「あ、いたいた」


 その時、不意にその二人に声を掛ける人物が現れた。

 バトラーは耳をぴん、と立て警戒するが、すぐにその体勢を解く。


「あ、シンニ」


 セレネの声に呼応するように頷いたのは、真っ黒なローブと、真っ赤なくせっ毛を持つ釣り目の少女シンニであった。シンニは、かつてこの姉妹と敵対するような立場であったが、今ではそれはすっかり無くなっている。余談だが、セレネはまるで気付かぬまま事態は丸く収まった。


「相変わらず毎日楽しそうね、あんた」

「あたぼうよ」


 セレネはべらんめぇ口調で、親指を立てながらアルエの乳に沈んでいった。

 相変わらず変な奴だ、とシンニは苦笑する。


「といっても、今日はあんたに用があるわけじゃないわ。アルエ様、これ」

「これは……手紙?」


 シンニはローブの中をまさぐり、一通の封書を取り出し、アルエに手渡した。


「アルエ様の留守中に郵便屋が来たから、私が預かっておいたわ。なんだか大事そうな手紙だったし」

「あら、ありがとう」

「べ、別に……その、お世話になってるし……」


 アルエが柔和な笑みを浮かべると、シンニは頬を赤らめてもごもごと呟いた。

 アルエとシンニは寮の部屋が隣同士なのだが、かつては世話焼きのアルエをうっとうしく思っていた。だが、今はお互いよき隣人として過ごしている。


「じゃ、じゃあ、私はこれで!」

「シンニ、カモン!」

「行かないわよ!」


 ちっ、とセレネは小さく舌打ちした。


 美少女は多ければ多いほどいいというのがセレネの持論なので、せっかくシンニが来たんだからもっといてくれてもいいのに。そう思ったのだが、現実は厳しい。


 これで厳しいとか、どんだけ現実を舐めてんだと突っ込みたい。

 そんなセレネは置いておいて、アルエは封書の差出人を確認する。

 事務連絡の手紙と違い、良質な紙を使っている辺り、確かに大事そうな手紙に見えた。


「あら……アイロネ様からだわ」

「アイロネ? だれ!?」


 誰だそいつは。セレネは胸の谷間から顔を上げ、アルエを真っ直ぐに見る。

 ただでさえ対ミラノに劣勢だというのに、これ以上余計なライバルが出てきたら大変である。何より、セレネの脳の許容量は少ないので、いちいち名前を覚えるのも面倒だった。


「……お母様の事よ」

「ああ、おばさんか……」

「お、おばさん……?」


 アルエはセレネの言葉に表情を曇らせたが、セレネは気付かず、ほっと胸を撫で下ろした。

 名前を聞いてようやく思い出したが、アイロネ=アークイラは、アークイラの女王。

 つまり、アルエとセレネの実の母親である。


 実の母親であるのだが、セレネは生まれた時から、微妙に役に立たない前世のおっさんの記憶を引き継いでいたので、生まれた瞬間に妹が生まれたと喜ぶ美少女アルエに一目ぼれしてしまった。


 それからは、生きていくのに仕方ないし、おっぱいはおっぱいだし、吸えるときに吸っておくべきであると判断し、アイロネの授乳で育てられた訳だが、ある程度育つと気味悪がられ隔離される羽目になったわけだ。


 セレネからすれば、おっぱいは好きだが食べ物のミルクは好きではない。

 早くから揚げとか脂っこい肉が食べたかったので、成長的な意味での乳離れは早かった。

 ただし、精神的な乳離れはおそらく一生できまい。

 

 とにかく、実の母親よりアルエにご執心なセレネとしては、二人の子持ちのアイロネ女王ではなく、美少女のアルエに懐いた。


 現代風に例えると、旧世代ガラケー(母親)からiPhone(アルエ)に速攻で乗り換えたのである。仮にも母親をなんだと思っているんだこいつは。


 とまあ、そんな感じで、セレネにとってアイロネ女王は比較的どうでもいい存在だった。

 だが、それはセレネからすればであって、周りはそう捉えていない。


「セレネ、そろそろ午後の授業が始まるから、今日はこのくらいにしておきましょうね」

「うぅ、わかった」


 しぶしぶといった感じで、セレネは名残惜しそうにアルエから身を離す。

 さすがのセレネでも、最愛のアルエに迷惑をかける事は避けたかった。

 セレネとて、そのくらいの分別はあるのだ。むしろそれくらいの分別しかなかった。


「じゃあね。気を付けて帰るのよ」

「うぃ」


 アルエは笑顔で手を振り、セレネに背を向けて去っていった。

 セレネに顔を見られなくなった後、アルエは、


「おばさん……お母様を、おばさん……」


 浮かない表情でそう呟いた。その言葉を、バトラーの鋭敏な聴覚は聞き逃さない。

 何より、アルエの考えている事が、バトラーにはよく理解できていた。


『姫、女王の件ですが……』

「なに?」

『いえ、その……気にならないのですか?』


 バトラーは、彼にしては珍しく、言葉を選ぶように言い淀みセレネに話しかけた。

 セレネは実の母親を『おばさん』と呼ぶのだ。

 それはつまり、それだけ母親と精神的に距離が離れているという事の証明である。


(私とて、若い頃は皆に迫害されても母親だけは優しかった。だが、姫はそのぬくもりすらろくに知らないのだ……)


 バトラーは、内心で心を痛めていた。

 主は歳とは不相応なほどに聡明で、かつ類まれな美貌を持った、神に愛されし存在である。

 だが、いくら神に愛されようが、母親の愛を得られないほどつらい事は無いだろう。


 アルエに甘えるのは、母親を求める代償行為。バトラーはそう考えていた。

 しかし、姉は姉であり、決して母親ではないのだ。


 無論、セレネは純然たる性欲によりアルエの乳房を求めており、それ以上の意味はまったくないのだが。


「ねえさま、いる、だから、へいき」

『左様でございますか……』


 そう言って、セレネはバトラーの頭を人差し指で優しく撫でた。

 屈託のない笑顔はまるで嘘を吐いていないように見えるが、その奥には深い悲しみがあるに違いない。

 バトラーはそう信じ切っていたが、セレネにそんな懊悩(おうのう)は存在しない。

 

 セレネにとっての深い悲しみは、夕飯が焼肉だと思ったら野菜サラダだったとか、マリーと一緒にお風呂に入ろうとしたら、タイミングが合わなかったとか、そういう事である。


 母の愛を得られず、それでも気丈に振る舞うセレネに対し、バトラーはそれ以上追及する事をやめた。仮に母親に愛されたいと願ったとしても、それは自分ではどうにもならない。


 かえってセレネの心の傷をえぐることになる。だからバトラーはそれ以上何も言えなかった。

 

『姫、私ではわずかな力にしかなりませぬが、姫のためとあらば、このバトラー、身を粉にして尽くす覚悟があります。どうかお気を落とさず』

「お、おう……」


 セレネはなんだかよく分からず、目をぱちぱちと瞬かせた。

 確かに、アルエの身体をもっと堪能していたかったのは事実だが、何もそこまで励まさなくてもいいのに。


 セレネは手を伸ばし、バトラーを肩に乗せ、帰宅用に用意された馬車に乗り込んだ。

 この時点でアイロネ女王の記憶は宇宙の彼方に吹き飛び、ブラックホールに吸い込まれ忘れ去られた。


 その頃、ヘリファルテ王城では、ある重大な会話がなされていた。


 調度品などはほとんど無いが、どこか荘厳な雰囲気を醸し出す謁見(えっけん)の間には、獅子王シュバーン、王妃アイビス。そして、聖王子ミラノの三名という、この国の中枢である人物が集まっていた。


 一番先に口を開いたのは、玉座に堂々と腰を下ろしたシュバーンだ。


「さて、ミラノよ。今日、お前を呼び出した理由が分かるか?」

「いえ……申し訳ありません」


 ミラノにとって、シュバーンは厳しくも優しい父親であり、同時に尊敬する王である。

 急に呼び出されたという事は、自分に何か問題があったのだろうかと考えたが、ミラノにはその理由が思いつかない。至らない所は多いが、日々の研鑚(けんさん)は続けているつもりだった。


「あなたったら、そんな仰々しい口調で言ったらダメでしょ。ほら、ミラノだって緊張してるじゃない」


 そんな男二人を面白がるように、アイビスはのほほんと微笑んでいる。

 どうやら、問題を起こした訳ではないらしいと分かり、ミラノは内心で安堵した。


「うむ……そうなのだが、重大な事であるのに変わりは無いからな」


 シュバーンも少し肩の力を抜き、先ほどよりいくらか緩い口調でそう答える。

 そして、少し間をおいた後、ミラノにこう告げた。


「お前とセレネの婚姻についてだ」

「こ、婚姻!?」


 そう言われ、ミラノは涼しげだった表情を崩し、あからさまに狼狽(ろうばい)した。

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